福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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4月25日 ≪復活節第4主日礼拝≫ 『探し求めていた』マタイによる福音書13章44~52節 沖村裕史 牧師

4月25日 ≪復活節第4主日礼拝≫ 『探し求めていた』マタイによる福音書13章44~52節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏     キリストは死の縄目につき (H.グラープナー)
讃美歌     19 (1,4節)
招 詞     イザヤ書12章2~3節
信仰告白          使徒信条
讃美歌     321 (1,3節)
祈 祷
聖 書     マタイによる福音書13章44~52節 (新26p.)
讃美歌     452 (1,2節)
説 教     「探し求めていた」 沖村 裕史
祈 祷
献 金     65-2
主の祈り
報 告
讃美歌     522 (1,3節)
祝 祷
後 奏     キリスト·イエスは (志村拓生)

 

≪説 教≫

■畑の宝

 何物にも代えがたい宝として、天の国が描かれます。

 「天の国は次のようにたとえられる。畑に宝が隠されている。見つけた人は、そのまま隠しておき、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買う」

 パレスチナでは、今と同様、戦争や紛争が何度も起こり、そのたびに軍隊による略奪と暴力が繰り返されていました。貴重品を預かってくれる「貸金庫」を備えた銀行などありません。高価な宝は素焼きの壺などに入れて土の中に隠すというのが簡単で、比較的安全な方法だったようです。野良仕事をしていたその畑で宝を見つけた人、農夫は喜びます。

 農夫にとって、畑は「日常生活の場」「人生」そのものです。いかにも神秘的な山とか、絢爛豪華な建物の中ではなく、日常のありふれた生活の場にこそ「隠された宝」はある、と言われます。ただ、わたしたちは忙しい生活に追われ、あるいは「自分の考える宝」を追いかけるばかりで、この「隠されている宝」に気がつきません。それでも、たとえわたしたちがそれに気づかなくても、その畑の中に「宝」はあるのです。

 しかも「隠された宝」に譬えられているのは「天の国」です。「天の国」とは「神の国」のこと、神の永遠のいのち、神の愛の力が、あらゆるものを包み、支配する世界のことです。神の恵みと祝福に溢れる世界です。

 このとき、農夫が「隠された宝」を見つけることができたのは、全くの偶然、たまたまでした。探し求めていたのではありません。ありふれた日常生活の中にそんな宝があるなどとは思いもよらないことでした。自分では背負いきれない重荷に押し潰されてしまいそうになる時があります。自分の犯した過ちのために、悲しみや消えない傷を抱えることもあります。明日のことを思い煩う日々、それがわたしたちの日常生活です。そんな日々の中で、思いもかけず宝を見出し、天の国の福音に触れたのです。

 聖書の中には、福音とのそんな出会いを経験した人が何人もでてきます。漁から戻っていたペトロたちに「人間を取る漁師にしてあげよう」と声をかけてくださったのは、イエスさまでした。徴税人のマタイも同じでした。何の前触れもなく、「収税所に座っていた」マタイにイエスさまが「わたしに従いなさい」と呼びかけられました。イエスさまとの出会いは、一方的なものでした。弟子たちには何の準備も、用意も、心構えもありません。宝は隠されていました。人の目には見えませんでした。イエスさまが近づき、声をかけてくださって、その宝が、天の国の福音が、神の愛の御手が、今ここに差し出されていることに気づかされ、喜びにあふれて立ち上がり、従って行きました。

 

■高価な真珠

 商人もまた同じでした。

 「また、天の国は次のようにたとえられる。商人が良い真珠を探している。高価な真珠を一つ見つけると、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買う」

 商人は「良い真珠を探してい」ました。真珠は、養殖真珠が多く出回っている現代と違い、古代では「宝石」と同じようにとても貴重で、最高の価値を持つものの代名詞でした。商人は、その中でも「良い」ものを探し求めていました。長い間、ずっと探し求めていた「高価な真珠」をようやく見つけたその人が大喜びをしたのは、当然のことです。

 イエスさまは「求めなさい。そうすれば、与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。門をたたきなさい。そうすれば、開かれる」(7:7)と教えられました。探し求めることは大切なことです。祈り求めることを神は喜んでくださいます。しかし祈ったからと言って、自分の願いや求めが必ず叶えられるとは限りません。イエスさまは続けてこう言われました。親が「パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。…まして、あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(7:10-11)。この「良い物」が、自分の思いや願いと違っているということもあるでしょう。親は、子どもにとってその時々に最もふさわしい物をしっかりと吟味して与えるものです。ましてや天の親です。神は、わたしたちの願い、思い以上のものを与えてくださるお方です。

 商人は良い真珠を探していました。熱心に探し求め、祈り求めてきたものが見つかったときの喜びはひとしおであったでしょう。しかしそれは、彼が熱心に探し求めていたから見つかったというのではありません。「探しなさい。そうすれば、見つかる…あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」と言われた通り、すべては神が、わたしたちの願い求めているもの、それも最良のものを、天の国、神の救い、神の愛を与えてくださるのです。

 

■すべてを売り払って

 福音を偶然に聞く者があり、また自ら探し求めて聞く者があります。福音と出会う、その経緯は人それぞれです。一人として同じ道はありません。しかし、「持ち物をみな売り払って」買うほどに、どれもが尊く、かけがえのない、何ものにも代えがたいものです。

 畑の隠された宝を見つけた農夫は、喜びながら帰り、持ち物をすっかり売り払って、その畑を買いました。彼の畑ではなかったのでしょう。主人からその畑の耕作を請け負っている小作人に過ぎません。その貧しい小作人の彼が、爪に火を灯すようにして、汗水流して得たものを何一つ残さず売り払いました。後には何も残りません。彼はすべてを失っても、あの「宝」が隠されている畑、それがあれば充分だったのです。

 探し求めていた高価な、たった一つの真珠を見つけた商人も、出かけて行って持ち物をすっかり売り払い、それを買いました。この商人にとっても、この真珠一つさえあれば、それで充分なのです。後は何もなくても良いのです。

 そうです。すばらしい「宝」を見つけたなら、だれも黙ってはいられません。今まで、わたしの心を占めていた「宝」がすべて、色あせて見えます。持ち物全部を手放してでも、手に入れたいと思うものです。この「宝」は、すべてを犠牲にしても、惜しくないはずのものなのです。

 この譬えは、天の国、神の国を見出すことが、どれほど大きな喜びであるかを物語っています。と同時に、その「高価な真珠」を見つけ、「隠された宝」に気づいたときに、農夫と商人、ふたりと同じように思い切ることができるかどうか、人生において何を優先するのかが、問われることになります。天の国の譬えは、そうした信仰的決断をわたしたちに求めてきます。

 

■世の終わり

 その決断のためにこそ、イエスさまは、ここまで語ってきた、天の国、神の支配の譬えの締め括りとして、終りのときの審きを示唆する、47節から50節の譬えを語られます。

 「網が湖に投げ降ろされ、いろいろな魚を集める」とあります。集められた魚には、良い魚も、悪い魚もいます。売り物になる魚、売り物にならない魚ということでしょうか。その両方すべてが混在しています。49節の言葉で言えば、「正しい人」も「悪い者ども」ということです。その両方が混在するこの世界の現実を、またすべての人を受け入れている、現在の教会の姿を現しています。

 そして49節、「世の終わりにもそうなる」とあります。世の終わりの時には、「天使たちが来て、正しい人々の中にいる悪い者どもをより分け、燃え盛る炉の中に投げ込むのである。悪い者どもは、そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」とあります。「『毒麦』のたとえの説明」にあった42節とそっくり同じ言葉が繰り返されます。

 厳しい響きの言葉です。「もしかすると、自分も燃える炉の中に投げ込まれるかも」と不安を覚えた方もあるかもしれません。

 ときに、世の終わりのときに、イエス・キリストを信じないで人生を終わった後に待ち受けているのは恐ろしい神の裁きだ。その裁きから免れるためにイエス・キリストを信じなさい。こんなメッセージを耳にされることがあるかもしれません。まるで「永遠の裁き」というピストルを突きつけられ、「さあ、信じるか、信じないか、どうなんだ」と回心を迫られているようです。

 しかしわたしたちが信じ、イエスさまに従う生活をするのは、世の終わりの裁きが恐ろしいからではなく、それ以上のこと、イエスさまの譬えにある、素晴らしい宝物を発見したからです。だからこそ、持てるものをすべて注(つ)ぎ込んででも、その喜びに連なりたいと願うのです。

 イエスさまが宣べ伝えられた「天の国」の福音は喜びに満ちた知らせです。イエスさまが「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」(5:45)と言われたように、ただ神の愛ゆえに、正しい者も悪い者も、いのち与えられたすべて者が、罪赦され、神の救いへと招かれているのです。それこそが天の国の福音です。

 この譬えが言わんとしていることは、終わりの日の審判を指し示しつつ、そこから現在のわたしたちの姿をもう一度見直すことです。世の終わり、それは天の国、神の救いが完成するときです。それはイエス・キリストが再び来られる裁きのときでもあります。そのとき、正しい人と悪い者たちが分けられます。しかしそれは神がなさることです。わたしたちにできることではありません。わたしたちはしばしば、神の支配を現すために悪い者は排除しなければならないと考えます。しかしそれは、わたしたちのすることではありません。

 わたしたちに求められていることは、人を裁くことではなく、悔い改めること、神の福音にすべてを委ねることです。わたしたちの世界からどうして悪がなくならないのか、わたしたちはどうして悪から離れられないのか。そんな現実を生きる他ない、わたしたちです。しかし神は、そんなわたしたちを見放しておられるのでも、無視しておられるのではありません。イエスさまはただ、ただ今ここで、「天の国」の福音に、神の支配、神の救い、神の愛の中に生きるようにと心から祈り願いつつ、終わりの時の譬えを語っておられるのです。

 

■天の国は今ここに

 だからこそ、最後にこう尋ねになりました。「あなたがたは、これらのことがみな分かったか」。弟子たちは「分かりました」と答えます。すると、イエスさまはさらにこう宣言されます。

 「だから、天の国のことを学んだ学者は皆、自分の倉から新しいものと古いものを取り出す一家の主人に似ている」

 農夫であり、商人であり、漁師であった、ごく平凡な、貧しい者であった弟子たちが「天国のことを学んだ学者」と言われます。驚きですが、実は、「天国のことを学んだ」という言葉を直訳すると「天国に弟子入りした」という意味になります。弟子として学ぶということで、すべてをすでに習得した者というのではありません。自分たちの知識に胡坐(あぐら)をかいていた律法学者たちのようではなく、どこまでも教えを受け、学び続ける者、探し求め続ける者たちということです。

 その人たちは、「新しいものと古いもの」を自由に用います。「もの」とは「宝」と訳される言葉です。旧約以来の聖書的伝統としての古い宝を捨てるのではありません。律法は、イエス・キリストの光の中で新たな、本来の意味をもつ宝となります。イエス・キリストの赦しと愛を知った者は、新たな、本来の戒めに生きます。旧い価値観の中で蓄えてきた宝を用い、しかし新しい天の国の宝によって、過去ではなく、今と未来に生きるのです。

 この譬えの解き明かしを聞いていた弟子たちは、イエスさまに勧められるままに、家も財産も捨てて、イエスさまに従って歩んでいました。この先どうなるのか、よく分かっていませんでした。ただ、イエスさまだけは信頼できました。だから従って歩んで行けたのです。

 イエスさまは今、弟子たちに向かって何かを命令しておられるのではありません。イエスさまのこれらの言葉には、命令形の文章は一切ありません。「真珠を探せ」とか、「さあ、畑に行って宝物を探せ」と命令なさったのではないのです。ただ事実を語っておられます。「あなたは、わたしという宝を見出した。あなたがたはすでに天の国、神の支配の中に生きている」と。

 神は天におられると共に、ここにもおられます。わたしたちの生活の中にいてくださるのです。生かされ生きている今ここに、天の国、神の支配、神の救い、神の愛、イエス・キリストの支えと導きを、日々、探し求め、そして発見したい、そう祈り願います。