≪説教≫
■死ぬこと
今、ここを生きているわたしたちの誰も、自らの死を経験した者はいません。経験したこともないわたしたちが、死をどのように理解し、受け入れることができるのか。それは、愛する者の死を通して、です。それ以外に方法はありません。
愛する家族を、かけがえのない友を失った。大切なものをなくしてしまったという経験は言葉にならない大きな悲しみ、苦しみです。わたしたちはその痛みから容易に解放されません。時に生きる気力、生きる意味を奪い去ってしまいそうになります。
その一方で、天に召された方たちの「記憶」は、時とともに確実に削ぎ落とされていきます。寂しさと後ろめたさを感じるとしても、そのことはどうしようもないことです。いえ、むしろ大切なことだとさえ言えるでしょう。記憶が徐々に削ぎ落とされていくことで、逆に、一緒に暮らしていたときには隠されていたものが見えてきて、本当に大切で、かけがえのないことだけが、わたしたちの心の底に、深く、さらに深く沈み込んでいくように刻み込まれていくからです。
先に天に召された方のことを思い起こすことでわたしたちは、誰も避けることのできない死を、自らの死をしっかりと見つめるようになります。そして、生きていることの意味、神から与えられた「いのち」の、生かされ生きている「いのち」のかけがえのなさに気づかされ、真実の希望に導かれます。死や苦難ゆえの疑いや苦しみのただ中にあってなお、そのすべての思い煩いを神のみ前に投げ出し、いのちの神にすべてを委ねる、その信仰に生きることの深い恵みを味わうことができるようになるはずです。
とは言いながら、神にすべてを委ねることは決して容易なことではありません。そうできないばかりか、苦難や死の出来事に直面するとき、わたしたちは、目に見えるものに囚われ、自分の経験に縛られて、果ては、神などいないと言わんばかりに、現実をただ自分たちに都合よく解釈し、ただ自分の理解できる枠の中で説明し、何とかしてやり過ごそうとするばかりです。
■復活はあるか
そんなわたしたちに、イエスさまが今、こう語りかけられます。29節、
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」
「思い違いをしている」プラナーオーという言葉は、もともと「迷い出る」「横道にそれる」という意味で、単なる勘違いというのではなく、大いに誤っている、大きな過ちを犯している、といったニュアンスを持つ言葉です。よくご存じの、百匹の羊の内の一匹が「迷い出た」というたとえ話の「迷い出る」という言葉が、この「思い違い」と訳されている言葉と同じです。「いのち」「復活」について、とんでもない思い違いをしているために、とんでもないところまで迷い出てしまっている、大きな過ちを犯している、そう言われます。ここでイエスさまとやり取りをしているのは、もちろんサドカイ派と呼ばれる人たちですが、この言葉は、今ここにいるわたしたちにも向けられています。
「復活」という教えほど、つまずきとなるものはありません。イエスさまの言葉や行いは感銘深い、考えさせられ、また聞き従うべきものだと思うけれど、「復活」ということだけはどうもいただけない。これさえ外してもらえれば、イエスさまの教えを学び、生き方を模範として歩もうということなら、自分もクリスチャンになれるのだが、と思っている方は少なくないでしょう。すでに洗礼を授けられた方の中に、今もそう思っている人がおられるかもしれません。
サドカイ派の人々も復活などないと考えていました。サドカイ派はファリサイ派と並ぶ、ユダヤ教の主流派の一つです。二つの派閥はもともと対立関係にあり、その対立点、争点が「死者の復活はあるか」ということでした。
サドカイ派は、「モーセ五書」と呼ばれる旧約聖書の最初の五つの書物、創世記、出エジプト記、レビ記、民数記、申命記だけを信仰の規範としていました。その後成立した父祖伝来の口伝を受け入れず、預言書すら二次的な価値しか認めません。そして霊の存在も、天使の存在も、死後の裁きも、復活も否定していました。モーセ五書に何一つ触れられていないから、彼らはそう主張しました。言われて見れば確かに、創世記もそうですが、死とは人の存在が消えてしまうこと、滅びるようにして土に帰ることだ、と書かれています。
それに対しファリサイ派は、モーセ五書以後に書かれた歴史書や預言書、また父祖以来の数々の言い伝えを受け入れていました。それらの中には、死者の復活を語っているものが数多くあります。そのことを根拠に、ファリサイ派は復活があると主張していました。
■つまずく本当の理由
しかし、復活をめぐる対立の根本には、何を正典、信仰の基準とするのかということだけにとどまらない、彼らが生きていた世界の違い、見つめている事柄の違いがありました。
サドカイ派は、「祭司職」を担う貴族階級です。祭司たちは、神殿での定められた祭儀をきちんと行なうことを第一に考えました。また自ずと支配者、権力者とのつながりも深く、保守的で、現状維持の姿勢を持つようになります。彼らは、今、自分たちが得ている高い地位や豊かな生活を守るために変化を嫌います。そんな彼らにとって、復活によって与えられる新しいいのちよりも、現在の生活と秩序の方が大切です。彼らが復活を否定するのは、それが聖書に書かれていないからというよりも、関心が現在の生活と秩序にあって、死後の復活に興味がない、いえむしろ、この世の生活、現在の秩序ではなく、死後の世界、新しい秩序を期待する復活信仰を危険視さえしていたからでした。
一方、「律法学者」でもあったファリサイ派は、律法を研究すると共に、律法に基づく生活を人々に教え、民衆が神の民イスラエルとしての自覚と誇りを持って、神に従って生きる者となることを目指していました。イスラエルの民は、何世紀にもわたる様々な大国による支配の後、今はローマ帝国の支配による苦しみと屈辱の中にありました。その人々に神の民としての誇りと自覚を持たせようとする彼らの目は自然と、将来の救いへと向けられます。今は、神の力が隠されているけれど、来るべき世にはそれがあらわになり、イスラエルの救いが完成する。そういう将来への希望を抱く彼らは、救いの完成のときに死者が復活することを信じ、受け入れるようになりました。
復活をめぐる問題は、その人がどこに身を置いて、何を大切にして生きているかという問題だということです。サドカイ派が復活を否定するのは、それが非科学的だからではありません。現世の生活と秩序を優先し、この世における人生のことだけを考えているからです。信仰も、この世での幸福に役に立つかどうかという目で見ています。そういう現世主義、この世の利益だけを求める信仰であれば、死者の復活など受け入れられるはずもありません。
わたしたちが復活のことを避けて信仰を考えようとする時にも、そういう現世中心の思いが働いてはいないでしょうか。復活が信仰のつまずきになるのは、わたしたちの思いがこの世の人生だけ、目に見えるものだけを見つめているからです。死者の復活など科学的にあり得ないというのは、実は本質的な問題ではありません。自分にとって、それが本当に必要なことだ、それこそが真実だ、なくてはならないものだと思えば、科学的であるかどうかということとは全く関わりなく、わたしたちは信じるのです。復活が信じられないのは、復活などいらないと思っているからです。この世の人生が、目に見えるものがすべてだと思っているからです。
■永遠のいのち
そんなサドカイ派の人々に、そしてわたしたちに、イエスさまは言われます。
「あなたたちは聖書も神の力も知らないから、思い違いをしている」
彼らサドカイ派は、聖書、少なくともモーセ五書は、舐めるようによく読んで知っていました。祭司として神に仕えてもいました。しかしイエスさまは、彼らが聖書も神の力も知らないと言われます。聖書をいくらよく読んで知っていても、この世の人生を充実させるための教えとしてだけ読んでいたのでは、聖書を本当に知っていることにはならないのです。また、神に熱心に仕えていたとしても、その神を、この世の生活を支え、充実させてくれる方として見つめるだけで、神の力が、この世の人生を越えたところまで、肉体の死の彼方にまで及ぶことを見つめようとしないのなら、神の力を知っているとは言えないのだということです。
思えば、イエスさまが人々に告げ知らせたことは、自身の栄光ではなく、ただひたすらに「天の国」の福音でした。それは、単なる理論や概念、倫理や人生訓ではありません。それは、イエスさまの目にはっきりと「見えている」神の力そのものでした。すでに「天の国」の祝宴が始まっている。天の国、神の支配、神の力が今ここにいるわたしたちにもたらされている。だから、悔い改めて、その喜びの知らせを告げ知らせなさい。
18章8節から9節の、イエスさまの言葉が思い出されます。
「もし片方の手か足があなたをつまずかせるなら、それを切って捨ててしまいなさい。両手両足がそろったまま永遠の火に投げ込まれるよりは、片手片足になっても命にあずかる方がよい。もし片方の目があなたをつまずかせるなら、えぐり出して捨ててしまいなさい。両方の目がそろったまま火の地獄に投げ込まれるよりは、一つの目になっても命にあずかる方がよい」
「命にあずかる方がよい」と二回繰り返されるこの言葉は、「天の国」について語られる一連のたとえの中に置かれています。つまり「天の国」とは、究極的には「命」のことなのです。この「命」は原文のギリシア語では「ゾーエー」という単語です。福音書では「命」を表すもう一つ別の単語があります。それは「プシュケー」です。「プシュケー」は「思い悩むな。命[プシュケー]は食べ物よりも大切であり、体は衣服よりも大切だ」(6:25)という有名な言葉に出てくる通り、人間が今、現に衣食住で生きている生命(いのち)のことです。それに対して、「ゾーエー」とは、人間が、これからその中へ「入って」いくべきいのち、いわゆる「永遠の命」のことです。しかし、それは「プシュケー」と別の生命(いのち)のことではありません。「今ここで」生きている命(プシュケー)を、神から与えられたものとして受け取り直したときの新しいいのち、神のもとにある永遠のいのちのことです。
■天にいる
だからこそ、イエスさまは、30節で「復活の時には、めとることも嫁ぐこともなく、天使のようになるのだ」とお答えになります。
ポイントは、「天使のようになるのだ」という言葉にあります。天使のようになるというのは、白い衣を着た、背中に翼のある者になるということではありません。口語訳聖書では「天にいる御使」となっていました。この方が原文に忠実な訳です。「天にいる」ということです。天にいるとは、神のみ手の内に置かれている、ということです。人間の目にはそのことが隠されていて、わたしたちはしばしばそれを見失います。しかし復活の時に、わたしたちも天使のようになる、つまり、神のみ手の内に置かれている恵みをはっきりと知る者にされるのです。
そして「復活の時には、めとることも嫁ぐこともない」とは、今のこの世でのわたしたちの人間関係が、復活の時には、神のみ手の内に置かれることによって、新しくされ、完成されるということです。この世の人生の中で、わたしたちは様々な人間関係に生きています。恵まれた、喜ばしい関係もあれば、顔も見たくないという問題に満ちた関係もあります。それらの関係が復活の時に、神のみ手の内に置かれることによって、あらゆる問題から解放されて、完成するのです。
復活というのは、様々な罪や弱さを抱えてこの世の人生を歩んでいるわたしたちが、神の恵みの力によって新しくされ、み手の内に置かれ、この世でどうしようもなくまとわりつく罪を拭い去られ、一切の苦しみや悲しみから解き放たれて、新しく生かされるということです。その復活を信じて待ち望むことが、わたしたちの信仰です。
■生きている者にしてくださる
イエスさまは、最後の31節以下で、そのような復活の時が確かに備えられているのだということを、サドカイ派が拠り所とするモーセ五書の一節を引いて教えられます。
「『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないか。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神なのだ」
「生きている者の神」が「わたしはアブラハムの神である」と言われたのであれば、アブラハムは神のみ前に生きている者とされたのだということになります。神が名前を呼んで、わたしはあなたの神だと言ってくださるなら、その人はいのち与える神の恵みのみ手の内に置かれ、肉体の死を越えて生かされるのです。
「復活」とは、そのようにして神から与えられる「いのち」のことでした。
一休和尚が「とし毎に 咲くや吉野のさくら花 樹を割りて見よ 花のありかを」と詠んでいます。花のありかを樹を割って丁寧に調べても分からないように、いのちのありかも、自分自身を割るかのように厳密に考えても分からないのです。考えれば考えるほど、いのちのありかは分からず、まさに有るようで無く、無いようで有るのがいのちなのです。
どうしていのち与えられて、ここにこうしてわたしは生きているのかということは、いくら考えても分かりませんし、死ぬということも、同様にいくら考えても分かりません。わたしたちは遂に生の真相も、死の真相も知ることはないでしょう。それでも、わたしたちは間違いなく、生かされ生きています。そのことは間違いのないことです。ただ、それがどこから来てどこへ行くのかは分からないのです。
とすれば問題は、いのちの「どこからどこへ」について議論することではなくて、わたしを生かされ生きている者としている、このいのちの不思議に感動することです。そして、いのちへの感謝をもって生きることです。問題は、わたしたちが、自分のこの世のこと、現実の生活だけを考えて、生かされ生きているいのちの不思議、それに感動していないことです。いのちについての知識で満足して、いのちそのものへの感動を失っていることです。いのちは考察の対象ではなく、感動の源です。いのちから呼び起こされた感動をもって生きている者とされている、その感謝の日々こそが、新たに生まれるということ、「復活」ということなのではないでしょうか。