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5月7日 ≪復活節第5主日礼拝≫『召されて』コリントの信徒への手紙一 1章1~3節 沖村裕史 牧師

5月7日 ≪復活節第5主日礼拝≫『召されて』コリントの信徒への手紙一 1章1~3節 沖村裕史 牧師

 

■手紙

 今日からしばらく、使徒パウロによって書かれたコリントの信徒への第一の手紙をご一緒に読み、そこに語られている福音に共に耳を澄ませてみたいと願っています。今の時代を生きるクリスチャンとしてのわたしたちに、この手紙は何を語りかけてくれるのでしょうか。

 コリントの教会の礎(いしずえ)を築いたパウロがその地を去った後、教会にはいろいろな問題が生じていました。パウロは、そのことを伝え聞いて心配もし、また教会から寄せられたいくつかの具体的な問題についての問い合わせに答えようと、この手紙を書きました。当然、ここに書かれていることは、コリントの教会にそのとき起っていた問題をどのように考え、どう解決していったらよいのかという、とても具体的で個別的な事柄です。パウロがこの手紙を書いているとき、これが二千年近くのときを経て、遠く日本という国で多くの人に読まれることになるなど、思いもしていなかったでしょう。もちろん個人から個人への全くプライベートな手紙と言うのではありませんが、これは紛れもなくパウロ個人の手紙です。

 わたしたちも手紙のやり取りをします。親しい人からの、ときにはよく知らなかった人から思いがけない手紙を受け取ることもあります。いずれであれ、自分に宛てられた手紙はどれもがとても大切です。教会にも、毎日のように郵便物が送られてきます。それを受け取り、整理するのも牧師の仕事のひとつですが、なかにはごみ箱直通の郵便物もあります。その量も少なくありません。お互いがごみを作り出し、送り合っているのではないかと感じるほどです。それでも、毎日、郵便配達のバイクの音が聞こえると、ポストの方に駆け寄ります。郵便物を受け取り、その一つひとつに目を通します。そしてそれが分厚いダイレクトメールや大量印刷された無機質な挨拶状ではなく、わたしだけに向けられた私信であれば、嬉しく、心が温かくなります。それに何度も目を通した後、手紙箱に入れます。年が経っても捨てることができず、手紙箱は増えるばかりです。そのように、手紙の言葉というものは、その時その場所で、特定の人に対してだけ意味を持つ、特別なものなのだろうと思います。

 この手紙を書いたとき、パウロもまた、手紙を受け取るコリントの教会の一人ひとりの顔を、それぞれの生活向きを思い浮かべながら、特別な思いを込めて書いたに違いありません。そして、受け取ったコリントの人々もまた、あまり他人には読まれたくない手紙、自分たちの間ではもうわかっている問題へのパウロの言葉ですから、恥ずかしい思いをしても仕方のない手紙、でもやはり他の人にはできれば知られたくないことが書いてある手紙、そんな思いで読んでいたかもしれません。パウロから送られたこの手紙は、コリントの人々にとって、具体的な問題に対する応答の中に、深い親愛の情と共に、とても大切な信仰の事柄とが浮き彫りにされている、そんなかけがえのない手紙であったに違いありません。

 

■神に召されて

 今日は、この手紙の書き出しのところ、1章1節から3節をお読みいただきました。ここは、1節ずつ三つに区切ることができます。1節には手紙の差出人、2節には宛先、3節には挨拶が記されています。こうした書き出しは当時の手紙のごく一般的な形です。しかし、ただ差出人、宛先、挨拶を記すだけなら、「パウロから、コリントの人々へ、恵みと平和があるように」と言うだけでよかったはずです。ところがパウロは、今ここにいろいろな言葉を書き加えています。とすれば、書き加えられているこれらの言葉に、パウロがこの手紙に込めた大切な思いが示されているに違いありません。

 まずは1節、差出人を語る所です。

 「神の御心によって召されてキリスト・イエスの使徒となったパウロ…から」

 原文の語順は、「パウロ、召されてキリスト・イエスの使徒となった、神の御心によって」です。まず自分の名前を、次にその自分とは何者であるかを記しています。そこで彼が真っ先に書くのは、「召された」ということです。

 召されるとは、呼ばれるということです。自分が誰かに名を呼ばれ、招かれ、召されるということは、とても喜ばしく、とても大切なことです。自分が存在する価値がそこで確認されるからです。

 そしてパウロは、自分が名前を呼ばれて呼び出された、それは使命を与えられるためだ、と続けます。その使命が「キリスト・イエスの使徒」です。「使徒」とは「遣わされた者」という意味で、キリスト・イエスの福音を宣べ伝えるよう遣わされた者である、ということです。しかも、その使命へと彼が召されたのは「神の御心によって」であったと言います。この手紙の冒頭1節でパウロは、わたしは自分の思いによってではなく、神の御心によって、キリスト・イエスの使徒としての使命に召されたのだ、ということを強調します。

 ユダヤ教ファリサイ派のエリートであった彼は、十字架につけられたイエスをキリスト、つまり救い主と信じるような教えは神を冒涜するものだとして、これを激しく憎み、キリストの信者たちを徹底的に迫害していました。その彼が、迫害の手をさらに広げるためにダマスコへ向かうその途上、復活されたイエス・キリストと出会います。キリストは、パウロを全世界にわたしの名を宣べ伝える器として立てる、と宣言されました。この出会いによって、彼は180度の方向転換をし、迫害する者から信じる者へ、さらに伝道する者へと変えられたのでした。

 この回心、方向転換は、パウロが長年真理を追い求めてきた、その結果というのではありません。イエス・キリストの教えとはどのようなものかと興味を持って学んだ、その結果、信仰が与えられたということでもありません。彼が信じる者となり、伝道する者となったのは、彼自身の思いでは全くなく、ただ神様の驚くべき御業によること、まさに奇跡でした。パウロにとって、それはただ「神に召された」としか言いようのないことでした。

 そのように、神の御心によって召されて使徒となったパウロがこの手紙を書き送る、そのことを彼はこの手紙の冒頭で、力を込めて語っています。それは、ちょうど親しい友人が問題を抱え、悩んでいるときに、何とかして助けになりたいと願って、心を砕いて用意した言葉を伝えるときに、「あなたの友人として申し上げたいことがある」と改まった言い方をするときに似ているかもしれません。「そうでないと、これから語ろうとしているわたしの言葉は理解できなかったり、受け止めることができなかったりする」。そんな思いを込めて、わたしが語る言葉は、神の御心によって召されたキリスト・イエスの使徒としての言葉です、キリスト・イエスから預かった言葉なのです、今ここに神の御心が働いているのです、だからどうか、しっかり聞いてください。パウロはコリントの人々に、今ここにいるわたしたちにそう語りかけているのです。

 

■神の教会

 このパウロの思いは、2節の宛先を語る部分へもつながっていきます。2節は「コリントの教会の人々へ」ということですが、そこにもいろいろな言葉がつけ加えられ、パウロの深い思いが込められています。

 「コリントにある神の教会へ、すなわち、至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に、キリスト・イエスによって聖なる者とされた人々、召されて聖なる者とされた人々へ」

 ここも原文の語順を生かして訳すならば、「コリントにある神の教会、キリスト・イエスによって聖なる者とされ、召されて聖なる者とされた」となります。「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」という最初の言葉は、原文では2節の最後に置かれています。

 ここでパウロは、1節に重なるような仕方で、コリントの教会とはどのような教会なのかを語っています。

 「コリントにある神の教会」という書き方は他の手紙には見られない、この手紙に独特なものです。「神の」という言葉に込められているのは、教会は神のものであり、神によって召し集められたものだ、ということです。教会は、人間が自分の思いで寄り集まってつくっているものではありません。神様が人々を召し集めて、ご自分のものとして群れをお立てになったのです。

 そのことが、続く「キリスト・イエスによって聖なる者とされ、召されて聖なる者とされた」という言葉にも言い表されています。教会は「聖なる者とされた」人々の群れです。「聖なる」とは、清く正しく汚れがないという意味ではありません。「神様のものとして選び分たれた」ということです。

 わたしたちは、自分がクリスチャン、キリストを信じる者であるという自覚はあっても、自分が「聖なる者」であるということを自覚していないことが多いのではないでしょうか。確かに、自分の頭のてっぺんから足のつま先まで見渡しても、とても「聖なる者」とは実感できないかもしれません。しかし、問題は実感ではなく、神様がわたしたちを「キリストとの交わり」の中へと呼びだしてくださったという「事実」です。

 教会は、そこに集っている人々が清く正しい人々だからではなく、神によって召し集められた神のものであるがゆえに、聖なるものなのです。そして、この神による召し集めは「キリスト・イエスによって」なされています。聖なる者と言うことなどできない、むしろ、弱く愚かで過ちだらけのわたしたちをご自分のものとしてくださるために、神様は独り子イエス・キリストを遣わして、その十字架の死と復活によってわたしたちの罪を赦し、新しいいのちを与え、キリストとの交わりの中に招き入れられてくださったのです。そこに神様の召しがあります。

 パウロは、この手紙の冒頭1節と2節で、この手紙は、神に召され、神のものとされたわたしパウロから、同じように神に召され、神のものとされたコリントの教会、あなたたちへの手紙なのだということを、渾身の力を込めて語っています。彼がこんなにも力を込めてそのことを語るのは、これから語っていくすべてのことの土台をそこに置くためです。

 コリント教会には様々な問題が起り、人間の罪が露になっていました。パウロはそのためにこの手紙を書き、ある意味、教会の人々を叱り、悔い改めを求めようとしています。この手紙が本当に意味を持ち、目的を達成するためには、コリント教会の人々が、このことをしっかりと知り、受け止める必要があります。自分たちは神によって召し集められた神の教会であり、それゆえに聖なる者とされているのだという自覚を、教会に連なる一人ひとりがしっかり持つことによって初めて、教会の様々なトラブルの解決への道が開けていくことになるのです。

 逆に言えば、教会の人々の中に、神に召されて神の教会、召し集められた群れの一員とされているという自覚と、その恵みを受け止めて生きようとする思いのない所では、たとえどんなによい指導や助言がなされても、あるいは厳しい叱責がなされたとしても、何の効果もないでしょう。

 

■公同の教会

 パウロがここでもう一つ、コリントの人々に意識させようとしていることは、神様に召し集められた者たちの群れが、コリントだけにあるのではなく、他の至る所にあるのだということです。それが「至るところでわたしたちの主イエス・キリストの名を呼び求めているすべての人と共に」という言葉です。コリントにある神の教会とは、コリントにあって、イエス・キリストの御名を呼び求めている群れのことです。そして、主の御名を呼び求めている群れは、他の至るところにあり、コリントの教会もまたその中のひとつなのです。

 これは、わたしたちが毎週の礼拝で告白している使徒信条の「聖なる公同の教会(を信ずる)」と同じ意味です。「公同の」とは「至るところにある」ということです。この町にもあの町にも、この国にもあの国にも、全世界に広がっている、それらがひとつの教会であることを信じるのです。パウロは、コリント教会の人々の目をそこに向けさせようとしています。

 自分たちの群れが自分たちだけで存在しているのではないということに気づかせるためです。裏を返せば、コリント教会には、自分たちだけで完結してしまって、他の群れのことを思わないところがあったということでしょう。この教会とそこに集う人々には恵まれた豊かな賜物が与えられていました。ところがその豊かさの中で、他の群れのことを思わないようになっていました。

 それは、自分たちは自分たちだけでちゃんとやっている、という思いゆえでしょう。そういう思いの中に、人間の誇り、高ぶり、傲慢の罪が現れます。その誇りは「それに比べて余所の群れはだらしがない、ちゃんとやっていない」という批判と表裏一体です。神様が恵みによってこの群れを召し集めてくださったことを忘れた物言いです。教会が自分たちの群れだけで完結してしまい、他の群れのことを思わなくなるとき、そこには必ずこのような驕り高ぶりがあります。そしてこれからだんだんに見ていきますけれども、コリント教会に起っている様々な問題の根本には、このような驕り高ぶりがあったのです。

 そのような驕り高ぶりに陥らないためには、他の群れ、他の教会のことを覚えることが必要です。それは、より力のある群れは弱く小さい他の群れにいろいろな援助をする義務があるというだけのことではありません。もちろんそのことも大切ですが、もっと根本的には、共にイエス・キリストを信じ、その御名を呼び求めている人々の群れの全体を、神様によって召し集められた神の教会として意識する、ということです。神様に召されて聖なる者とされた人々は自分たちだけではない、ということを知ることです。

 言い換えれば、2節の終わりにあるように、「イエス・キリストは、この人たちとわたしたちの主であります」ということをちゃんと意識し、その同じイエス・キリストの下に、様々な違いのある、それぞれに良い点と課題とを持っている群れが至る所に、また歴史を貫いて存在していて、このわたしたちもまた、この地で神様に召し集められ、神の教会として生かされているのだ、ということをしっかりと覚えることです。それが、「聖なる公同の教会を信じる」ということなのです。

 

■恵みと平和

 神様に召し集められた群れである諸教会を結び合わせているのは、「主イエス・キリストの名を呼び求める」ことです。

 わたしたちのために十字架の苦しみと死を引き受け、死をもって罪を赦してくださり、復活して新しいいのち、永遠のいのちの先駆けとなってくださったイエス・キリストをこそ救い主と信じ、その御名を呼び求めること。様々な違いを持った諸教会が、聖なる公同の教会に共に連なっている、その一致の絆こそがこれです。そしてその一致と交わりにこそ、パウロが3節で祈る、イエス・キリストの父である神とイエス・キリストからの恵みと平和が与えられるのでしょう。

 わたしたちも、またわたしたちの教会も、ときに様々な罪を犯し、ときに問題やトラブルに苦しむことがあるでしょう。平和を失ってしまうようなこともあるでしょう。しかしわたしたちが、神様がイエス・キリストによって召し集めてくださった恵みを思い、ひたすら主を仰ぎ見て、主の御名を呼び求め、主をたたえ、主を畏れ敬い、打ち砕かれた悔いる心をもってその赦しを願っていくならば、神の教会に、父なる神とイエス・キリストからの恵みと平和が豊かに与えられるのです。感謝です。