福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

TEL.093-951-7199

4月5日説教抜粋 『十字架にふさわしい』マタイによる福音書11章1~11節 沖村 裕史 牧師

4月5日説教抜粋 『十字架にふさわしい』マタイによる福音書11章1~11節 沖村 裕史 牧師

 エルサレム入城の場面です。8節から10節は、子ロバに乗ったイエスが救い主メシアとして、真の王としてエルサレムの人々によって熱狂的に迎え入れられた場面を描いている、としばしば説明されます。しかしそれは本当でしょうか。ここにある人々の叫びは詩編118篇からの引用です。「ホサナ」とは「どうかお救いください」という意味ですが、それは当時の「仮庵祭」で巡礼者たちが行列しながら歌った掛け声です。仮庵祭は、わたしたちの暦で言えば、十月頃の秋祭りです。祭りのムードは「喜び」一色。行列を組んで「ハレルヤ」―詩編113篇から118篇を歌いながら、左手にエトログ―レモンの一種を持ち、右手には三種類―なつめやし、ミルトス、川柳の枝をかかげて、「ホサナ」の句に合わせて、両手を上下左右―四方に揺り動かします。すべての方角に神の支配を感じるためです。これが「仮庵祭」の喜びの表現でした。ハレルヤ詩編は他にも過越祭、七週祭でそれぞれ一日だけ唱えられます。しかし祭りのすべての期間を通してこのように盛大に唱えられるのはこの仮庵祭のときだけです。この祭りを背景に置けば、人々の異様とも思われる熱狂ぶりもとても自然なものとして目に映るでしょう。イエスのエルサレム入城はこの仮庵祭の最中であったと考えられます。とすれば、「葉のついた枝」を慌てて「野原から切って」きたとは考えにくく、最初から手にかかげ持っていたものでしょうし、そして何よりも、エルサレムの人々がこぞってイエスを救い主として歓迎して迎え入れたというよりも、正確には、その喜びにあふれた祭りの行列の中にイエスが子ロバに乗ったまま突っ込んだ、そう受け取るのが自然です。

 エルサレムの人々は仮庵の祭りの喜びの中にありました。彼らは、十字架に架けられ、無力な姿を露呈しながら殺される人が、今、その喜びの中に来られたなどとは思いもしなかったことでしょう。仮にイエスを歓迎したとしても、それが果たして熱狂的なものであったのかどうか。本当に救い主、真の平和の王として迎え入れられたのかどうか。少なくともマルコは、そこに暗い陰りを、十字架の兆を感じ取っているように思われます。人々がイエスを歓迎したとしても、それは、イエスの驚くべき御言葉、奇跡の御業の数々を聞いていたからであり、それがローマからの解放という政治的な関心と結びついていたからでしょう。しかしそれは、神の愛の御手が今ここに、しかもすべての人々、とりわけ罪人にもたらされているという福音を語り、人々に真の悔い改めを迫っておられたイエスにとって、「誤解」以外の何ものでもなかったはずです。その時、イエスは子ロバを見つけ出し、それにお乗りになりました。それは、勇ましい軍馬ではなく柔和な子ロバに乗ることによって、人々の「誤った期待」に水を差し正しい理解を求めようとされたかに見えます。しかしそうではありません。イエスは真の王として熱狂的に迎え入れられたのではありません。ただ仮庵祭の歓喜の中に子ロバに乗って押し入って来られたに過ぎません。つまり、誤解に抗議するためではなく、「ろばの子に乗って」という預言をただ成就するために、誤解はそのままにしてそうされたのです。イエスは人々の誤解を正そうとされたのではありません。誤解をそのままに受け止め、むしろ誤解の中こそが、ご自分の進むべき道、十字架への道として入城されたのです。人はみな理解を求めます。しかし神は、救いの業をなさるにあたり、それをお求めになりません。救いの業は、人間の誤解を一切そのままにして、むしろそのただ中に、一方的になされるのです。それこそが十字架でした。子ロバに乗るイエスが示されているのはまさにそのことでした。