福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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4月7日 ≪復活節第2主日礼拝≫『万物の神によって』 コリントの信徒への手紙一 8章1~6節 沖村 裕史 牧師

4月7日 ≪復活節第2主日礼拝≫『万物の神によって』 コリントの信徒への手紙一 8章1~6節 沖村 裕史 牧師

 

■偶像に供えられた肉

 コリント教会には何と多くの問題があったことでしょうか。

 そのおかげで、わたしたちは新約聖書の中でパウロの牧会的な愛と知恵を読むことができるわけですが、問題が多くあるという点では、今のわたしたちも同じです。教会はもちろん、家庭にも、個人にも問題や課題は山ほどあります。

 神は、問題のない教会や信仰を求めておられるのではありません。むしろ、問題を神の前に持って行き、神の知恵と力を祈り求め、わたしたちが「キリストによって共に生きる」ことを求めておられるのだと気づけば、わたしたちは失望する必要はありません。

 今日、共に生きることを妨げている問題として取り上げられているのは、「偶像に供えられた肉」を食べて良いか、否かの問題です。コリントには神々の神殿があり、町の公の行事や個人の家の冠婚葬祭などが祭儀として執り行われていました。その祭儀では必ず動物が犠牲として捧げられました。祭儀の後、その動物の肉の一部は祭司のものとなり、一部は祭儀に集った人たちが食べ、残りは持ち帰られ、町の市場で売られました。町の人々にとっては当たり前の風景でしたが、教会の信徒たちの中に、ある戸惑いが生まれました。

 教会は、旧約聖書以来のユダヤ人の信仰を受け継いでいます。その信仰によれば、主なる神以外のものを神として拝むことは、主に対する裏切り、偶像礼拝と呼ばれる最も重い罪でした。ことに人間の手によって造られた偶像を神として拝む偶像礼拝を、ユダヤ人は忌み嫌い、厳しく戒めていました。教会は今も偶像礼拝を忌み嫌うこのユダヤ人の信仰を受け継いでいます。

 そこから、一旦偶像に供えられた肉は信仰者にとっては汚れたものであって、それを食べるべきではない、という考えが生まれました。特に異邦人で信徒になった人々は、それまで何の疑問も持たずに食べていた肉が実は、偶像に供えられた肉だったということに気づいたのです。キリストの父なる神を唯一の神と信じる者となった今、その肉を食べるのは相応しくないのではないか、そう考える人が出てきたのは、ある意味、当然のことだと言えます。

 

■我々は知識を持っている

 しかし、コリント教会で何が問題とされていたのかについては、もう少し注意深く考えなければなりません。コリント教会からの質問は、単に「偶像に供えられた肉を食べてもよいのでしょうか」ということではなかったようです。

 そのことは冒頭のパウロの言葉からも伺えます。

 「この問題について言えば、『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」

 この括弧に入れられている「我々は皆、知識を持っている」ということが、コリント教会の中で頻繁に語られ、またパウロに届いた質問の手紙にも記されていた言葉だったと思われます。この「知識」がどのような知識だったのか。4節にこうあります。

 「そこで、偶像に供えられた肉を食べることについてですが、世の中に偶像の神などはなく、また、唯一の神以外にいかなる神もいないことを、わたしたちは知っています」

 「偶像の神は人間が作った像に過ぎないのであって、そんなものは神でも何でもない、唯一の主なる神以外に、この世にいかなる神もいないのだ」ということです。また、6節にもこう記されます。

 「わたしたちにとっては、唯一の神、父である神がおられ、万物はこの神から出、わたしたちはこの神へ帰って行くのです。また、唯一の主、イエス・キリストがおられ、万物はこの主によって存在し、わたしたちもこの主によって存在しているのです」

 これは、学問的知識や世間の人々が共有している一般的な知識ではなく、信仰によって与えられる神についての知識です。

 この知識を持っていた人たちは、偶像に供えられたといっても、それは神でも何でもない、ただの像の前にしばらく置かれたというだけのことであって、肉屋に置かれていたのと何も違わない、だからそれを汚れたものとして避ける必要などない、気にせず食べたらよい、と主張していたのでしょう。ですから、パウロのもとに寄せられた質問も、「偶像など神ではないし、何の力もないというのが正しい信仰の知識であって、偶像に供えられた肉だからといって避けようとするのは、信仰の知識が乏しい者の不適切な考えではないのか」ということだったと思われます。

 パウロはその質問に、彼らの言ってきたことに同意し、その知識を正しいものと認めます。「『我々は皆、知識を持っている』ということは確かです」とは、そういうことです。

 「ただ」と、パウロは続けます。ここからが、パウロの言おうとしていることの中心です。

 

■知識による高ぶり

 「ただ、知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」

 あなたたちが語っている神についての知識は正しい。確かにその通りだ。しかし、あなたたちにひとつ問題がある、とパウロは言います。パウロがここで問題としていること、それは「知識が人を高ぶらせる」ということです。

 神についての知識に限らず、それ自体は正しい、真理である知識を持つことによって、高ぶりが起こるのです。高ぶりというのは、他の人との関係でのことです。人に対して、自分がより高いところにいるように思って誇り、裏返して言えば、人を見下すということが起るのです。パウロは、コリント教会にそういう問題が起っている、と言います。

 質問をしてきた人々の思いは、信仰についての、神についての正しい知識とは何かを確認することです。自分たちが持っている知識をパウロにも認めてもらい、いわば御墨付きをもらって、まだその知識に到達していない人々に対して、「ほら、パウロ先生もこう言っているではないか」と主張しようとすることです。

 しかしパウロは、そんな彼らの思いに「高ぶり」を見ます。コリント教会の問題の根底にはいつも「高ぶり」があったことを、わたしたちは知っています。そして欠けているのが「愛」でした。今、あなたがたが本当に弁(わきま)えるべきは、「愛は造り上げる」ことだ、とパウロは言います。

 「造り上げる」という言葉のもともとの意味は、家を建てる、建設するということです。このときの家とは、教会のことです。教会を建ち上げていくのは、知識よりもむしろ愛だ、と言うのです。知識は人を高ぶらせ、その裏返しとして人に対する軽蔑を生みます。正しい知識を主張するという、一見正しい、批判の余地のないところで、実際になされているのは自分を誇り、他の人を見下すということでしかないということが、しばしばです。そのようなふるまいが、教会における信仰者の交わりを引き裂き、教会という家を破壊します。それ自体は正しい知識も、それを振りかざして人を裁き、批判していくなら、教会は建てられず、むしろ壊されるばかりだ、とパウロは言うのです。

 

■愛を伴って

 パウロが語っているのは、知識か愛かといった二者択一の話ではありません。パウロは、信仰についての正しい知識が大切で、またそれが神の恵みによって与えられる良いものであることをよくよく知っています。この手紙の1章4節から5節にこうありました。

 「わたしは、あなたがたがキリスト・イエスによって神の恵みを受けたことについて、いつもわたしの神に感謝しています。あなたがたはキリストに結ばれ、あらゆる言葉、あらゆる知識において、すべての点で豊かにされています」

 信仰、神についての正しい知識はわたしたちを豊かにし、また5節にあるような、この世のいろいろな束縛や得体のしれない力への恐れから、わたしたちを解放し、自由にします。唯一の神以外にいかなる神もいないと知ることによって、わたしたちはいろいろな迷信や占い、常識という枠組みや脅迫観念、さらには富や力による支配などに惑わされることなく生きることができるようになります。偶像の神は神ではないという知識は、確かに信仰者を、様々な戸惑いやつまずき、不安や恐れから、わたしたちを解き放つのです。しかしその知識が高ぶりや誇りを生むなら、つまり愛が見失われ、自分を誇り、人を批判したり、裁いたりするために用いられ、知識が自己主張の道具になってしまうのなら、それは、教会を破壊するものになってしまうのです。

 ここで言われていることは、知識などなくてよいということではなく、知識が愛を伴って働くこと、愛の中で知識が用いられていくことが大切だということです。知識と愛がしっかりと結び合っているような歩みが必要なのです。

 では、そのような歩みはどうしたら実現していくのでしょう。そのことが3節に語られます。

 「しかし、神を愛する人がいれば、その人は神に知られているのです」

 「自分が何かを知っているというだけでは、知らなければならないことをまだ知らない」という2節を受け、「しかし、神を愛するなら…」と言います。本当に知らなければならないことは神を愛することだ、とパウロは言います。

 神を信じるとは、神を愛することです。言い換えれば、神のことを知ろうとしてどれだけ学び、知識を蓄積していっても、それだけで信じることはできません。神を愛することができて初めて、信じることができるのです。神のことを本当に知ることは、神を愛することによってしかできない、と言ってもよいでしょう。「知る」ことは、自分が知識を得ることで、自分一人でできます。そのため、自己満足や高ぶりに陥ってしまいがちです。しかし「愛する」ことは、自分一人ではできません。相手が必要です。愛するとは、相手との関係に生きることです。わたしたちと神との間に、そうした「関係」が生まれることこそが神を愛することであり、それこそが神を信じることです。神を信じるとは、神を愛することです。そこでこそ、わたしたちは本当の意味で、神を知ることができるのです。

 

■神に知られている

 理屈っぽいわたしたちは、「まず神のことを知らなければ、愛することができるかどうか、分からないではないか」と思うかもしれません。しかし、信仰は神との出会いによって与えられるものです。神との出会いは、神ご自身がわたしたちに出会ってくださることによって起ります。そのことを、パウロは「神に知られている」と言います。このことはとても大切です。

 わたしが一方的に知られているという状況。それが投資などの勧誘電話であれば、不愉快このうえもありません。しかし自分が心細く迷っているときに、助けてくれるだれかがわたしを知っているとなれば、「知られている」、そのことは、かけがえのない喜びと希望の根拠へと変わります。

 パウロは、この「知られている」ことの幸いを深く味わった一人でした。パウロは繰り返し語ります。わたしたちは神を知って、理解してから、神を愛するというのではない。神に自分が知られている!という事実によって、喜びに包まれ、神を愛するようになるのだ、と。パウロは、わたしたちが神を知っていることよりも、神によって「知られている」ことを強調します。

 なぜなら、それこそが信仰だからです。信仰とは、わたしたちが神を知る営みではありません。わたしたちが神を知る前に、神がわたしたちをすでに知っておられる。わたしたちが神を選ぶ前に、神がすでにわたしたちを選んでくださっている。わたしたちが神を愛する前に、神がすでにわたしたちを愛してくださっている。そのことに日々気づかされることです。

 神から、「きみのこと知ってるよ!」と声をかけられているという神の知識「奥義」に、驚きと安心を味わう日常こそが「信仰」です。

 「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた」とエレミヤが預言したように(1:5a)、どうあがいたところで、わたしたちが神を知ることなどできませんが、神は、わたしを知っていてくださるのです。そのことに、あなたたちも気づくことができる、いや、そのことを「ぜひ知って欲しい」、パウロはそうわたしたちに語りかけるのです。

 

■神に愛されている

 パウロがわたしたちに教えていることは、万物の神であればこそ、すべての人は必ず神から憐れみ、愛を受けているのだ、ということです。そのことをはっきりと知ることこそ、本当の神についての知識です。

 神の真実は、神の愛は、イスラエルのどんな不実よりも大きく、わたしたちのどんな頑なさや不従順よりも大きいのです。ですから、わたしたちがこの世で経験し、目の前にしていることはすべて、つまずきにみちた偶然や不運などではなく、神の御心、ご計画です。低い者が高くされるのが神の憐れみの業であるとともに、高い者が低くされることも神の憐れみの業にほかなりません。今、泣いている者が笑うようになり、今、笑っている者が泣くようになることもまた、神の愛ゆえです。どんな不従順や頑なさにも、神の栄光が、その慈しみの勝利が輝いています。神の知恵とその知識の富は、なんと深いことでしょう。それに比べて、人の知識、人の計画はなんとちっぽけなものでしょうか。

 神とわたしたちとの関係を支えているのは、わたしたちが神を知っていることではありません。わたしたちが神を知るのではなくて、神がわたしたちを知っていてくださるのです。愛していてくださるのです。そこに、わたしたちと神との関係の、信仰の土台があるのです。

 わたしたちが神を愛する、信じる、本当の意味で神を知ることができるのは、神がわたしたちのことを知ってくださる、愛していてくださるからです。自分は神に知られており、愛されているというこのことこそ、信仰者として生きるために、わたしたちが本当に知らなければならないことなのです。

 ですから、わたしたちはただ、「わたしはあなたに知られていることに安らぎ、わたしのすべてをもってあなたの愛に信頼します。どうかあなたの御旨がなりますように。あなたの御国がもたらされますように」と祈りたいものです。そう祈りつつ、喜びをもって聖餐に与り、今日から始まる新しい週を、感謝をもって共に歩んで参りましょう。