福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

TEL.093-951-7199

5月11日 ≪復活節第4主日/母の日「家族」礼拝≫『おかあさんがやってきた!』(こども・おとな)/『愛の大きさに包まれて』(おとな) ルカによる福音書 1章 39~56節 沖村 裕史 牧師

5月11日 ≪復活節第4主日/母の日「家族」礼拝≫『おかあさんがやってきた!』(こども・おとな)/『愛の大きさに包まれて』(おとな) ルカによる福音書 1章 39~56節 沖村 裕史 牧師

 

お話し 「おかあさんがやってきた!」(こども・おとな)

■神様の御心(みこころ)のままに

 イエス・キリストの母マリアを、聖母(せいぼ)として大切に敬(うやま)っていた中世のヨーロッパでは、たくさんの絵にマリアの姿が描かれています。その姿はどれも、威厳(いげん)に満ち、神のみ子の母にふさわしく華麗(かれい)な館(やかた)に住み、王女のように立派な衣装(いしょう)を身につけています。でも聖書によれば、本当の彼女はガリラヤという地方の田舎の村ナザレに住む、貧しい、素朴(そぼく)な少女でした。

 そして今日、母の日に一緒に見ていただく映画、『サウンド・オブ・ミュージック』の主人公の名前も、マリアです。

 舞台はオーストリアのザルツブルグにある修道院(しゅうどういん)。そこで働く修道女・シスターになることを願っていたマリア(ジュリー・アンドリュース)は大の歌好きで、歌を歌っているとそれこそ夢心地(ゆめごこち)になって、いつも礼拝の時間を忘れてしまいます。先輩(せんぱい)のシスターたちは、そんなマリアが本当にシスターに向いているのかどうか、心配でたまりません。院長は、そんな彼女に家庭教師の仕事を勧(すす)め、元海軍大佐のトラップ男爵(だんしゃく)(クリストファー・プラマー)のもとへと送り出しました。

 トラップ家(け)に初めてやってきたマリアですが、あまりに粗末(そまつ)な服を着ていたので、もうちょっとましな服はないのか、と注意される場面があります。するとマリアは、服はみんな貧しい人たちにあげてしまいました、この服しかありませんと答えます。彼女は自分の粗末な身なりをなんとも思っていません。こんなところは、聖書のマリアの姿そのものです。

 そう思って見てみると、院長から突然トラップ家の家庭教師になるように告げられた時の戸惑(とまど)いぶりも、聖書のマリアとそっくりです。さきほど読んでいただいた聖書箇所の直前に、マリアが天使から「おめでとう、恵まれた方。神様があなたと共におられます」と告げられ、あまりに突然のことなので、マリアが「戸惑い」「何のことかと考え込んだ」とあります。すると天使ガブリエルは「恐れることはありません。あなたは神様から恵みをいただいたのです。あなたは身ごもって男の子を産むでしょう」と告げられ、マリアは「わたしは、神様のしもべです。あなたのお言葉どおり、この身に成(な)りますように」と、神様を信頼し、天使のお告げを受け入れたと記されています。

 映画の中のマリアも、突然、家庭教師をするよう言われた時、きっと聖書のマリアと同じような思いを持ったのではないでしょうか。なぜ、わたしが修道院を離れなければならないのかと考え込んでしまったことでしょう。それでも修道院長の言葉に従ってマリアは、トラップ家の子どもたちの家庭教師となることを決意し、修道院を後にしました。

 映画の中でマリアが、修道院で学んだ一番大事なことは「主の御心(みこころ)を知り、真心(まごころ)をこめてそれに従うこと」と語るシーンがあります。どんな時にも、勇気をもって信頼すること、そして自分の運命をみずから切り開いて歩んでいくこと、それが神様の御心に適(かな)うこと、神様に喜んでいただけることだという思いが、このマリアにもあったのです。

 そしてこの映画のモデルとなった、マリア・フォン・トラップもまた「すべてが神の御心のままでした」と自伝に書いています。

 

■愛と温(ぬく)もり

 さて、ここで映画のあらすじを追ってみましょう。

 トラップ男爵は妻に先立たれ、後には、母を亡くした七人の子どもが残されていました。男爵は元軍人です。その子育ては軍隊式が一番と、子どもたちには笛で号令をかけ、制服で行進させるという厳しい教育方針でした。規律を重んじるだけの一家の空気は冷(ひ)え冷(び)えとしていました。

 そんな子どもたちにマリアは、歌うことを教えはじめます。彼女のやさしい人柄とあいまって、歌が家の雰囲気(ふんいき)を変えるきっかけになりました。やがて、男爵もそんなマリアに好意を抱くようになり、めでたく結婚。子どもたちは「おかあさんがやってきた!」とばかりに喜びます。しかしそんな幸せも束(つか)の間(ま)、ドイツ軍から軍隊に入るようにとの命令書が届きます。しかし男爵はナチス・ドイツへの忠誠(ちゅうせい)を拒(こば)み、一家は自由を求めてスイスへと山越えをしてゆくのでした。

 思えば、マリアがトラップ家に来ることがなかったら、一家の中にいつも音楽が流れることはなかったでしょうし、男爵は相変わらず厳しい教育方針をとって、子どもたちも心を閉ざしていたでしょう。しかしそれでは、家庭は幸せとは言えません。確かに生活が苦しいわけではありません。とりたてて不幸ということでもありませんが、しかし本当に幸福であるためには、家庭がほっとする、温かい場所でなければなりません。

 マリアは、そうなってしまったかもしれないトラップ家に、歌と一緒に、家庭の温(ぬく)もりをもたらしました。そればかりでなく、歌を愛するマリアの心が一家に、ナチスの圧迫(あっぱく)にも決して屈(くっ)しない強い勇気も生み出したのです。『サウンド・オブ・ミュージック』のマリアは、まさしく聖書の母マリアのように愛と温もりをもたらす、最高の女性の役割を演じていたと言えそうです。

 ではここで、少しだけ映画をご覧いただきましょう。

 

■いのちと家族

 いかがでしたか。この映画の魅力(みりょく)は何といっても、美しいメロディーの歌です。その中でも特に親しまれているのが主題歌の「サウンド・オブ・ミュージック」。ジュリー・アンドリュースの美しいソプラノが高原いっぱいに響き渡る冒頭のシーンはよく知られていますが、他にも「エーデルワイス」や「ドレミの歌」などがそれぞれの場面にマッチして、それらを歌う伸びやかなマリアの声が忘れられません。

 そして今日の聖書の中にも、イエスさまの母マリアの歌が記されています。

 「わたしの魂は主をあがめ。

  わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます。

  身分の低い、この主のはしためにも/目を留めてくださったからです。

  今から後、いつの世の人も/わたしを幸いな者と言うでしょう、

  力ある方が、/わたしに偉大なことをなさいましたから」

 これはマリアが、天使(てんし)からイエス・キリストを身ごもったことを告げられた時に、神様をほめたたえて歌ったとされる「マリアの賛歌(さんか)」と呼ばれる歌です。救い主(すくいぬし)イエスの母としてのマリアへの尊敬は、今日(こんにち)に到(いた)るまで絶えることなく続いています。

 今日の礼拝の最初の挨拶の時にもお話したように、今日の母の日は、お母さんを通して、神様がわたしたちにいのちを、そして家族を与えてくださったことを感謝し、祝う日です。このマリアの賛歌こそ、そんな母の日にふさわしい歌ではないでしょうか。いのちと家族を与えてくださる神様への感謝と喜びに満ちあふれています。わたしたちも感謝と喜びをもって祈りましょう。

 

メッセージ 「愛の大きさに包まれて」(おとな)

■マリアとエリサベト

 天使から、聖霊によって子どもを授かる、世間から見れば誰の子かわからない子を身ごもると告げられた少女マリアと、不妊の女と蔑まれて屈辱と寂しさを味わい尽くしてきた年老いた身に、子どもを授かると天使から告げられたエリサベト。今、そんな二人が出会います。二人の喜びが、新しいいのちへの喜びが満ち溢れます。

 自分の体の中に新しいいのちの芽生えを体験し、内に動き出すいのちを感ずる。それは大きな喜びです。子どもが生まれる時が近づいているエリサベトの傍らに、六か月遅れて子どもを宿した若いマリアが毎日傍にいて、年老いたエリサベトを労わりながら、どんなことを語り、また何度、讃美の歌を歌ったことでしょうか。

 このとき、マリアは自分に与えられたこの恵みを、独り占めにしよう、自分ひとりの宝だとは決して思いませんでした。何世紀にもわたって、多くの人々が歌い続けてきた聖書の、詩編の慰めが、今ここで現実、事実となった。そんな思いから、エリサベトと一緒に、神の恵みを歌ったに違いありません。あなたもわたしも、このような神の恵みを与えられたのだと、その恵みを指折り数えるようにしながら、歌い続けられてきた信仰の歌を、新しい思いをもって歌ったことでしょう。

 そんなマリアに、エリサベトは「主がおっしゃったことは必ず実現すると信じた方は、なんと幸いでしょう」と語りかけます。マリアよ、あなたはしあわせです。神があなたに約束されたことを、神が必ず実現してくださるからです。そのことを信じることのできるあなた、神のみ手の中にあるあなた、あなたはしあわせです。そう祝福するのです。

 二人が出会い、二人の心が触れ合ったとき、彼女たちは「幸いな者」となりました。マリアとエリサベトの密かな、小さな、しかし大きな喜びの出会い。そしてそこで歌われたマリアの歌を聴くとき、わたしたちの心もまた深く慰められます。

 

■主を大きくする

 そして今、マリアはこんな言葉で歌い出します。47節、

 「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」

 ここで注目いただきたいのは「あがめ」という言葉です。原文ではメガリューノウというギリシア語ですが、この言葉のラテン語訳が「マグニフィカート」。このことから「マリアの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれるようになりました。いずれも「大きくする」という意味の言葉です。「主をあがめ」とは、「主を大きくする」という意味です。

 「主を大きくする」、それは「自分を小さくする」「自分の小ささを認める」ということです。人はみな、自分が大きくなり、自分の力が増大し、自分が栄え輝くことばかりを望みます。しかしそんな自己拡大の望みはいつも、他人を蹴落とし踏みにじる、それを足台としたところに築かれる望みでしかありません。そう望んでいる間は、主を大きくすることはできません。神をあがめるためには、自分の小ささを認めなければなりません。

 そのことが、48節の「身分の低い、この主のはしためにも目を留めてくださったからです」という言葉にも現れます。マリアは自分のことを、「身分の低い主のはしため」と告白します。そんな自分に、神が「目を留め」てくださった。49節の言葉で言えば、「力ある方が、わたしに偉大なことをなさいましたから」ということです。神のみ前で低い者、卑しい僕でしかない自分が、神に選ばれ、その偉大な力によって用いられて、神の恵みのみ業を担う者とされた。マリアは、そこに自分の幸い、祝福を見ています。

 この幸いゆえに、彼女は神をあがめ、大きくしているのです。

 

■大きな愛

 幸いな者として生きるとは、そんな神の大きな愛によって生かされる者となることでした。「神の憐れみ」「神の愛」こそが、マリアの賛歌に流れる通奏低音、基本的なメロディーでした。

 50節には「その憐れみは代々に限りなく、主を畏れる者に及びます」とあり、54節にも「その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」とあります。そして55節には、この憐れみが、イスラエルの民の父祖アブラハムに与えられた、神の約束に基づくものであると歌われます。

 誰が父親なのか分からない子を宿したマリア、そして不妊の女と言われ続けてきたエリサベト。彼女たちは、圧倒的な不遇、絶望的な状況に置かれていました。しかし神は決して彼女たちを、そしてこのわたしたちを忘れ去り、見放すことなどなさらないのです。

 それは、神の驚くべき憐れみ、大きな愛ゆえでした。この「憐れみ」はときに、ギリシア語のピスティス、誠実、真実と訳されます。神がその僕イスラエルを受け入れて、愛によって生かし、導いてくださるのは、神が、アブラハムとその子孫に与えてくださった約束に誠実であった、真実であった、つまりピスティスなお方であったからです。神の愛は、わたしたち人間の罪や悲惨さに対する単なる同情などではありません。神の愛は、神の約束に基づく、神の真実さゆえのものでした。

 絶望的な状況の中にあるマリアは、それにもかかわらず、希望と喜びをもって今、神の真実な愛に目を注ぎ、その大きな愛に包まれ、委ねるようにして、この賛歌を歌っています。そしてこの賛歌は、福音書に語られるすべてのことが、この愛のゆえに生じ、この愛の下にあると宣言し、わたしたちの世界のすべても、神の大きな愛に包まれている、そのことを確信するようにと、わたしたちを慰め、励まし、促します。

 

■大いなるものとの出会い

 以前申し上げたように、好きになることと愛することは似て非なるものです。好きになったものは、あるきっかけで簡単に嫌いになります。しかし愛は、好き嫌いを超えて働きます。愛するために、好きになる必要はありません。愛するとは、好悪の感情を超えてそれを受け容れることだからです。

 自分を好きになれないことは、誰にもあるでしょう。冷静に自分を顧みれば、だれも自分を好きでばかりはいられません。でもわたしたちは、そうした至らない自分を受け容れることができるはずです。受け容れるとは、至らなさをそのまま認めるということに留まりません。むしろ、至らなさの奥に潜む可能性、いえ、根源的な真理―わたしという存在のかけがえのなさ―に気づくことが求められています。

 愛の眼(まなざし)は、今だけを見ようとはしません。過去、現在、未来を、「一つの時」、「神の時」として見つめます。自分を受け容れるとは、今の自分と折り合いをつけるばかりではありません。これまでの過去を抱きしめ、ゆっくりと明日に向かって進んでいこうとする営みです。

 トマス・ア・ケンピスの『キリストにならいて』の中に、人生の困難をめぐる印象的な一節があります。「時としていろいろな悩みや意に反する事があるのも、私たちにとってよいことである」。思うようにならないのはよいこと、試練もまた神からの恵みだ、と言います。試練の中にあるとき、人は自分を愛することを強く求められます。自分の過去、現在、未来を強く抱きしめるよう促されます。

 思うようにならない出来事に遭遇するとき、人は苦しみや悲しみを感じるだけではありません。そのことによって人は、このときのマリアのように、本当の意味で小さくなれます。自分を小さく感じるとき、わたしたちは自分を卑小なものだと考えてはなりません。ここでいう「小さくなる」とは、卑屈になることとも違います。それは大いなるものに出会うことにほかなりません。聖書は、その大いなるものを神と呼び、哲学は同じものに真理という名を与えました。愛する、自分を愛するとは、思うようにならない現実のただ中に、神を、真理を見出そうとすることでした。

 そして神は、大いなる愛の約束を果たすために、独り子イエス・キリストをこの世に遣わしてくださいました。御子を遣わし、その十字架と復活に示された驚くべき神の愛によって、わたしたちが救われ、打ち砕かれて、新しい生き方へと招かれるためです。マリアは、その神の愛の約束の実現のために選ばれ、用いられたのです。そこに、彼女の幸いがありました。

 わたしたちも、神の愛によって生かされ、その御心のために用いられていくことによって、今、もう既に「幸いな者」とされているのですから、与えられたこのいのちの道を、心からの感謝と喜びをもって、ご一緒に歩んでいくことができればと願う次第です。