≪式次第≫
黙 祷
讃美歌 1 (2,3節)
招 詞 イザヤ書35章3~4節
信仰告白 使徒信条
交読詩編 119篇105~112節 (141p.)
讃美歌 336 (1,3節)
祈 祷
聖 書 マタイによる福音書14章1~12節 (新27p.)
讃美歌 193 (1,3,5節)
説 教 「先駆者の死」 沖村 裕史
祈 祷
平和の挨拶
献 金 64
主の祈り
報 告
讃美歌 408 (1,3節)
祝 祷
黙 祷
≪説 教≫
■先駆けとしてのヨハネ
故郷ナザレの人々の不信仰と拒絶に続いて、福音書の中でも最も不気味で陰鬱な事件―バプテスマのヨハネの死が描かれています。拒絶されるイエスさまと殺されるヨハネ、二人の姿が重なって見えてくるようです。
紀元一世紀のユダヤ地方は、ローマ帝国による植民地支配のもとにあり、直接的にはローマの傀儡政権であるヘロデ家による分割統治が行われていました。人々はこの状況を屈辱として苦々しく思い、民族的自立を求めて反乱や抵抗運動が幾度も企てられました。そのリーダーたちはそれぞれメシア、救い主と呼ばれ、人々の期待を集めましたが、その企てのすべてが失敗に終わり、重苦しい閉塞感だけが残っていました。精神的な拠り所となるはずのユダヤ教も、人々の目にはどこか縁遠いもの、生き方を縛り付けるもの、形だけ守ればよいものとなってしまい、生きている人間、一人ひとりの悩みや苦しみを受け止めることができなくなっていました。
そこに現れたのが、バプテスマのヨハネでした。彼は、一人ひとりの生きる生き方、その向いている方向を問い糾します。終わりの時、裁きの時が近づいている。今こそ悔い改めの時、神へと向き直りなさい。激しくそう呼びかけるヨハネの姿と声が人々の心を捉えました。多くの人々がヨハネのもとに駆けつけ、ヨルダン川で彼から洗礼(バプテスマ)を受けました。そんなヨハネを、待ち望んでいた救い主、社会に変革をもたらしてくれるメシアと仰いだ人々も多くいたはずです。しかしヨハネは、自分は救い主ではない、その方の靴を脱がせる役目にも値しない者だ、と告白します。そして福音書も、このヨハネこそ、キリスト・イエスの道備え、先駆けとなった人である、と宣言します。
先駆けとなったヨハネの死という現実が、今ここで、イエスさまの福音宣教、十字架の出来事と切り離しがたく結びつけられています。マタイは、この預言者の死を、イエスさまの福音宣教の背景として描き出そうとしています。イエスさまの福音宣教は、ヨハネという預言者の死を身に負いつつなされたものなのだ、ということです。
事実、福音伝道を始められた「イエスは、ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれた」と4章17節にあり、また今朝12節に「ヨハネの弟子たちが来て、遺体を引き取って葬り、イエスのところに行って報告した」とあります。ヨハネの身に起こっていることは逐一、イエスさまに知らされていました。イエスさまは、ヨハネの死の知らせを受けて、自らにも死の危険が迫っていることをはっきりと自覚されたに違いありません。
この後17章、「イエスはお答えになった。『…言っておくが、エリヤは既に来たのだ。人々は彼を認めず、好きなようにあしらったのである。人の子も、そのように人々から苦しめられることになる。』そのとき、弟子たちは、イエスが洗礼者ヨハネのことを言われたのだと悟った」(11-13節)とあります。「人の子」とはイエスさまのことです。ヨハネを「エリヤ」になぞらえ、「このわたしも、あのヨハネと同じように人々から苦しめられることになる」と言われます。
この14章1節から12節には、人々から嘲られ、辱められ、あの十字架上で殺されることになるイエス・キリストの「先駆け」としてのヨハネの姿が描かれています。
■ヘロデの誕生パーティー
ヨハネを殺したのはヘロデ。ヘロデ・アンティパスです。彼は、イエスさまがお生まれになった時のユダヤの支配者、あのヘロデ大王とサマリアの婦人マルタケとの間に生まれた人です。父親の死後、ガリラヤとペレヤの「領主」として、紀元前4年から紀元39年までこの地を支配していました。「王」としてではなく、「領主」としてです。ガリラヤとペレヤはいずれもローマ帝国の領土でした。彼はそのローマの「傀儡」に過ぎません。晩年になって、妻ヘロディアに唆され、実質的な統治権—「王位」をローマ皇帝に求めますが、かえって叱責され、領土を取り上げられ、流刑地に追放されて死ぬという悲惨な最期を遂げることになります。権力と欲望に振り回され続けた無残な死でした。
そのヘロデが、このとき、世の注目を集めるようになっていたイエスさまの噂を耳にして、思わず呟きます。2節、
「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」
ヘロデの恐怖を物語っています。彼は多くの家来を持つ権力者です。ヨハネを捕えて処刑することもできました。しかし、彼の心の中にはずっと、神の預言を語るヨハネに対する恐怖がつきまとっていました。イエスさまの噂を耳にしたとき、真っ先に自分が殺したあのヨハネのことを思い出し、その甦りだと考えました。そこにヘロデの心の内から消えることのなかった不安と恐れを窺い知ることができます。
そのヨハネ殺害の時の様子が、続く3節以下に描かれます。
ヘロデは、領地ペレアの東に隣接するナバテヤ国王アレタスの娘を妻としていました。ところが、母違いの兄弟の妻ヘロディアと恋仲となり、結婚します。これが明らかな律法違反であると洗礼者ヨハネから厳しく咎められます。ヘロデはこの批判を抑え込むために、ヨハネを投獄しました。しかし殺すことができませんでした。「民衆を恐れた」からです。ヘロデは権力の座にありながら、ヨハネを恐れ、また群衆をも恐れました。
このとき、ヨハネの批判の的となったのはヘロデだけではありません。妻ヘロディアもそうです。彼女は深く恨みを抱きます。
へロデの誕生パーティーでのこと、ヘロディアの娘サロメが、ヘロデと招待客の前で踊りを披露しました。ヘロデを大いに喜び、サロメに、褒美として「願うものは何でもやろう」と、招待客の面前で「誓って約束し」ます。
宴席で踊る、それは当時、売春婦のすることとされていました。王の娘ともあろう者がそういうことをするのは常軌を逸した、はしたない行為です。「ヘロデを喜ばせた」というのも、卑猥な饗宴の様子を思わせますし、「願う物は何でも与える」という約束の仕方も、思慮を欠く権力者の驕りそのものです。しかも「誓って」とあります。もしこの約束をたがえたら死んでもよい、とまで言ったということです。ヘロデの軽薄で、驕り高ぶった性格が見え隠れします。
しかしそれ以上に、妻ヘロディアの陰湿で残忍な姿が浮かび上がってきます。サロメが母親ヘロディアに相談すると、へロディアはすぐさま「洗礼者ヨハネの首を願うように」と、娘を「唆した」のです。
この願いを聞いたヘロデは「心を痛め」ました。しかし、よくよく考えてみれば、実は今までやりたかったことができるチャンスが到来したのだと受け止め、結果として、ヘロデは娘のせいにし、やりたくてもやれずにいたことを成し遂げたのでした。
はねられた首が盆に載せられ、踊りをおどったサロメのところに運ばれてきました。サロメは急いで母のところへ持って行きました。
想像するだけでもゾッとするような場面です。パーティー会場は、一瞬のうちに凍り付き、招待客はみな、逆らえばこうなると思い知らされることになりました。実に残酷な場面です。
実にあっけない人生の幕引き。預言者の中の預言者、エリヤの再来、そう言われていた洗礼者ヨハネです。そのヨハネがこんなにも簡単に殺され、そしてその生涯を閉じてしまったのでした。
■ヨハネとイエス
人々の悔い改めを求めて荒野に立った預言者ヨハネが、宮廷の情事のあおりを受けて、あるいはまた王の猜疑心と権力欲の犠牲となって、非業の死を遂げた。一見、無意味な死と見えるかもしれません。
しかしマタイは、ヨハネの死を、来るべきイエスさまの死の先触れとして描いています。それは、ヨハネとイエスさまの間に、いくつもの共通点があることから分かります。
まず何よりも、ヨハネの宣教とイエスさまのそれとが全く同じ言葉、「悔い改めよ。天国は近づいた」であったことを思い出します。またヨハネは、その洗礼を受けようとして出て来た、ファリサイ派やサドカイ派の人々に「蝮の子らよ」となじりましたが、イエスさまもまた、「偽善なる律法学者、ファリサイ派の人々」に対して「蛇よ、蝮の子らよ」と激しい言葉を投げつけています(23:33)。ヨハネとイエスさまは同じ戦線に立つ者でした。
この場面での第一の共通点は、「ヨハネ殺し」を誘導したのはヘロディア、そして「イエス殺し」を誘導したのはユダヤの祭司長たちと最高法院ですが、そのどちらもが自分の手を汚さず、陰で操っていることです。さらに、ヘロディアの誘導に乗ってしまったのはサロメであり、イエス殺しの誘導に乗ったのは群衆でした。
二つ目の共通点は、見て見ぬ振りをする大勢の人々がいたことです。パーティーには大勢の客が招かれていたはずです。ところが、誰一人それを止めようとはしませんでした。止める勇気を持ち合わせていませんでした。十字架の場面も同じです。群衆が「十字架に付けろ!」と叫び続ける中、「これはおかしい。怪しい。間違っている」と感づいていた人もいたはずです。しかし誰もが皆、沈黙したままでした。結果、「イエス殺し」の行為そのものを肯定していくのです。
そして最後に、ヨハネの死に決定的な命令をくだしたのは、ヘロデでした。「願うものは何でもやろう」と軽々しく誓い約束すること、それ自体が問題ではありますが、より大きな罪に手を染めないため、そこから引き返すこともできたかもしれないのです。イエスさまの時はどうでしょう。最終命令をくだしたのは、ピラトです。ピラトの場合も、その決定はピラトにとって不本意なことで、彼は手を洗いながら「この人の血について、わたしには責任がない。お前たちの問題だ」(27:24)と言い放ちます。ピラトの言い訳、いや言い分はそうだったでしょう。しかしわたしたちは今も、「ポンテオ・ピラトのもとで苦しみを受け」と告白します。歴史は、ピラトその人こそが、あの場面での最大の責任者だと証言するのです。
確かに、ヘロデもピラトも権力を誇示しました。しかし周りを見ながら、内心恐れながら、びくびくしていたのも彼らでした。その証拠にヨハネを処刑した後、ヘロデは「ヨハネの亡霊」に苦しめられます。イエスさまの評判を聞いた時、彼は言いました。「あれは洗礼者ヨハネだ。死者の中から生き返ったのだ。だから、奇跡を行う力が彼に働いている」と。
今日の箇所には一切、イエスさまは登場しません。しかし、ヨハネの生き様、死に様を通し、イエスさまが鮮やかに証しされています。ヨハネの存在が時の権力者ヘロデを恐れさせたのです。
■証し人として
ヨハネは何においても、イエスさまがキリストであることの証し人として生きた人です。聖書の言葉、ギリシア語では「証人」という語は、後に「殉教者」を意味する言葉となりました。
数年前、”Rise of Christianity”『キリスト教とローマ帝国―小さなメシア運動が帝国に広がった理由』という本が出版され、話題になりました。著者はアメリカ人社会学者のロドニー・スタークで、古代地中海世界でキリスト教が急激に成長していった理由が何かを突き止めるべく研究したものです。訳書が出版される10年前に、京都大学名誉教授の水垣渉という先生から、その本を紹介いただきました。成長の理由は、「教会が愛の共同体であった」「クリスチャンの生き方が魅力的だった」ということでした。
当時、奴隷が病気になると見捨てられたそうです。しかし教会の人々は、社会が見捨て、誰も世話をしない、そんな人々の世話をしていきました。
女性や子どもは数に数えられなかった時代です。しかし教会は、女性や子どもを大切にしました。体が弱かったり、問題を抱えていたり、病気がちな子どもを平気で捨てていた時代、トイレの遺跡から無数の嬰児の遺骨が出土しています。そのような中にあって、クリスチャンたちは、やもめや孤児、多くの女性や子どもたちを大切にし、彼らを受け入れていたのです。
そのようなクリスチャンたちの生き方自体が、時代の中で「型破り」だったために迫害も受けました。それでも、イエスさまへの愛と信仰において、また兄弟姉妹が互いに愛し合うことにおいて、彼らは一歩も譲ることはありませんでした。
わたしたちの証しは、洗礼者ヨハネのような殉教を求められるようなものではないかもしれません。しかし、証しすることは求められています。イエスさまが教えてくださった生き方を祈り求めていく時に、イエスさまを知らない家族、友、職場や地域の仲間がわたしたちの生き方に魅力を感じ、「彼らが持っているものを、わたしたちも欲しい」と、わたしたちの交わりに加わりたいと願う。そうしたインパクトのある共同体、そうした愛の歩みとさせていただきたいと願います。
人の生き方を見れば、その人が何を大事にしているかが分かります。そのような意味で、神の前にへりくだり、共におられる神の愛の内を、天の国を歩む者となりたいものです。そして洗礼者ヨハネのように、イエスさまを、神を証しする証人としての務めを、些かなりとも果たす者とされたい、そう願います。