≪式次第≫
黙 祷
讃美歌 2 (1,2節)
招 詞 詩編51篇12~14節
信仰告白 使徒信条
讃美歌 204 (2,4節)
祈 祷
聖 書 使徒言行録2章1~4節 (新214p.)
讃美歌 346 (1,2節)
説 教 「風が吹いてくる」 沖村 裕史
祈 祷
献 金 64
主の祈り
報 告
讃美歌 406 (1,3,5節)
祝 祷
黙 祷
≪説 教≫
■風に舞う綿毛
皆さんは、数え切れないほどの綿毛が空を舞うのを見たことがおありでしょうか。
体と心の奥に拭い切れない疲れがあるのを感じ、久方ぶりに、山深い、鄙びた温泉を訪ねたときのことです。目の前を、白く、柔らかな、大きなシャボン玉のような綿毛が風に吹かれ、ゆったりと舞っていました。辺りを埋め尽くしているのはアザミの一種でしょうか。小さな頃、よくたんぽぽの綿毛をフーッと吹いて遊んでいました。でも、まん丸いままの、それも数え切れないほどの綿毛が舞うのを見たのは初めてのことでした。
その美しさに時を忘れていました。ふと、綿毛の舞う姿が美しいのはなぜだろう、そんなことに思いを巡らしていました。
風に流されるだけの、頼りなげなその姿が美しいのかもしれない…、いや、風に弄(もてあそ)ばれているようで、なお自由なその姿が美しいのではないか…。強い風が吹けば、跡形もなく飛び散り、強い雨が降れば、種もみな流れ去ってしまう綿毛。けれども、すべてを神に委ねて、花を咲かせ、真綿のような種を実らせ、風にその身を任せている。何と伸びやかで、何と自由なのだろう、何とたくましく、何と美しいのだろう。
綿毛は、草のいのちの終わりなのだろうか…、それとも始まりなのだろうか…。きっと終わりであり、始まりでもあるのだろう。いのちの姿は美しい。そのいのちがどれほど小さく、どれほど頼りなげでも、いや、であればこそ、神の息吹―風にすべてを委ねている姿がとても美しい。ああ、わたしもそうありたい…。そう祈っていました。
■時が満ちた
今、そんな風に包まれる時がやって来ました。
冒頭に「五旬祭の日が来て」とあります。これを直訳すれば、「ペンテコステ(五十)の日が満ちた時」となります。イエスさまが十字架にかけられたあの過越しの祭から五十日目です。
「五旬祭」とは、初夏の収穫の感謝として、麦の初穂を献げる祝いの祭りのことです。神から与えられる豊かな恵みに感謝する喜びの時であり、また砂漠を放浪していたイスラエルの民が、神の約束してくださった「乳と蜜の流れる地」カナンに入ることができたことを祝う時でもあります。その晴れやかな時を迎える十日前のこと、復活されたイエスさまが神のおられる天へと昇られました。
新しい「時」が始まろうとしていました。
イエスさまが昇天された後、神は一体どのようにしてこの世界に臨まれ、どのように働いてくださるのか。イエスさまは、天に昇ろうとされるそのとき、こう告げられました。
「あなたがたの上に聖霊が降ると、あなたがたは力を受ける。そして、エルサレムばかりでなく、ユダヤとサマリアの全土で、また、地の果てに至るまで、わたしの証人となる」(1:8)
その約束が今、成就しようとしています。「時が満ちて」五旬祭になった、そのとき、
「一同が一つになって集まっていると、突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた」(2:1-2)
神の霊は、人の予期せぬ時に「突然」、人を超える圧倒的な力をもって、「激しい風が吹いて来るような」わたしたちの依って立つ土台をも揺るがすほどの衝撃をもって、「家中に響き渡るようにして」与えられました。
新しい「時」の幕開けです。約束の聖霊を待っていた者が、それを与えられる者にされました。聖霊はその圧倒的な力をもって、一切を失っていた、何も持たない人々を、最も大切なものを与えられた、最も豊かな者へと変えられました。
ペンテコステの日、聖霊は「一つになって集まって」いた人々を捉え、「舌」―言葉を、「天下のあらゆる国」へ福音を語り伝える力を与えてくださったのです。
新しい「時」、それは「一同が一つになって集まって」いた神の憐みの家から、福音の言葉を携えて出て行く「時」です。しかしそれは、神の憐み、イエスさまの愛を離れて行くことではありません。聖霊の圧倒的なみ力によって、その憐み、その愛に導びかれて出ていくことでした。
■いのちの霊
そのようにして教会を立て、導き、今も支えてくださっている聖霊の働き、わたしたち人間を超える圧倒的な力を、聖書は様々に証言しています。
例えば聖書の冒頭、「創世記」の1章1節以下です。
「初めに、神は天地を創造された。地は混沌であって、闇が深淵の面にあり、神の霊が水の面を動いていた」(1-2)
神の霊が一陣の風のように水面(みなも)を吹き抜けました。そのとき、
「神は言われた。『光あれ』。こうして、光があった」(3)
すべての始まりの時、神が聖霊を通して働きかけてくださった最初の一言が「光あれ」であったことに、深い感動と安らぎを覚えます。なぜなら、自分の意志で、自分の力で存在したものなど、何ひとつないからです。創世記はこの後(あと)、神が空と海と大地を形づくり、草木と動物をつくり、そして人間をつくられた様子を描きますが、それは、このわたしたちすべてのものが、神に「あれ」と願われ、「あれ」と命じられて、今ここにある、生きているのだ、という真理を示すものです。誰からも、何者からも拒まれ、否定されることのない神の意志、神のみ心よって、わたしたちはいのち与えられ、今ここに生かされています。
わたしたちは時に、わたしは何のため生きているのか、わたしの人生に何の意味があるのかと思い悩むことがあります。わたしなんか何の価値もない、わたしみたいなつまらない、何もできない、人から蔑まれるばかりの人間など生きていても何の意味もない。そう思って、深く苦しむことがあります。その苦しさに耐え切れず、一時の快楽だけを追い求め、人に認められることばかりを願って結局のところ、さらに傷ついてしまうわたしたちです。
そんなわたしたちに、神は、今も神の霊を通して、ただ「あれ」と言ってくださっています。わたしたちのいのちも、わたしたちの人生も、「あれ」といってくださった神の意志、神のみ心によって与えられたものです。たとえ、どのようなものであっても、神の意志によって与えられた、ただそれだけが、そしてそれこそが、わたしたちの存在理由、生きていることの意味、揺るぐことのない真理です。
創世記はさらに、こう語ります。2章7節、
「主なる神は、土(アダマ)の塵で人(アダム)を形づくり、その鼻に命の息を吹き入れられた。人はこうして生きる者となった」
この「息」こそ、ヘブライ語で「ルアッハ」、ギリシア語の「プネウマ」です。「息」「霊」、そして「風」と訳される言葉です。神は土の塵(ちり)から人を、自分に似せ、かけがえのないものとして造られました。しかし、それだけでわたしたちは生きる者になったのではありません。神から「いのちの息」なる「霊」を吹き入れられて初めて、つまり「あれ」といってくださる神の意志によって、生きる者となったのでした。神は、わたしたちすべてのものに「あれ」、「あるだけでいい」と言ってくださるために、「霊」を吹きかけて、「いのち」を与えてくださったのです。
これが、わたしたちの存在の根源、根拠、そしてアイデンティティーです。
■響き合う
神が造られたこの世界はしかし、悪の世界でもあります。悪い霊があるのです。聖書に記される「穢れた霊」、「悪霊どもの霊」、「人を奴隷にする霊」です。
神が「あれ」と言い、神の霊を注いでくださった、かけがえのない「いのち」を傷つけ、損なおうとする力に満ちています。しかもその邪悪な力は、わたしたちとは無縁な外にではなく、わたしたちの内にあります。わたしたちがどんなに愛し合い、赦し合い、支え合って生きていきたいと心から願っていても、わたしたちの罪は根深く、わたしたちは躓(つまず)き続けます。
カトリックの神学者、前島誠がこんなことを書いています。
わたしたちが生きていく上で、最も大きな躓きとなり、わたしたちを悩み、苦しめるもの、それは、何よりもわたしたち自身の人間関係である。家庭、学校、会社、所属する集団、時と所を問わず、教会もその例外ではあり得ず、だれもが悩みの一つや二つは抱えている。この人がいなかったら、人生どんなに楽しいだろう、時としてそう思うことすらある。新聞やラジオの身上相談を見聞きしていても、内容のほとんどはこの類い。「親が、夫が、子どもが」に始まって、「友だちが、上司が、お隣りが」まで、悩みの種は尽きることがない。続発する悲しい事件に接するたびに、人と人との関わりとはこれほどまでに厄介なものかと考え込んでしまう。「先生、どうして人と関わらなくてはいけないんですか?」と真顔で相談される。でも、相談するだけ、まだましなのかもしれない。深い関わりはなるべく避けたい。傷つきたくない。だから無条件に自分を受け入れてくれるグループにしがみつき、上辺だけの生温い関わりに甘んじるか、あるいは、一方的に自分の願いだけ、自分が受け入れられることだけを求める。人と人との関わりを悩む以前に、すでにその関わりから身を引いてしまっている。そこでは、人と人との真剣なぶつかり合いも、心の底からの響き合いも持ちようがない。そういう自分がまたイヤになる
、と。
人が、自分にとって都合が良いか悪いかだけの存在となり、必要がなければいとも簡単にその関係を断ち切り、存在それ自体を否定しても平気になってしまいます。逆に、自分自身が簡単に切り捨てられ、深く傷ついてしまうこともあるでしょう。そんな自分が益々イヤになって、自分で自分を否定し、自分のいのちを自らが軽んじてしまうようになります。それが、現代を生きるわたしたちの姿、悪霊に支配され苦悩に喘ぐ姿です。しかしそれは、神から与えられたかけがえのない「いのち」には似つかわしくない姿です。人間のあるべき姿ではありません。前島は続けて言います。
人のことを“person”という。語源はラテン語のペルソーナ、per- (貫いて)、sonare(鳴る)という動詞からきた。人は人と共鳴して初めて人となる—見事な切り口ではないか
、と。
その通りです。「人」、他者とはまず何よりも、無条件に「あれ」といってくださった、絶対他者たる「神」でしょう。と同時に、わたしと同じように神に「あれ」と言われた、かけがえのないいのちを生かされている、相対他者たる「隣人」です。その神と人の間、人と人との間に共鳴を起すには、その間を貫く大気の動き、「風」が必要です。「霊」は何よりも、そのような風でした。神と人を、人と人を「響き合わせる」風です。
今日のみ言葉には、激しく豊かな響き合いが起こった、その様子が描かれています。自分勝手にしゃべるだけで、相手が言っていることが全く理解することのできなかった人々が、相手の言葉を使い、互いに理解し会えるようになりました。いったい何と何とが響いたのでしょうか。一人一人にすでに分け与えられている内なる霊が、生きて働かれる神の霊=聖霊の働きかけに触れて大きく喜び、響いたのです。
神は、「響き合う者」として、すべての人を造られたのです。
■今も風が吹いてくる
「ばかやろう。なんで酒なんか飲んでくるんや。酒なんか飲んだらくるなと言ったやろう。」
元看護婦のKさんは見舞いに来た男の人を怒鳴りつけました。
Kさんは生涯独身を貫き、四十年以上も看護の仕事に自分を捧げ尽くし、数年前に退職をしていました。小さなアパートで独り暮らしをしていたそのKさんが末期がんで入院をしました。
自分のことより人のことが気になる性分で、仕事を失った人や一人ぼっちの老人などをよく世話をし、励ましていました。そのKさんが余命宣告を受けて入院。深刻な孤独を味わうことになります。人が信じられなくなり、決して人の世話になりたくないと頑固に言い張っていました。
そこに見舞いにやって来た男の人は、いきなり怒鳴りつけられて身体を縮ませながら、小さな声で「酒を飲まずには、あんたの顔を見られなかった」と、すっかりやせ細ってしまったKさんの顔を見つめます。荒くれたその人の心の優しさに感激して、Kさんの目から涙が零れ落ちました。
Kさんの心に、少しずつ変化が起きてきました。
若い看護婦が戸を開けて、薬を届けてくれました。Kさんは「ありがとう」とひと言礼を述べた後、「先生、私の顔、やせてこんなになって…。でも、きびしくないでしょ。穏やかな顔で、素直に『ありがとう』って言えるようになりました」と静かに語ってくれた
、と言います(窪寺俊之『いつまでも残るもの』より)。
Kさんの目から涙が零れ落ちたとき、Kさんと男の人との間に、確かに風が、いのちの神の霊が吹き抜けた、そう思えてなりません。Kさんが変わったのは、Kさんの力ではありません。与えられた「いのち」にすべてを委ねて、あるがままに「今ここを」生きるように、と神の霊が吹いて、神と人と、人と人とを響き合わせてくださったのではないでしょうか。
聖霊は、風のようです。直接その姿を見ることはできません。それでも、ひとたび風が吹き過ぎる時、木々の葉をそよがせ、枝を揺るがします。それで、わたしたちは風が吹いていることをこの目で、この耳で捉えることができます。すべては、風の通り過ぎた後のことです。
すべてに相応しい神の時があるように、風も自らの「時」に応じて吹き過ぎます。わたしたちが風を吹かせることなどできません。風が吹く「時」をあらかじめ知ることも難しいでしょう。吹く「場所」「人」「やり方」も、風の思いのままです。わたしたちの自由にはなりませんが、だからこそ、そこには分け隔てがありません。どんな時、あらゆる場所、すべての人に、様々なやり方で、「風が吹いてくる」のです。そのように吹き抜ける風―聖霊の恵みと働きかけをわが身に受けつつ、神と、そして人と豊かに響き合う道を求めていくことができればと願う次第です。