■聖霊の風
春の桜や秋の紅葉が風に吹かれて、その花びらや葉っぱが一斉に踊るようにして舞うのを見ると、うっとりとします。夏、汗をいっぱい掻きながら、自転車をこげば、顔に当たる風が暑さを吹き飛ばしてくれます。白い雪を運んでくる冬の風はとても冷たいけれど、身も心も引き締まるようです。
誰も、その風を目で見ることも、手でつかむことも、鼻でにおいをかぐことも、口で味わうこともできません。でも、木の枝が揺れ、雲が流れ、花が舞い、葉がざわざわと音を立て、この頬(ほお)に当たるのを感じれば、風が吹いているのだとわかります。不思議です。神様のようです。神様も、風のように目には見えませんし、手に触れることもできません。それでも、神様がいつも、わたしたちと一緒にいてくださり、どのようなときにもわたしたちを支え導いてくださっている、そう感じることができます。目には見えず、掴めもしないからこそ、いつでも、どこででも、わたしたちに吹いてくる、それが神の働き、神の霊、聖霊です。
広島でのこと。とても気持ちのよい五月の昼下がり、川沿いの公園へ出かけました。木の間から陽の光がきらきらと洩れてきます。小さな男の子が遊んでいるそばで、お父さんとお母さんが楽しそうに話をしています。そこに、緑色の葉を揺らして風が吹いてきました。緑の風です。ふと見ると、男の子がまんまるの綿毛になったたんぽぽを手に持って、ふうーっと息を吹きかけて飛ばしています。綿毛が緑の風に乗って、ふわん、と飛んでいきます。男の子はその綿毛に、「待ってえー」とかわいい声で呼びかけ、それでも待ってくれないたんぽぽの綿毛を追いかけます。綿毛は風に吹かれ、ふわふわ、飛んでいきます。男の子は、綿毛を風の中に見失わないようにと、きれいな目をしっかりと見開いて、追いかけていきます。やがて綿毛が地面に落ちます。それでも男の子は、しゃがみ込み、地面の綿毛をじーっと見つめ続けていました。
わたしたちは、人と仲たがいをしたり、大切なものを失くしてしまったりすると、もうどうしていいかわからない、もう駄目だ、もうどうでもいいと、悲しく、苦しくなることがあります。そんなとき、神様は、わたしたちにふうーっと聖霊の風を吹きかけて、たんぽぽの綿毛のように、わたしたちを安心できる場所へと運んでくださいます。それだけではありません。神様は、聖霊の風を吹きかけながら、あの男の子のようなきれいな瞳で、わたしたちのいのちのゆくえを、どこまでも追い続け、見守ってくださいます。
■御心のままに
今日のみ言葉には、そんな風に吹かれて、御子キリストのもとに運ばれ、御子キリストと出会うことになった、パウロの姿が描かれています。15節から16節です。「御心のままに、御子をわたしに示して・・・」
パウロは告白します、神様が、わたしの内に、御子イエス・キリストを啓示してくださった、と。それは、彼が誰よりも律法のことをよく知っていたからでも、彼が善き業を行うことに熱心だったからでもありません。「わたしは、徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしていました。また、先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年ごろの多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていました。しかし・・・」とあります。「しかし」、「しかし・・・神が、御心のままに・・・」です。御子との出会いは父なる神の御心ゆえだった、パウロはそう振り返ります。
使徒言行録9章1節以下に記される、パウロの回心が思い出されます。
「さて、サウロ(こと、パウロ)はなおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで、大祭司のところへ行き、ダマスコの諸会堂あての手紙を求めた。それは、この道に従う者を見つけ出したら、男女を問わず縛り上げ、エルサレムに連行するためであった。ところが、サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした。サウロは地に倒れ、『サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか』と呼びかける声を聞いた。『主よ、あなたはどなたですか』と言うと、答えがあった。『わたしは、あなたが迫害しているイエスである。起きて町に入れ。そうすれば、あなたのなすべきことが知らされる。』同行していた人たちは、声は聞こえても、だれの姿も見えないので、ものも言えず立っていた。サウロは地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった。人々は彼の手を引いてダマスコに連れて行った。サウロは三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった。・・・アナニアは出かけて行ってユダの家に入り、サウロの上に手を置いて言った。『兄弟サウル、あなたがここへ来る途中に現れてくださった主イエスは、あなたが元どおり目が見えるようになり、また、聖霊で満たされるようにと、わたしをお遣わしになったのです。』すると、たちまち目からうろこのようなものが落ち、サウロは元どおり見えるようになった。そこで、身を起こして洗礼を受け、食事をして元気を取り戻した。」
「しかし・・・神が、御心のままに・・・」とは、アナニアが「聖霊で満たされるように」と語っているように、すべては、神様の側からの一方的な働きかけであって、そこに人間的な要素の入り込む余地など、少しも残されていなかった、ということでしょう。
そのようにして「聖霊に満たされ」たパウロに、神様は、「御子を(わたしに)示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」とあります。聖霊によって啓示されたもの、それは、「御子」イエス・キリスト、そして「その福音」でした。御子に出会うということは、「その福音」に生きる者とされるということでした。
「福音」とは、イエス・キリストがこの地上で最初に語られた、「時は満ち、神の国は近づいた」という喜びの知らせのことです。神の支配が、神の愛のみ手がもうすでにここにもたらされている、救いのみ手が今ここに差し出されている。だから、生きる向きを、あなたのまなざしを、わたしに向け、わたしの愛を信じ、その愛に生きることをあなたの人生の土台としなさい、という神様からの招きです。
「その福音」に、パウロは「救い」を見出しました。それは、救われるために律法を固く守るようにと教えていた、当時のユダヤ教の指導者たちの言葉とは、正反対のものでした。神の救いは、人間の行いや力によって得られるものではなく、「御心のままに」、ただ一方的に、神の恵みとして与えられる。そのことに気づかされ、自分ばかりを見つめていたまなざしを、父なる神の「御心」―神様の愛へと向け直したとき、キリストを信じる者たちを迫害していたはずのパウロが、そのキリストを信じ、「その福音を・・・告げ知らせる」者にされた。それが、「聖霊に満たされた」パウロの中で起こった回心の出来事でした。
■後で考え直す
マタイ福音書21章28節から32節に、こんなたとえがあります。
「・・・ある人に息子が二人いたが、彼は兄のところへ行き、『子よ、今日、ぶどう園へ行って働きなさい』と言った。兄は『いやです』と答えたが、後で考え直して出かけた。弟のところへも行って、同じことを言うと、弟は『お父さん、承知しました』と答えたが、出かけなかった。この二人のうち、どちらが父親の望みどおりにしたか。」彼らが「兄の方です」と言うと・・・」。
最初ここを読んだとき、いやいや、そうじゃない。父親の求めに、最初から「承知しました」と答え、そして、その通りに実行するのが一番良いし、それが父親の望むところであったのではないか、そう思いました。
ところがイエスさまは、最初「いやです」と答え、後から考え直した兄の態度が「父親の望みどおり」であった、そう言われます。神様の望まれることは、「後で考え直す」ことなのだ、ということです。その必要もないほどに、立派に生きることではない。「後で考え直す」必要のない、そんな優等生のような人間を、神様はお望みではない、そう言われます。
わたしたちは、さきほどの兄のように、「いやです」と思慮を欠いた拒否をしたり、ときには弟のように、「承知しました」と口先だけの従順を示したりします。神様は、そんな人間の現実をよくよくご存知です。それを百も承知の上で、「後で考え直す」ことを望んでおられるのです。神様のお望みになることは、ただ一つ、「後で考え直す」、悔い改めること、回心すること、それだけです。
では、「後で考え直す」の「後」とは、いつのことなのでしょう。「後の祭り」ということもありますから、いくら「後で考え直す」といっても、あまり「後」過ぎては、間に合わなくなるのではないでしょうか。イエスさまは、「実のならないいちじくの木」のたとえ(ルカ13:6-9)で、三年間、実がならなかったいちじくの木を切り倒せ、と命令する主人に対して、園丁に次のように答えさせています。
「御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。」
この執り成しの言葉は、実がなるチャンスが、今年一年しか残されていないことを示しています。その「後」はありません。来年、実がならなければ、「後の祭り」となります。問題は「この一年」です。つまり「今」です。「今」をおいて「後」はありません。「後」とは「今」のことであり、「後で考え直す」とは「今、考え直す」ことなのです。
しかし、来年になって、しかも実がならなかった時、園丁は「一年待っていただきましたが、実がなりませんでした。やむを得ません。切り倒しましょう」と言うでしょうか。間違いなく彼は、同じ執り成しの言葉を繰り返すことでしょう。そしてその後も、毎年、執り成し続けることでしょう。
実は、何年後になっても、間に合わないということはないということです。「後」はあるのです。「後」とは「いつでも気がついた時」のことと言ってもよいでしょう。「後で考え直す」とは「いつでも気がついた時に考え直す」ことでもあるのです。
神様のお望みになることは、最初から「承知しました」と答えて、それを実行する優等生になることではなく、「後で考え直す」こと、つまり悔い改め、回心することです。悔い改め、回心は、「今」しないと間に合わなくなる、「後」のないことなのですが、と同時に、どんなに遅れても間に合う、決して「後の祭り」にはならない、「後」のあることでもあるのです。
気がついたら悔い改め、回心すればよいのです。気がつかなければ仕方がありませんが、気がついたら、手遅れだなどと思わないで、その場で悔い改め、回心することこそ、神様の御心なのです。
■新しく生まれる
パウロにとってそうであったように、間に合わない回心はありません。
「徹底的に神の教会を迫害し、滅ぼそうとしてい」た、パウロです。そのパウロが、神様の働きそのものである「聖霊に満たされて」気づき、回心をしました。 人間的な思いからすれば、敵対していたパウロの経験した回心も、パウロが語る福音も、そのすべてが疑わしいものに映るかもしれません。
しかし、聖霊は「御心のままに」、風のように自由に吹きます。人間的な事柄に関わりなく、わたしたちを吹き抜けます。わたしたちが過去において、何者であったかが問題であるのではなく、何者であったにせよ、たとえ、互いに容易に受け入れることのできない関係であったとしても、「時は満ち、神の国は近づいた」ことに気づかされ、回心して、神様の御心―その愛を確信ことだけが求められています。そのためにこそ、神様は、聖霊を、神の風を、いつでもどこででも、吹きかけてくださるのです。
聖霊に満たされて、御子キリストに出会い、とらえられ、福音を告げ知らせる者とされたとき、パウロは、人間的なものをあてにしなくてもよい人間に、全く新しい人間に、変えられました。 22節以下に、パウロに直接会うこともなく、また彼がエルサレム教会や使徒たちの権威を託されていようがいまいが、そのようなことに関わりなく、ユダヤの諸教会がパウロの働きを受け入れて、神をほめたたえたと記されています。それは、パウロが聖霊によって、福音を告げ知らされる者に生まれ変わったことを、人々が認めていたということです。ただ神とキリストにのみ頼って、世と人とに頼らぬ信仰が理解され、それによって神に栄光が帰されたのです。
まことの喜びと力強さに満ちた信仰が、聖霊によって今もわたしたちに備えられ、与えられていることを、彼は、わたしたちに語り伝えているのです。日々、わたしたちを生まれ変わらせる聖霊が、今ここにも注がれています。
お祈りします。父なる神様、いかなる人や物にも拘束されることなく、ただあなたにのみ向って生きる自由な信仰を与えてください。その信仰の生活を通して、御栄えをあなたに帰することができますように、どうぞ、いつも聖霊の風をわたしたちに吹きかけてください。御名によって祈ります。アーメン。