≪説教≫
■母の日の意味
「母の日」は、アメリカではクリスマスイヴやイースターに次いで、たくさんの人が礼拝に集う日です。ただわたしは、この「母の日」の礼拝の準備をするとき、いつも一抹(いちまつ)の不安と危惧を覚えざるをえません。
「母」という言葉に対して、誰もが良いイメージを持っているとは限らないからです。母親から虐待を受けた経験を持つ人がいるかもしれません。自分が良い母親になろうとして、苦しみ、傷ついている人がいるかもしれません。母になることを望みながら、そうできない人もいるかもしれません。母になることを望まない人もいるかもしれないからです。
そもそも、「母の日」はどのようにして祝われるようになったのでしょうか。
起源は、17世紀初頭、イギリスやアイルランドで、レントの第4日曜日に祝われていた「マザリング・サンデイ」と呼ばれる日に遡ります。これが広く「母の日」として祝われるようになったのは、ウエストバージニアのアンナ・ジャーヴィスという女性が、1907年5月12日、亡き母が長年にわたって日曜学校の教師をしていた教会で記念会をもったとき、白いカーネーションを贈ったことがきっかけであった、と説明されます。
しかし実は、最初にこの日が公にアピールされたのは、それよりも30年以上も前の1872年、ジュリア・ウォード・ハウという女性によって、でした。南北戦争中に北軍兵士たちの間で歌われ、後に教会の讃美歌となった「リパブリック賛歌」―Glory, glory, hallelujah! ―の作詞者として良く知られている人ですが、その彼女が、南北戦争終結直後の6月2日、さきほどのアンナ・ジャーヴィスの母アンが敵味方を問わず、負傷兵の衛生状態を改善するために始めた「母の仕事の日」に刺激を受け、夫や子どもを再び戦場に送ることを拒否しようと立ち上がり「母の日宣言」を発表しました。平和を祈念し捧げる日としてこの日を祝いたいとの願いからです。これが母の日の始まりです。
母の日は、ただ母性をたたえる日というのではなく、愛する者を戦いで失った女性たちの悲しみから生まれた平和への切なる祈りの日でした。そして今も、イギリスやアメリカでは、人の母だけでなく、あらゆるいのちを育むものに感謝を捧げる日となっています。母の日は、いのちを育んでくださる方の、その計り知れない愛に感謝する日なのです。
愛が、神様の愛が、いのちを育み、人を生かす。このことを心に刻んで、今日のみ言葉に耳を傾けて参りましょう。
■何ひとつ欠けていない
イエスさまが繰り返し教え示してくださっていることは、ただひとつ。「あなたは愛されている」という福音、良き知らせでした。そして今日の聖書の言葉もまた、様々な試練や誘惑に遭って苦しみ悩むあなたへの、神様からの福音です。
今、「試練や誘惑」と言いましたが、聖書では両者に大切な違いがあります。苦しみが「誘惑」となるのは、苦しみに打ち負かされそうな自分に気づいているときです。しかし、この苦しみを自分の揺るがぬ確かさを示す機会とすることができれば、それは意味をもった「試練」となります。
イエスさまも様々な誘惑を受けられました。イエスさまは、その誘惑を試練に変えて、そのすべてに打ち勝たれました。その勝利は、十字架と復活によって完成するのですが、イエスさまは、ご自分の歩みを始めるにあたってまず何よりも、悪の本質と向かい合われます。
悪魔がやって来て、イエスさまに三つの誘惑を持ちかけます。そのひとつひとつにいろいろな説明がされますが、ここでは、ひとつのことを強調したいと思います。それは、この三つともが要するに、「あなたには今、欠けたものがある」という誘惑だ、ということです。あなたは足りない、あなたは持っていない、あなたは愛されていない、と。だから、それをパンで満たせ、権力や富で満足しろ、本当に愛されているのか試してみろ、そう誘惑するのです。
それはまさに、わたしたちが今まで、そして今も受け続けてきている誘惑です。「わたしは足りない」、「わたしは欠けている」、「わたしは値しない」。悪魔は、その欠けをあおり、その欠けをこの世の富や力、虚栄心や偽りの心で満たさせよう、と誘惑するのです。
それに対するイエスさまの答えは、とてもシンプルです。
欠けは、神様が満たしてくださる。いや、もうすでに神様はあなたを満たしておられる。あなたは何ひとつ欠けていない。神様からいのち与えられた神の子どもなのだから。あなたは何も求めなくても、試さなくても、もうすでに神様の愛の中を生きている、と。
そんな、言うならば、全面的な神様の愛への信頼こそが、信仰によって与えられる恵みです。
■「よし、よし」
赤ちゃんが泣くと、母親は赤ちゃんを抱き上げて、軽く揺すりながらあやして言います。
「よし、よし」
いい言葉です。人が生きる上での原点となる、尊い言葉だと思います。この「よし」はもちろん「良い」という意味の「よし」ですから、母親は「良い、良い」といっているわけで、このとき赤ちゃんは「良い存在」として全面的に肯定され、受け入れられています。赤ちゃんにしてみれば、「腹減った」か「眠い」か、とにかく理由があって泣いているのですから、ちっとも「良く」ないのですが、母親はにっこり笑って、こう言います。
「よし、よし。すぐに良くなる、すべて良くなるよ。ほら、お母さんはここにいるよ。何も心配しなくてもいいよ。いい子だ、いい子だ。よし、よし」
おとなになるとそんなことをもうすっかり忘れて、当たり前のように生きていますが、だれもが赤ちゃんのときにそうしてあやされたからこそ、自分を肯定し、世界を肯定して、今日まで生きてくることができたのではなかったでしょうか。
親の愛に恵まれなかったと感じている人は決して少なくないでしょう。親から十分に愛されなかった孤独と恐れの闇の深さは、経験した者にしかわかりません。それでも、どんな事情であれ、その愛がゼロだったということはないはずです。少なくとも、まだ物心つく前に、だれかから「よし、よし」とあやされてミルクを与えられなければ、一日たりとも生きてこられなかったのですから。
その「よし、よし」は、人の一番深いところで、いつまでも響き続けているに違いありません。なにしろ、生まれたばかりの赤ちゃんには、すべてが恐怖です。それまでの母親の胎の中の天国から突然ほうり出され、赤ちゃんは痛みと恐れの中で、究極の泣き声を上げます。それが「産声」という、この世で最初の悲鳴です。
ところが、それを見守るおとなたちはなんとニコニコ笑っています。そして、母親はわが子を抱き上げ、ほほえんで語りかけます。赤ちゃんがこの世で聞く最初の言葉です。
「まあ、かわいい。よし、よし」
わが子が泣いているのに、なぜ母親はほほえむのか。親は知っているからです。今、泣いていても、すぐに泣きやむことを。今、辛くても、すぐに幸せが訪れることを。今は知らなくとも、やがてこの子が生きる喜びを知り、生まれてきてよかったと思える日がくることを。親は泣き叫ぶ子にこう言いたいのです。
「よし、よし。だいじょうぶ、心配ない。恐れずに生きていきなさい。自分の足で歩き、自分の口で語り、自分の手で愛する人を抱き締めなさい。これからも痛いこと、怖いことがたくさんあるけれど、生きることは本当にすばらしい。だいじょうぶ、心配ない。おまえを愛しているよ。よし、よし」
生きていることの不安と孤独に胸を締めつけられるような夜、生みの親の愛を信じて、そっと耳を澄ませてみれば、きっと、わが子にほほえんで呼びかける人生最初の「よし、よし」が聞こえてくるはずです。それは、この地上の母や父の「よし、よし」であり、それ以上の愛をもってほほえみ呼びかける、創造主なる神の「よし、よし」であるはずです。
■神から生まれ、祝福されている
それなのに、わたしたちはしばしば、「こんな自分じゃ」といったことを口にしてしまいます。
要するに、「わたしには欠けがある」と言うわけです。「わたしなんか」、「わたしなんて」、「こんなわたしなんかが洗礼を受けていいんでしょうか」、「こんなわたしの信仰なんて、本物じゃないと思いますけど」などなど。
それはまったくの間違い、勘違いです。むしろ、そういうわたしたちだからこそ、神様が選んでくださったのですし、そういうわたしたちだからこそ、信仰—愛されていることに気づかされ、そのことを信じる力が贈り物として与えられているのです。
わたしたちが、神様を理解し、選び、信仰を手に入れるのではありません。「あるがままのわたしがかけがえのないわたしであることこそ、神様の喜びだ」と確信をもって立つことこそ、イエスさまの勝利の意味です。
そのとき、誘惑は試練となります。悪の力も、それに打ち勝つことができません。ですから、どんなときも、いえ、苦しい時、悲しい時、行き詰まった時にこそ、「よし、よし」との神様からのみ声に耳を傾けましょう。「たとえ何も持たず、完全に裸であっても、わたしは神から生まれ、神に祝福されている、美しいわたしだ」という誇りをもって、これからの人生をご一緒に歩んでゆくことができればと願う次第です。
祈ります。愛の主よ、わたしたちは躓きます。裁いてしまいます。祈ることをやめてしまいます。驕っている時にも、絶望している時にも、あなたの姿が見えなくなります。御子の十字架が見えなくなります。それが、わたしたちの姿です。わたしたちの世界です。それでも、あなたはわたしたちを愛し、育み、守ってくださいます。そのあなたの愛に支えられて、わたしたちがあなたを愛し続け、隣人を大切にし続けることができますように。主のみ名によって祈ります。アーメン