福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月16日 ≪聖霊降臨節第5主日礼拝≫『試練に耐えられるよう』 コリントの信徒への手紙一 10章 1~13節 沖村 裕史 牧師

6月16日 ≪聖霊降臨節第5主日礼拝≫『試練に耐えられるよう』 コリントの信徒への手紙一 10章 1~13節 沖村 裕史 牧師

 

■変わることのない恵み

 パウロは今、イスラエルの歴史の出発点であり、神の救いの御業の一つであった「出エジプト」の出来事に、コリント教会の人々の目を向けさせます。1節後半から4節です。

 パウロはまず、「わたしたちの先祖」が「雲の下」で「海を通り」、「雲の中、海の中」で「モーセに属するものとなる洗礼(バプテスマ)を授けられ」た、と語ります。「雲の下」とは、神の支配の下、神と共にあることを意味し、おそらく、エジプトを脱出したイスラエルの民の行く手を導いた「雲の柱」のことがイメージされているのでしょう。続く「海を通り抜け」「海の中」とは明らかに、前は海、後ろからは追い迫るエジプト軍という絶体絶命のピンチの時に、神が海を二つに分けて道を与えてくださり、海の底の道を通って向こう岸へと逃れることができたこと、またその後を追ってきたエジプト軍の上に海が返り、彼らが海に飲み込まれて全滅してしまった、あの「葦の海の奇跡」のことを指しています。イスラエルの民は神の御業によってエジプトの奴隷から解放され、救われました。そのことが彼らの受けた洗礼だったと言われます。そのいずれもが神による恵みの御業だからでしょう。

 その洗礼にあずかった者たちが、「皆、同じ霊的な食物を食べ、皆が同じ霊的な飲み物を飲みました」。天からのパンであるマナと岩から湧き出た水という霊的な食物と飲み物に養われつつ、荒れ野を歩んでいきました。イスラエルの民も洗礼を受けた者として、霊的な食べ物、飲み物である聖餐にあずかりつつ歩んだのだ、と言います。パウロは今、イスラエルの民が体験したエジプトの奴隷状態からの救いと荒れ野の旅路とを、洗礼を受けてイエス・キリストの救いにあずかり、聖餐によって養われつつ歩むコリント教会の姿に重ね合わせています。

 その上で「彼らが飲んだのは、自分たちに離れずについて来た霊的な岩からでした」と続けます。イスラエルの民が荒れ野で渇きのために死にかかったその時、不思議な神の備えによって水を与えられました。それは、神がイスラエルの民を選び、これを支え導いてくださったのだということです。荒れ野の旅の初めにシフィディムで岩から水が与えられ(出17:1-7)、旅の終わりにはカデシュで岩から水が与えられました(民20:7-13)。そればかりか旅の間にも、イスラエルの民がモーセに「我々を渇きで殺すためにエジプトから連れ出したのか」と詰め寄る場面が何度も出てきますが、その度に神は、岩から水をほとばしり出させる奇跡によって民の渇きを癒してくださいました。その旅のすべてを振り返った時、「岩が離れずついて来た」という言葉が自然に出てきたのでしょう。神は至る所で、思いもかけない仕方で水を備えてくださったのです。荒れ野の旅の初めから終わりまで、神の恵みが覆い包んでいたということです。「皆、同じ」霊の食べ物と飲み物にあずかったということ、それは、イエス・キリストにまで貫かれる神の恵みに対する信頼、信仰を告白する言葉でした。

 このパウロの言葉がわたしたちにも向けられています。イスラエルの民とコリント教会の人々に備えられた神の恵みが今、わたしたちにも注がれているのです。そのことに気づかされるとき、「この岩こそ、キリストだったのです」というパウロの言葉が心深くに響いてきます。

 

■神の警告

 ところが、この後(あと)一転、終始変わることのない神の恵みとはあまりにも対照的な、イスラエルの民の離反が、わたしたちの罪が浮きぼりにされます。5節です。

 神の恵みの中で、イスラエルの民の荒れ野の旅は始まり、その歩みは続けられました。わたしたちの先祖は「皆」、洩れなくこの神の恵みを受けたのに、「同じ」霊の食べ物と飲み物を受けたのに、「しかし、彼らの大部分は神の御心に適わず、荒れ野で滅ぼされてしまいました」。「しかし」というパウロの言葉に心が抉(えぐ)られるようです。

 考えてみれば、パウロが荒れ野の旅の始まりに筆を走らせたのは、変わることのない神の恵みに、わたしたちの目を向けさせるためでした。しかしそれはまた、この神の恵みの下で人間がどのような歩みをしたのかということを語り始めるためでもありました。パウロは今、神の恵みを指し示しつつ、その一方でイスラエルの民の罪を、人間の罪を具体的に描き出すことによって、厳しい神の警告を告げます。

 「これらの出来事は、わたしたちを戒める前例として起こったのです。彼らが悪をむさぼったように、わたしたちが悪をむさぼることのないために」

 洗礼を受けた者として聖餐にあずかりつつ生きるコリント教会の人々、このわたしたちを戒めるための言葉です。洗礼を受け、礼拝を守り、聖餐にあずかっているから、もうわたしたちは救われている、もう大丈夫、安心だという訳にはいきません。同じように洗礼を受け、聖餐にあずかっていたイスラエルの民が御心に適わず、滅ぼされてしまったという事実がある、とパウロは警告します。

 そして、彼らは「悪をむさぼった」と言います。この「むさぼる」という言葉からすぐに思い出す場面があります。荒れ野の旅をしたイスラエルの民は、彼らを養うために神が備えてくださったマナに満足することができませんでした。

 「民に加わっていた雑多な他国人は飢えと渇きを訴え、イスラエルの人々も再び泣き言を言った。『誰か肉を食べさせてくれないものか。エジプトでは魚をただで食べていたし、きゅうりやメロン、葱や玉葱やにんにくが忘れられない。今では、わたしたちの唾は干上がり、どこを見回してもマナばかりで、何もない』」(民11:4-6)

 食べ物のためには奴隷であることをも厭わず、今ここに備えられているものにも満足できず、むさぼり続けるイスラエルの民の姿を笑うことなど、誰にもできないでしょう。荒れ野の旅は神の恵みに包まれ、その恵みに貫かれてはいますが、それは人間がいつも快適な状態に置かれるということではありません。

 神の恵みの下に置かれるということ、その恵みによって生きようとすることは、新しい困難と断念を伴うことでした。マナは一日分ずつ、日毎に必要な分量しか与えられませんでした。与えられたものに感謝して生きることを知らずに、貪欲にむさぼり続けることは、世界を支配しておられる神を否定して、世界を自分の支配下に置こうとすることです。

 神はしかし、この肉を求めて泣く、イスラエルの民の訴えを聞かれます。ある日、主のもとから風が起こり、大量のうずらが吹き落とされ、民は二昼夜がかりでそれを拾い集めるほどになります。そのうずらの山に埋まりながら、彼らはそこで滅ぼされるのです。

 WWF・世界自然保護基金と英国の小売り大手テスコが2021年7月に発表した報告書によれば、世界で栽培生産された全食品の内の約40パーセントに当たる25億トン—20億人分の食料が廃棄されていたと言います。これは食品ロスの主な指標とされる国連食糧農業機関(FAO)が2011年に発表した、年間約13億トンの約2倍の量に当たります。日本も、2021年度の農林水産省の調査によれば、一年に523万トンの食糧が廃棄される、飽食国家のひとつです。食だけではなく、「消費社会」の中に生きるわたしたちはこぞって、次から次へと物を「むさぼる」ことに汲々としてはいないでしょうか。

 思えば、わたしたちが求めるものを神は与えてくだったのです。神は、わたしたちの欲望を満たすものを飽きるほどに与えてくださった、と言えるのかもしれません。しかしそのむさぼりの中に、わたしたちへの裁きが待っている、とパウロは警告します。

 

■神への反逆

 この「むさぼり」に続いて、パウロは「偶像礼拝」の罪を挙げます。シナイ山で、モーセが十戒を授けられている間に、イスラエルの民はその麓で金の子牛を造り、これに燔祭(はんさい)をささげ、「民は座って飲み食いし、立っては戯れた」とあります。

 偶像礼拝であることは明らかですが、このとき、イスラエルの民の語った言葉が忘れられません。子牛を造るとき、彼らは「イスラエルよ、これはあなたをエジプトの国から導きのぼったあなたの神である」(出32:4)と告白しています。彼らは、自分たちをエジプトから導いてくださった神を捨てて、金の子牛礼拝に鞍替えしようとは考えてもいません。神を礼拝することに変わりはないのですが、ただもう少し分かりやすい、その神を目に見える形で、というのが子牛をつくるときの思いだったのです。「自分は大丈夫だ。自分のしていることはりっぱに正当化できることだ」。「それは神を礼拝すること、信仰の生活をすることと矛盾しない」。そんな言い訳をしながら、その実、神ならぬものに仕えてしまうのが、わたしたちの罪の姿です。

 パウロは厳しく、コリント教会の人々が犯している偶像礼拝の罪を指摘します。偶像とは、人間が自由にできるものであり、人間の好みに合わせて造られたものです。神をすら人間の好みに合わせて、人間が支配できる形にしようとすることこそ、まさに「むさぼり」です。

 何ものをも恐れないこの態度、むさぼり、偶像礼拝は当然、享楽的な生活にも繋がります。パウロの警告が、「みだらなこと」に身を委ねる人々に向けられたのも当然のことでしょう。

 パウロの警告はなおも続きます。神への反逆は、神を「試みる」こととなって現れた、と。「主を試みる」ということは、自分の願望と判断がまずあって、それに合致するかどうか「試す」ということです。自分自身に対する神の意志を真剣に考えず、神の命令に服従しようとするのではなく、自分の願いと楽しみに合致するかどうか「神を試みる」ことです。

 最後にあげられている「主に対するつぶやき」も同じです。エジプトからカナンに至る道は、神の恵みの翼のもとにありましたが、最初から最後まで罪にまみれていました。民は繰り返し、彼らの指導者たちに盾突き、神に向かってのつぶやきは絶えることがありませんでした(出15:24-26他)。結果、「滅ぼす者=死の使い」に滅ぼされるのです。つぶやきとは、ただブツブツ言ったり、ぼやいたりすることではありません。神に対して積極的に抗弁することです。神の非を鳴らすかのように、自分の主張を押し通そうとする態度です。

 これらのことすべてが、「時の終り」に臨んでいる教会に対する訓戒であり、警告でした。11節、パウロはこのイスラエル人が陥った罪はコリント教会のすべての人にも起こりうるものとして警告します。わたしたちもこの言葉の中に、わたしたち自身への警告を聞くことができます。「時の終りに直面しているわたしたち」とパウロは言います。今の時は、キリストの再臨による神の国の完成を待ち望む時です。その時はまた、わたしたち自身の死、わたしたちの歴史の終わりと重ね合わせることができます。わたしたちも、この厳粛な警告にしっかりと耳を傾けなければなりません。

 

■試練に耐えられるように

 「だから」とパウロは言います。12節、

 「立っていると思う者は、倒れないように気をつけるがよい」

 誰でも、自分は信仰に立っているから、そして神の民に属しているから安全だ、大丈夫と考えるでしょう。しかし、イスラエルの民が陥った罪は、教会のすべての人に、わたしたちにも起こりうることなのですから、自分は大丈夫だと思っている人こそ、倒れないように気をつけなければなりません。

 しかしそれは、神は御心に適わない人間に対して怒り、滅ぼす厳しい方だから、そのご機嫌を損なわないように、いつも緊張して、びくびくしていなければならない、ということではありません。

 パウロがここで語り、示している神の本当の姿は、そのようなものではありません。13節にそのことがはっきりと示されます。

 「あなたがたを襲った試練で、人間として耐えられないようなものはなかったはずです。神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」

 これが、パウロが語る神の本当の姿です。

 神がわたしたちを試練に遭わせると言います。神は、わたしたち人間に利用されるような方ではありません。甘い顔ばかりしている方ではありません。時としてわたしたちに試練をお与えになるのです。試練とは苦しみ、悲しみです。どうしてこんな目に遭わなければならないのか、神の恵みなど一体どこにあるのか、と思わずにはおれないような現実です。そういう厳しい現実に直面する時、わたしたちは神に不平不満を言い、逆らい、自分の思い通りになる偶像を求めてしまいます。

 しかしその苦しみの現実は、神からの試練です。試練は、神がわたしたちを鍛え、導き、成長させるために与えておられるものです。試練の背後には神の愛が、わたしたちのことを大切に思っていてくださる御心があるのです。その御心のゆえに、神はわたしたちを「耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう逃れる道をも備えていてくださ」るのです。試練はわたしたちを滅ぼすためのものではありません。そこに、必ず逃れる道が備えられているのです。試練も、そこから逃れる道も共に、神が与えてくださるのです。生ける真の神はわたしたちに対してそのような愛をもって臨んでくださる方なのだ、「神は真実な方です」とパウロは宣言します。

 神は真実な方である、そのことが大切です。

 人間として耐えられないような試練はないのだと言うとき、そこで大切なことは、どんなに辛くても、自分は必ずそれに耐えることができるのはなぜか、ということです。それはただひとつ、神の真実ゆえです。

 イエス・キリストの祈りを想い浮かべます。

 「わたしがお願いするのは、彼らを世から取り去ることではなく、悪い者から守ってくださることです」(ヨハネ17:15)

 わたしたちのために祈っていてくださる主が、わたしたちの傍に立っていてくださるのです。主は、わたしたちを生の重荷から解放してはくださいません。しかし主は、わたしたちがそれに耐えるように、どのようなときにも、真実をもって助けてくださるのです。逃れの道を備えてくださる主に対する確信は、徹頭徹尾、真実でいてくださる主に対する信仰から生まれくるのです。

 最後に、末盛千恵子の著書『ことばのともしび』の中の「人使いの荒い神さま」という一文をご紹介して、メッセージを閉じさせていただきます。

 「…二十代でこれからというときに親しい友人に死なれました。そのあと三十を過ぎて、人に紹介されて結婚した夫は本当に優しい人でした。でも、その夫は十一年の結婚生活のあと、小さな息子二人を残して突然死してしまいました。そのうえ長男には難病があることがわかっていました。…そんな家族の事情に加えて、いまは思いがけず震災後の絵本プロジェクトで働かせていただいているので、なおさら『人使いの荒い神さま』と憎まれ口をたたいているのですか、考えてみれば、これはまるで中学校の野球選手のようだ、監督やコーチからシートノックを受けて、あちらへ走ったりこちらへ走ったりするのに似ていると、苦笑しています。どんなにたいへんでもそれによって鍛えられているのですから、あの訓練は選手にはなくてはならないもののようです。悪態をついているものの、結局はとてもありがたく幸せなことなのでしょう。」

 感謝して祈ります。