■神の力
冒頭18節、「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です」
「十字架の言葉は…神の力」とあり、24節には「神の力、神の知恵であるキリスト」とあります。「十字架につけられたキリスト」は、そしてそのキリストを宣べ伝える十字架の言葉は「神の力」である、と言います。今日は、「神の力」というこの言葉からメッセージを始めさせていただきます。
ここで「力」と訳されているのはギリシア語のデュナミスですが、同じく「力」と訳されるエネルゲイアとは微妙に違うニュアンスを持っています。エネルギーという言葉の語源となるエネルゲイアは、コロサイの2章12節に「キリストを死者の中から復活させた神の力」とある、「力の働き」または「働く力」、「働き」それ自体を意味します。それに対して、デュナミスとしての力は「潜在的な力」「根源的な力」です。キリストが神のデュナミスであると言われるとき、そこには、潜(ひそ)められた力、顕わになっていない力というニュアンスが含まれています。
この二つの言葉を考えるときに、わたしがいつも思い浮かべるのは「ダム湖の水」です。
ダム湖の水は、それがどんなに豊かに湛(たた)えられていたとしても、それだけでは電気は起りません。そこに力は潜んでいても、顕わにはなっていません。満々たる水がそのような働きをするためには、それが適当な場所に導かれて、落差をつけて滝として流れなければなりません。そのとき初めて電気は起り、そこから熱と光とが生じます。これがデュナミスとエネルゲイアとの関係であり、キリストが神のデュナミスである、ということの意味です。
それは第一に、神の力は人間には隠されていますが、実は無限の可能な力、潜在的な力を持っているのだということです。キリストにある神の力といっても、それはすぐに働きとして認識できるものではありません。「神の国は、見える形では来ない。『ここにある』『あそこにある』と言えるものでもない」(ルカ17:20-21)とイエスさまが言われているように、福音が力ならば、その力はどこに働いているか、それを見せなさいと言われても、そう簡単に「これ、ここに」と見せるわけにはいきません。
では、キリストにおいて働かれる神の力は、どうしたらそれと知ることができるのでしょうか。力は働きとしてのみ知ることができるのですが、キリストの力は、どうしたらわたしたちに対する働きとなるのでしょうか。ここにわたしたちが注意すべき第二の点があります。
水力発電による電気を思い出してください。そこに必要なのは、水が高いところから低いところへと落ちていく「落差」です。デュナミスがエネルゲイアに変るためには、その落差が必要なのです。人間がキリストや神と同じ場所にいる限り、神の力は「救いの力として」働くことなどできません。
そう言われてすぐに思うことは、福音を受け入れて信じる者となるためには、先ず自らの心を低くして、わたしたちが謙虚になって、神の力が働くままに身を委ねなければならない、ということでしょう。しかし今ここで言われていることは、そういうことではありません。わたしたちがではなく、神が、キリストが身を低くされ、十字架の上で愚かなものとなってくださった、ということです。それこそが福音です。救いは、わたしたち人間の知恵や力には全くかかわりなく、ただ神の力によって、誰よりも低く、愚かな者となられた「十字架につけられたキリスト」によってもたらされるのです。
■下降するキリスト、賢くなりたいわたしたち
「十字架の言葉は、滅んでいく者にとっては愚かなものですが、わたしたち救われる者にとっては神の力です」
いわば、十字架の言葉の愚かさとは、下降するということです。神が下降するということは、人間には不可解なこと、理解できないことです。神が罪人の下にまで下降するのです。
福音書の中に、百匹の羊の中の、失われた一匹を捜し求める羊飼いの話があります(マタイ18:11-14)。その譬えを描いた、とても印象的な挿絵があります。足を滑らせて谷を滑り落ち、灌木(かんぼく)に引っかかっている羊がいます。羊飼いは谷に身を傾けて、その羊に手を伸ばしています。傷ついた十字架のイエス・キリストを暗示する場面です。
迷って道を失い、いのちの危機に瀕している羊はさかんに動き回ることでしょう。自分を救おうとして動き回り、しなくていいことをし、してはならないことをします。そうやって転落していきます。賢(さか)しらに立ち回るその姿、それが罪の姿です。そんな迷い出た一匹の羊を、迷い出た罪人であるこのわたしを、十字架まで下って、羊飼いであるキリストが見出してくださるのです。
十字架の言葉の愚かさ、それは、自ら危機に身をさらして降りていく愚かさです。あえて選んで降りて行く愚かさです。それは人の知恵では理解できません。神がそういう道を選ばれるということを、人は納得できません。
なぜか。それは、わたしたちがしるしを求めているからです。言い換えれば、自分の思いや感覚や主張にあくまでもこだわり、自分が納得できるなら、つまり神が自分の思いに適っているなら信じてやろう、という姿勢でいるからです。そしてその自分の思いというのは、より賢く、知恵のある者となりたいという思いですから、それは知恵を求めているということでもあります。しるしと知恵を求める思い、ユダヤ人とギリシア人の思いは、すべての人間が共通に抱いている思いであり、それは一言で言えば、愚かさから賢さへと上昇していこうとする思いです。人の知恵は上に向かうものです。人の賢さは高みに向かうことしか知りません。高みに、少しでも高いところへと向かい、人を見下ろせる地点に立つことしか求めません。
その意味で、十字架の言葉は、十字架の救い主の姿は、実に愚かです。それはわたしたちの目にはまことに愚かな、見栄えのしないことに思われます。それは十字架の死がグロテスクで見るも汚らわしいというよりも、そこにこそ救いがあると受け入れるなら、自分こそが本当はあの十字架につけられなければならない罪人であると認めることになるからです。誰もそんなことを認めたくはありません。自分がより高く立派になり、知恵ある者となることによって救いを得るという方が、ずっと好ましいことに思えるのです。
わたしたちの誰もが抜きがたく持っているプライド、自己義認によることです。人間、プライドを満足させられることほど喜ばしいことはないし、逆にプライドを傷つけられるほど嫌いなことはありません。だから人々を惹きつけ集める宗教を興そうと思ったら、そういう人間のプライドをくすぐって、ここへ来ればより賢く、高く、立派になれますよ、と教えていけばよいのです。いえ、わたしたちもときにイエス・キリストをそんな救い主として考え、捉え、歪めてしまっているかもしれません。イエスさまの教えによって自分がより賢い、立派な者になることができると期待しているかもしれません。そして実にそれこそ、アポロ派、ペトロ派、パウロ派、キリスト派に分裂し争っていたコリントの教会の姿でした。
しかしそれは、聖書の教えるところではありません。聖書は、わたしたちが愚かさから抜け出して、少しずつ知恵を身につけ、より高く立派な者になっていくことで救いを得ることができる、などとは決して言いません。むしろ、わたしたちは十字架につけられて死ななければならない罪人である、自分の力で救いを得ることはできない、そう告げます。そんなわたしたちの、自分ではどうすることもできない罪を、神の独り子がすべて担って、十字架にかかって死んでくださった、そこに神による赦しの恵み、救いがあると教えます。
■愚かな手段によって
であればこそ、愚かな十字架の言葉こそ、十字架のキリストこそが、「わたしたち救われる者には神の力」なのです。
わたしたちは、放蕩息子のように罪によって深く転落していました。神はそのわたしたちを追い求められます。ただ追い求めるのではありません。聖なる神が救い出すために、罪の汚辱のただ中に、どん底にまで身を沈められるのです。そのためにこそ神の全能の力が振り絞られなければなりませんでした。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)
十字架の上でイエスさまが叫ばれたこの言葉には、振り切る神、振り捨てる神が示されています。独り子を振り捨てるために、神の力が振るわれました。罪人を何としてでもご自身のもとに引き寄せるために、御子を振り捨てるのです。十字架によって救われるわたしたちにとって、それこそが神の力です。神の激しい力、罪人を追い求めるために振るわれる力です。この神の渾身のメッセージを伝えるためにこそ、21節、
「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」
ここで注意すべきは、ここに敢えて「手段」という言葉が付け加えられていることの意味です。この言葉は原文にはありません。直訳すれば、「宣教の愚かさによって」です。宣教という手段が愚かだと言っているのではなく、愚かなのは、語られていることそれ自体、「十字架の言葉」です。
それでも、ここにこれを付け加えることによって、原文のニュアンスを伝えることができると考えられたのでしょう。そのことを踏まえれば、十字架の言葉も愚かですが、神はそれを伝えるためにも、愚かな手段を選ばれたのだ、パウロはそう言っているのでしょう。神は、世に救いをもたらす業を、ご自身の圧倒的な威力で進めようとはなさらず、愚かにも、実に愚かなことに、人間を用いて進めようとされるのです。
福音書の四千人の給食物語が思い出されます。夕暮れ時、大勢の飢え渇く群衆が追ってきたとき、弟子たちはうろたえました。群衆の激しい飢え渇きを受け止めきれないと思ったのです。群衆を解散させてください、とイエスさまに求めました。しかしイエスさまは言われます。「あなたがたの手で食べ物をやりなさい」。弟子たちが持てる物は、「五つのパンと二匹の魚」でした。
イエスさまは弟子たちの持っている物を用いて、ご自身の御業を進めることを望まれたのです。救い主は、弱く、限界のある、肉の罪ある人間を用いて、神の国の業を進めることを、福音を宣べ伝えることを望まれました。それが、弱い、もろい、限界のある罪の人間に近づく、イエス・キリストのやり方です。弱い者に弱い者を通して語りかけるのです。罪赦された人間が罪人の隣りに身を置いて語りかけるのです。それこそが、神が選ばれた宣教の仕方でした。「宣教という愚かな手段」でした。
「あなたがたの手で食物をやりなさい」とは、わたしたちにその力が、賢さがあるから、という意味ではありません。わたしたちをイエスさまが用いられる、ということです。わたしたちを用いて、イエスさまは神の国の働きを進められる、十字架の福音を告げ知らせるのです。神の国の働きは、十字架の福音の宣教は、その他の仕方では行われないのだということです。
■喜びを与えられる
「神は、宣教という愚かな手段によって信じる者を救おうと、お考えになったのです」
「お考えになったのです」とあります。この言葉は、「喜んでそうする」という意味の言葉です。神は、十字架につけられたキリストの愚かさによって、わたしたち罪人を救うことをよいこととして喜んでしてくださるのです。喜んで、ご自分から徹底的に愚かになってくださったのです。
そうすることで、神はまた、神の国の収穫の喜びにわたしたちを与(あずか)らせてくださるのです。神はご自分だけでその働きを進めることも、完成することもおできになります。しかしそれを望まれませんでした。わたしたちと一緒に喜ぶことを願われるからです。他では決して味わうことのできない喜びに与らせてくださるのです。収穫の喜びであり、神と共に歩むことを許されているという喜びです。わたしたちはその喜びに生かされ生きています。
わたしたちの人生は決して楽なものではありません。一難去ってまた一難。試練の中、かろうじてその歩みを続けています。ときに、ある種(たね)は道ばたに落ち、また、ある種は土の薄い石地に落ち、さらに、ある種は茨の中に落ちてしまいます。たくさんの種が無駄になりました。後を振り返れば、惨憺(さんたん)たる失敗の連続だったと言っても間違いではありません。しかしその多くの失敗の中に、良い土に落ちる種が必ずありました。すべてが失敗ということはなかったはずです。良い地に落ちる種が必ずあります。そうやって、わたしたちの歩みの中に、神の国の働きは成され続けてきたのです。神の国はそうやって確実に前へと進んできたのです。失敗しながら前進するのです。それ以外の仕方で神の国の業が進められてきたことは、一度としてありません。
とすれば、失敗の中にこそ、希望があります。失敗し、倒れ、慯ついたところで、必ず、イエス・キリストに出会うことができるからです。そして、深い慰めと癒しを受け取ります。内なる力をいただきます。そして励まされます、「わたしだ。恐れることはない」(マタイ14:27)と。
恐れるべきは、もしかすると、失敗しないということかも知れません。失敗しないで、したがって傷つきもせず、痛みもせず、ただ殻にこもって衰弱しているだけかもしれません。
愚かな手段によらず、別の賢明な方法がありはしないかと考えてしまいます。効率的な、失敗しない生き方、やり方。こんなやり方ではだめ、あんな方法は無駄、周りをよく見なければ…。そうやって眺めて、ため息をついて、手をこまねいて、わたしたちは罪の奴隷のままに衰弱していないでしょうか。
失敗しないでいることはできません。傷つかないでできることもありません。イエス・キリストに叫ばずにはいられない―そこでこそ、わたしたちは生かされ生きてきたのです。それ以外に道はないのです。キリストによって生きる以外に、わたしたちが生きるすべはありません。苦しまないで、つまずかないで、痛まないで、そう、イエス・キリストに出会わずに、わたしたちが与えられたいのちをかけがえのないものとして生きていく道はありえないのだということを、わたしたちは深く、深く心に刻み付けたいと思います。
人の小さな賢さを捨てて、十字架という愚かさの中に立ち帰る。繰り返し立ち帰る。そのようにして、薮(やぶ)の中を、茨の中を、道なき道を傷つきながら、つまずきながら歩み続けましょう。イエス・キリストがそうされたように。そのようにして、イエス・キリストが今も、失われた羊のいのちを、わたしたちのいのちを、自らのいのちを懸けて捜し求めてくださるのですから。