福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月25日 ≪聖霊降臨節第5主日/招待礼拝≫『愛のジャケット』コロサイの信徒への手紙 3章8~14節 沖村裕史 牧師

6月25日 ≪聖霊降臨節第5主日/招待礼拝≫『愛のジャケット』コロサイの信徒への手紙 3章8~14節 沖村裕史 牧師

■ねずみ男

 10年程、社会福祉法人の理事として、島根県の隠岐の島を訪問していたことがあります。広島から、電車を乗り継ぎ、乗り継ぎして、半日を掛けて漸く、境港という駅に辿り着きます。そこからさらに3時間を要するフェリーに乗り換えるのですが、当時の境港は、NHKの朝ドラ『ゲゲゲの女房』で話題となった漫画家水木しげるの故郷として、賑やかな観光地となっていました。米子駅から境港駅までの電車も乗客でいっぱい。境港までの駅にはすべて、「ゲゲゲの鬼太郎」に出てくる妖怪たちの名前がつけられ、電車にも、鬼太郎はもとより、目玉おやじや猫娘のキャラクターが描かれていました。

 ある時、「ねずみ男」だらけの電車に乗ることができて、心密かにガッツポーズをしました。貸本の『墓場の鬼太郎』から少年雑誌の「ゲゲゲの鬼太郎」、そしてテレビアニメと、その漫画を読み見るたびにいつも気になっていたのは、実は主人公の鬼太郎ではなく、このねずみ男だったからです。

 小学生の頃、ねずみ男は、悪いことをする妖怪たちよりも誰よりも、嫌いなキャラクターでした。金に弱く、欲望に溺れやすい性格で、悪玉妖怪の口車に乗せられたり、金がからんだりすると、いとも簡単に鬼太郎を裏切ります。怪奇趣味が高じて封印された妖怪をよみがえらせたり、鬼太郎の腕を切り落として奈落の底へ突き落としたり、死神と共謀して鬼太郎を毒殺しようとしたり、とにかく自分勝手なトラブルメーカーなのです。ところが鬼太郎は、少し怒りはするものの、結局はいつも許してしまいます。それなのにこのねずみ男、しばらくするとまた平気で裏切ります。なぜ、鬼太郎は嘘つきで自分勝手なねずみ男を許すのだろう。こどもながらに訝(いぶか)しく、憤(いきどお)っていました。中学生になると、もっと嫌いになりました。自分の中に、ねずみ男と似たところがあるように感じたからです。嫌なやつだ、でも僕の中にも同じようなところがある…。

 しかし大学生の時、改めて「ゲゲゲの鬼太郎」を読んでみて、実は、ねずみ男がこの漫画に欠くことのできない存在であることに、ハタと気付かされました。ねずみ男がいることで、この漫画はただの勧善懲悪(かんぜんちょうあく)のヒーローものではない、人間や社会について考えさせる、奥深い作品になっているのです。

 ねずみ男は、わたしたちそのものです。そこまでひどくないと思うかどうかは別として、そう思って読んでみると、友情を簡単に金で売るねずみ男ですが、どうも、半妖怪であるという理由から人間からも妖怪からも蔑(さげす)まれ、ひとりの身内もいない天涯孤独の存在である自分に比べれば、鬼太郎は妖怪の中でも名門の幽霊族であり、超能力も持っているから、少々裏切っても大丈夫だと思っている節もあります。
 
 いつも裏切っているせいで、鬼太郎の友人としての振る舞いは演技にも見えますが、それは単なる見せかけの芝居ではなく、友情といえるものを、ねずみ男は確かに持っています。牛鬼に乗っ取られた鬼太郎が火口に落とされた時には、こんなことになるんなら、もっと鬼太郎に親切にしてやればよかった、と涙ぐみながらに後悔します。鬼太郎は村のみんなのために死んだんだ、と語る父親の目玉おやじに、「バカを言え!みんなの幸せなんかどうだっていいんだ!俺は鬼太郎が生きててくれた方がいいんだ!」と真顔で言います。何だか、イエスさまを裏切った弟子たちのようです。

 原作者の水木自身も、「最も好きなキャラクターは?」との質問に、「ねずみ男!」と即答しています。そして、「鬼太郎は馬鹿でしょう。正義の味方だから、スーパーマンみたいなもんだから。…金とか幸せについて考えないのです。だから、ねずみ男を出さないと物語が安定しないのです」と語ります。この世の真実、わたしたち人間の幸せは、単なる勧善懲悪では描けない、ということでしょうか。

 

■古い人を脱いで、新しい人を着る

 聖書というのも、ただ教訓的で倫理的な教えばかりが並べられている、勧善懲悪のお話しのように思われるかもしれません。しかし、決してそうではありません。もしそうなら、イエスさまを理解せず、何度も躓き、ついには裏切った弟子たちの話が描かれるはずもありません。8節から10節にも、こう書かれています。

 「今は、そのすべてを、すなわち、怒り、憤り、悪意、そしり、口から出る恥ずべき言葉を捨てなさい。互いにうそをついてはなりません。古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです」

 ねずみ男のことを思い出しながら、改めて今日の言葉を読み返してみると、ここには、わたしたちの罪深い、愚かな姿と、そこから自由にされて、本当の喜びをもって生きていく姿とが、対照的に描かれていることに気付かされます。

 その姿を、パウロは今、「古い人を脱いで、新しい人を着る」と表現します。これは、道徳や倫理の話ではありません。「すべし、すべからず」の世界のことでもありません。

 わたしたち人間で、神様のみ前に立って、自分は何ひとつ間違ったことなどしていない、正しい者だと言うことのできる者など、だれ一人いません。できませんから、自分の正しさを証明し、自尊心を保とうとすれば、「白いもの」を「黒い」と言い、「黒いもの」を「白い」と言い張るしかありません。真実を見ようとしない、見ようとしてもできないのです。

 そこから出てくる言葉や行いは、人を傷つけ、また自らをも傷つけてしまいます。それを、何をしようとわたしの自由ではないか、わたしの信念の問題だ、などと誤魔化し、いくら立派な着物を着ようと思っても、心が傲慢さや頑なさに支配されているとすれば、わたしたちは「古い人」でしかありません。古い人は、爆弾を抱えているようなものです。いつ爆発するか分かりません。いつどうなるか分からないものを抱えているのですから、わたしたちはいつも不安で、決して幸せではありえません。

 そんなわたしたちが、罪深さ、愚かさゆえの喘ぎと苦しみから救い出され、もうすでに自由にされているのだ、と言います。そして12節、「あなたがたは神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから、…愛を身に着けなさい」とパウロは言います。

 そう、それこそが「古い人を脱いで、新しい人を着る」ということです。

 

■愛されているから

 古い人を脱いで着た「新しい人」とは、どういう人なのか。それが12節以下に書かれていることです。赦し合うとか、他の人に対して柔和な思いを持つとか、いろんなことが言われていますが、中心は唯一つ、愛です。

 あなたは、「神に選ばれ、聖なる者とされ、愛されているのですから」、だから憐れみの心を持ちなさい、とあります。「おまえ、そういう冷たい心ではいけない。これからあの人を愛していきなさい。温かい心の持ち主になりなさい」と命令されるのではありません。愛は、命令されたからといってできるものではありません。「敵を愛しなさい」「友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない」、そうイエスさまから言われてすぐに、「はい分かりました。愛します」と言うわけにはいきません。

 もちろん、愛がとても大切であることは分かっています。愛なしに、人は生きられません。「わたしは違う。強いのだから、愛なんてめめしい」。そうはいきません。それこそ百戦錬磨の勇士であっても、愛されていることこそが、その人を勇士たらしめる力です。父が愛してくれた、母が愛してくれた、ある人が愛してくれた…。それはとても大切なことです。

 ただ残念ながら、人の愛は絶対的なものではありえません。頼りなく、移ろいやすいものです。わたしたちの愛には、自分が、自分が、という人間としての罪が容易に入り込みます。そのために、愛ゆえに深く傷つくことも、しばしばです。

 ではわたしたちは、だれ一人、本当の、真実の愛を知らないのでしょうか。そんなことはありません。わたしたちにいのち与え、わたしたちのために必要とあらば、ご自分の愛する独り子をさえ犠牲にして愛してくださる方がおられるとするならば、しかも、その方の愛を今もいただいているとするならば、これ以上の愛はないでしょう。それが「キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」という言葉の意味です。

 実に、愛されたことのない者など、だれ一人としていないのです。わたしたちはすべて、神様に望まれて、いのちを与えられ、この世に生を享(う)けた者です。そして、与えられたこのいのちゆえに無条件で愛され、かけがえのない者とされているのです。わたしたちの愚かさ、罪深さにもかかわらず、そう、あるがままに、神様に愛されているのです。そのことに気づくことこそ、人生にとって最も大切で、決定的なことです。

 しかし、この愛を誤解してはいけません。愛とは、なんでもかんでも都合よくいって、思うようにしてくれるというような、べったりとしたものではありません。

 中学生の頃、わたしは父や母から愛されていないと思っていました。共働きの両親でしたから一緒に過ごす時間も少なく、反抗期もあってそう思い込んでは反発をしていました。愛されたいと求めてばかりいました。しかし、年を取るにつれて、ずいぶんと愛されていたことを思い出すようになりました。あの頃のわたしは、愛されている記憶を封印し、自分に都合よく甘えようとしていたに過ぎませんでした。

 愛に罪が入り込むとき、わたしたちは、人から愛されることばかりを求めるようになります。しかし、愛することを人に強制することはできません。その意味で、愛されることはかけがえのないものです。愛することを人に強要することはできませんが、それでもただ一つ、わたしが人を愛すること、いえ、愛いそうとすることだけはできるはずです。

 なぜって、あふれるほどに神様から愛されているからです。聖書は繰り返し教えます。どんなに反抗しようが、罵ろうが、神様は愛することをお止めにはなりません。神様は愛の神だからです。

 

愛というジャケット

 こんな話を聞いたことがあります。
 
 あなたが、白いお気に入りのジャケットを持っていたとします。ところがある日、コーヒーをこぼして胸のあたりに大きな染みを付けてしまいました。ああ、もう着られないと思いましたが、なじみのクリーニング屋が一生懸命染み抜きをしてくれ、ジャケットは新品同様に真っ白になりました。あなたは今度こそ汚さないよう、大事に着るはずです。けれども、どんなに頑張っても、染みが残ったらどうでしょう。もういいやと諦(あきら)めて、どんなに汚れてしまっても気にしなくなるでしょう。やがて作業着になり、捨ててしまうことでしょう。

 同じように、あなたの罪の裁きを、イエスさまがすべて十字架で引き受けてくださったのだ、と聖書は言います。これであなたは真っ白です。もう染みも、罪もありません。このことを真剣に考えるなら、あなたはきっとその白い心と体を汚さないよう、丁寧に生きようとするはずです。それなのに、結局は真っ白になんかならない、わたしには染みがたくさんついたままだ、という罪悪感がいつまでも拭えないとしたら、どうでしょう。あなたは投げやりになり、どんなに罪を犯しても気にしなくなるでしょう。

 罪を犯すから罪悪感が生まれるのではありません。罪悪感があるから罪を犯すのです。罪が赦されずまだ責められていると思うから、投げやりになってさらに罪を犯すのです。どんなに頑張っても染みが取れないので、どうでもよくなり、ジャケットをぞんざいに扱うのと同じことです。

 こんな話です。

 今、パウロは断言します。あなたにいのちを与えられた神様は、そのいのちゆえに、あなたをあるがままに愛してくださっている。その愛ゆえに、すべての罪を赦し、染みだらけのジャケットを脱がせ、真っ白いジャケットを着せてくださったのだ、と。だから間違っても罪悪感の中で、自分を愛することなんかできやしない、ましてや人を愛するなんて不可能だと投げやりに生きるのではなく、真っ白い、愛というジャケットを身に着けて、その愛にふさわしく、それを大切に着こなしていくように、とわたしたちに勧めているのです。

 わたしたちすべての者が、そういう愛の中におかれています。「そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません」。そんな愛の中におかれるとき、そこには自然に感謝の思いが生まれてくることでしょう。今日の箇所の直後15節以下に、「感謝していなさい」と繰り返し出てきます。それはもう、命令ではなく、そのようにせざるをえない感謝です。新しい人とは愛の人です。しかしその愛は、わたしたち自身の中からではなく、神様から与えられるものです。愛ゆえに生かされ生きているのです。そんな人生から感謝が出てくるのが、新しい人、新しい人を着るということです。わたしたちは、日々、罪の喘ぎ苦しみから自由にされ、愛に生きることを喜びとする者へと変えられています。本当に感謝です。