福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月30日 ≪聖霊降臨節第7主日礼拝≫『主の食卓に来なさい』 コリントの信徒への手紙一 10章 14~22節 沖村 裕史 牧師

6月30日 ≪聖霊降臨節第7主日礼拝≫『主の食卓に来なさい』 コリントの信徒への手紙一 10章 14~22節 沖村 裕史 牧師

■神殿レストラン

 冒頭14節、

 「わたしの愛する人たち、こういうわけですから、偶像礼拝を避けなさい」

 パウロが偶像礼拝にこだわり、それを避けるようにと教えているのは、コリントの教会の人々の中に偶像礼拝に参加している人がいて、しかもそのことが周りの人々に影響を及ぼしていたからです。8章10節にこうありました。

 「知識を持っているあなたが偶像の神殿で食事の席に着いているのを、だれかが見ると、その人は弱いのに、その良心が強められて、偶像に供えられたものを食べるようにならないだろうか」

 「偶像の神殿で食事の席に着いている」。これが偶像礼拝に参加するということです。ギリシア、ローマの世界には、様々な神々の神殿があり、そこには様々な偶像が祭られていました。そしてその神殿で、神々の像の前で食事の席を設け、そこに親戚や友人を招待することがしばしば行われていたのです。

 その様子について、関西学院大学教授で、京都大学でも教鞭を取る浅野淳博が「神殿レストラン」と題して、こんな一文を記しています。

 「じつに異邦人たちの食事は、ユダヤ人が偶像崇拝と見なす要素に溢れていた。コリント市中から北西500メートルほどの場所に、癒しの神アスクレピオンを祀った神殿があった。レルネーの泉が湧く中庭を柱廊が囲み、その脇の三部屋は食堂として機能していたようだ。そこでは、宗教儀礼の一環として食事が振る舞われることもあったし、それ以外に富裕層が誕生日の祝い等を行うこともあった。とうぜんそのような行事でのメインディッシュは、神殿に捧げられた肉だった。あるいはコリント城壁の外を〔コリント地峡のイタリア側の港である〕レカイオン通り沿いに2キロ半下ったところには、アフロディテー神殿に隣接するレストランがあった。ぺリアンドロスたる人物は、このレストランに友人を集めてもてなす前に、アフロディテー神殿で犠牲を捧げている(プルタルコス『七賢人の饗宴』146de)。おそらくペリアンドロスは、この犠牲の肉を友人らに振る舞ったのだろう。

 このような生活が身に染みついているコリントの異邦人キリスト者にとっては、なぜユダヤ人キリスト者が食事にそこまで目くじらを立てるか理解が困難だったろう。一方でユダヤ人キリスト者にとっては、なぜ異邦人キリスト者が神殿での食事を含めた肉食にそこまで無頓着でいられるかを理解しかねただろう。そのような状況でパウロは、互いを配慮し合う愛をもって両者のあいだに一致をもたらそうと苦慮したようだ(1コリ8:1)」(『新約聖書の時代』教文館)

 そうです。パウロはそうした事態を見つめつつ、8章1節で「知識は人を高ぶらせるが、愛は造り上げる」と語ったのでした。知識とは、神はただお一人であって、偶像など神でも何でもない、ただの人形と同じだ、だから神殿に供えられた後、市場に出回っている肉を食べても何の問題もない、というものでした。ギリシア人信徒たちがその知識を持っているのはよいが、それを他の人にひけらかしたり誇ったりするのであれば、その知識は人を高ぶらせ、弱い人を傷つけるものとなってしまう。正しい知識に愛が伴わなければ、かえって有害なものになってしまうのだ、とパウロは言います。それは、信仰によって自分に与えられている権利や自由を、そうは思わない兄弟への配慮、思いやりのために制限し、放棄するということでした。

 それで、パウロは「偶像礼拝を避けなさい」と言います。

 

■逃れる道—コイノーニア

 この「避ける」と訳されているギリシア語のもともとの意味は、「逃げる」です。偶像礼拝から逃げなさい。それが本来の意味です。実際、そう訳している翻訳もあります。そのことに気づかされて、すぐ思い出すのは直前13節の言葉です。

 「神は真実な方です。あなたがたを耐えられないような試練に遭わせることはなさらず、試練と共に、それに耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」

 「それ(試練)に耐えられるよう、逃れる道をも備えていてくださいます」。ここでパウロが言う「試練」とは何でしょうか。パウロは神の民イスラエルの歴史を振り返りつつ、7節で、それは「偶像礼拝」のことだ、とはっきり言います。真の神によって奴隷の状況から引き出されていながら、指導者モーセが神から「十戒」を授けられていたその足元で、自分たちの気に入った偶像を造って、座って飲み、立って踊り狂っていました。実に、最大の「試練」はそこにあったのでした。

 もしかすると、わたしたちはそのことに気づいていないかもしれません。辛いと思ったり、逃げたいと思ったり、もうこれ以上はたくさんだと思ったりする「試練」は、人それぞれでしょう。しかし、パウロが今、わたしたちに問うているのは、たとえわたしたちがどんな試練を経験しようとも、その最も深いところで遭っている「試練」とは何か、ということです。そしてそれは、真実な神を捨てること、偶像を求めることだ、というのです。

 そう問われて、わたしたちは「そうだ、そのとおりだ。だから偶像礼拝と戦わなければならない」、偶像を叩きつぶし、偶像礼拝を勧める人々と対決しなければならない、そう勢い込んで考えるかもしれません。

 しかしパウロは言います、「偶像礼拝を避けなさい」と。神が備えてくださる逃れの道があるのだから、そこに逃げ込んだらいい。パウロは、そうわたしたちに教え諭すのです。

 では、その「逃れの道」とはいったい何でしょうか。パウロは、そのことをよく分かってもらいたいと思ったのでしょう、15節でとても丁寧な言い方をしています。

 「わたしはあなたがたを分別ある者と考えて話します」

 「〇〇ちゃん、あなたはお利口さんでしょ。それなら、お母さんの言うことがよく分かるはずよね。だからよく聞いてちょうだいね!」と筋道を立てて、お母さんがこどもを説得するのによく似ています。パウロもこれから語る言葉を、とても丁寧に、そして慎重に語ろうとしています。どうしても、これは分かってもらわなければならない大切なことだ、そう思っているからです。それが16節です。

 「わたしたちが神を賛美する賛美の杯は、キリストの血にあずかることではないか。わたしたちが裂くパンは、キリストの体にあずかることではないか」

 「キリストにあずかる」とあります。これまでにも「あずかる」という言葉が何度も出てきました。印象深いのは、9章23節の「福音に共にあずかる」という言葉です。その前にも「供え物の分け前にあずかる」とありました。それだけではありません。今日の箇所、18節に「祭壇とかかわる者になる」とある「かかわる者になる」も、20節の、悪霊の「仲間になる」という言葉も、すべて同じ言葉です。

 この「あずかる」「かかわる者になる」「仲間になる」のギリシア語が「コイノーニア」です。「コイノーニア」という言葉は、教会では、例えば青年会が作っている雑誌の表題や「コイノニアホール」といった部屋の名前に用いられたりしますが、多くは「交わり」と訳される、「ひとつの物を共に分け合う」という意味の言葉です。

 キリストの体を互いに分け合っている、そのようにしてキリストの体に連なっている。それは、聖餐を分かち合うことによって、交わりをつくっているということです。それで「聖餐にあずかる」という言い方をし、また「聖餐」それ自体を、「コイノーニア」を語源とする英語で「コミュニオン」とも言います。

 それで17節、「パンは一つだから、わたしたちは大勢でも一つの体です。皆が一つのパンを分けて食べるからです」と言います。ひとりとして同じ者などいない、バラバラと言ってよいほどのわたしたちが、ひとつの体をつくっている、キリストの体をつくっているのです。わたしたちの教会の標語でもある「キリストの体なる教会」という表現が、新約聖書の中でとても大切なことは改めて言うまでもないでしょう。今日の箇所の後にも、キリストの体である教会をどのように造るのかについて、丁寧に語る場面が出てきます。

 そのことが、いつもパウロの念頭にあったのでしょう。その、みんなで造っている教会、交わり、コイノーニアの大切な土台、根拠となるのが、聖餐にあずかっている、ひとつのパンを分け合い、またひとつの杯を分け合っている、という事実です。実際には、切ってある食パンや袋に入れられた小さなウエハウスを使い、また親指ほどの小さなグラスの杯を使っているとしても、信仰においては、霊においては同じです、ひとつです。ときに分裂し、敵対し合い、さらには憎み合い、いがみ合ってばかりいるわたしたちが、キリストのひとつの体を造って、生かされ生きているのです。

 なぜ、そんなことを言うのか。それは、そこに逃れる道があるからです。

 わたしたちにとって最も大切なことは、このキリストの体として生かされ生きるというところに、いつでも立ち帰ることです。このキリストの体にあずかる、そのようにして一つである生活を大切にするということです。

 

■悪霊の仲間

 さらにパウロはこう続けます。18節、

 「肉によるイスラエルの人々のことを考えてみなさい。供え物を食べる人は、それが供えてあった祭壇とかかわる者になるのではありませんか」

 イスラエルの民、ユダヤの人々は、神殿に供えてあったものを食べるのなら、それは祭壇と深い関係ができるのだと考え、その供え物を食べることに関わる細々とした掟を作っていました。そのことを思い出させた上で、パウロは19節に続けます。

 「わたしは何を言おうとしているのか。偶像に供えちれた肉が何か意味を持つということでしょうか。それとも、偶像が何か意味を持つということでしょうか」

 パウロはこれまでのところで、その肉が供えられた偶像などというものは取るに足らない、存在しないも同然のものだから、恐れることはない、と言っていたではないか。コリント教会の誰もが、そう問いかけたことでしょう。

 それに対して、今まで言っていたことと真逆のことを言い始めたのか。いや、そうではない。偶像は何の意味も持たない。しかしここでもっと大切なこと、もっと深刻なことは、偶像に献げた供え物は、神に献げた供え物とならないで、悪霊に献げた供え物になっている。そう言います。

 ここに「偶像」とは違う「悪霊」という言葉が出てきます。悪霊とは何か。すぐに思い起こすのは、イエスさまが伝道を始めようとされるその前に、神の霊に導かれて、荒野で悪霊からの試みを受けられたことです。

 わたしたちに荒廃をもたらす力、神に逆らう力があります。それは、人類の歴史、教会の歴史の中にも、絶えず働いてきた恐ろしい力です。ときには、内に潜んで腐敗をもたらす力でもありました。また、教会を迫害する力としても働きました。それは、わたしたちの信仰を根こそぎ奪うような力として働いてきます。悪霊は、嵐のように襲うかと思えば、甘いささやきの言葉を語りかけることもあります。

 イエスさまが戦われたあの悪霊。その悪霊の仲間になってしまう。悪霊の食卓にあずかることになってしまう。主の仲間ではなく、悪霊の仲間になってしまう。キリストの恵みを分け合う仲間として、教会に生きることができなくなってしまうのだ、とパウロは言います。

 「わたしは、あなたがたに悪霊の仲間になってほしくありません」

 これは、コリントの教会の人々と共に伝道に励み、いつも共に主の食卓にあずかっていたパウロの、心からの願いであったでしょう。

 悪霊の仲間になるということこそ、偶像礼拝の罪を犯すということにほかなりませんでした。悪霊は、意味もない偶像に、まるで意味があるかのように囁きかけるのです。存在もしていない、何の力もないはずの偶像がわたしたちに災いをもたらします。神よりもはるかにまさる祝福をもたらす、などと囁きかけるのが悪霊です。そのことと、戦わなければなりません。この世には、そんな悪霊が満ち満ちています。

 

■激しいほどの愛の中に

 しかし、しかしわたしたちは、素手で戦う必要はありません。わたしたちはそこから逃げればよいのです。悪霊と無理をして戦うことはありません。主の下(もと)に逃げればよいのです。主の下とは、聖餐を分かち合っている教会の仲間のところです。キリストの体そのものと言ってよいでしょう。

 主の杯と悪霊の杯の両方を飲むことはできませんし、主の食卓と悪霊の食卓の両方に着くこともできません。そんなことは当たり前かもしれません。しかしパウロは、コリントの教会の大切な問題、深刻な問題がここにある、そう見ていました。コリントの教会の人たちも、イエス・キリストを捨てた覚えはないでしょう。荒野の旅をしたイスラエルの民もまた、自分たちがとんでもない不信仰なことをしているとは思ってもいませんでした。むしろこれは、ただ神に甘えているだけのこと、目に見えるものにして安心したいと思っていただけのことでした。ただ、のどが渇けば水をください、腹が空けば何とかしてください、そう叫んでいただけのことだ、と思ったかもしれません。

 旧約学者であった浅野順一が「教会」と題する一文を残しています。

 「問題はエゴイズムと闘っているかどうかということです。それでいいとすましているか、それではいかんと戦っているか、どっちかだと思います。…サタンのようにエゴイズムがいろいろなもっともらしい、美しい姿に変えてわたし共に近ずき迫ってきますからわからない。そこでわたし共はひっくり返されてしまう。そういう点で、わたし共は神経質になるということはいいことではないと思いますけれど、神経質と敏感とどうちがうかわかりませんが、やはり敏感にならなければだめです。信仰ということは、わたしの理解ではサタンに対して敏感にならせることだと思います。世の中があたりまえだと考えていることでも、わたし共から言えばあたりまえでないというふうに考えさせるのが、わたしは信仰の一つの働きではないかと思うのです。キリストという幹にわたし共がしっかりつながっていると、世の中があたりまえと思っていることが、あたりまえでなくなる」

 偶像礼拝の厳しいところは、わたしたちのエゴイズムに働きかけて、わたしたちのすべてを手に入れてしまうような悪霊の力のとりこになってしまうところにあります。半々ということはあり得ないのです。だから22節、

 「それとも神にねたみを起こさせるつもりなのですか」

 パウロはそう言います。神は、わたしたちのすべてを望み、欲しがっておられます。そのために、ねたみさえ抱かれる、熱情の神です。すべてをご自分の恵みの中に捕らえ込もうとしてくださるのです。その激しいほどの愛の中に、恵みのみ手の中に逃げ込めばいいではないか、とパウロは教えます。

 そもそも「わたしたちは主より強い者でしょうか」。「神様、あなたが戦う必要はありません。わたしが戦ってみせます。そうするようこれまでも躾けられてきましたし、わたしにはできます」などと嘯(うそぶ)くことこそ、偶像礼拝の罪です。

 わたしたちよりもはるかに強い主のみもとに逃げて、その主の恵みをはっきりと示す、キリストの血を示す杯にあずかり、またその主の激しいほどの愛と恵みの力を示す、キリストの体なるパンを分かち合う。その愛と恵みの下に生きるために、ほかのすべてを捨てて、節制を重ねる。そこで、神の言葉とその恵みのもてなしを受けたらよい。偶像礼拝から逃げていく。主の食卓に逃げていけばよいのです。「主の食卓に来なさい」とそう呼びかけるパウロのこの言葉が、どれほど慰めに満ちたものであることでしょう。感謝して、お祈りをいたします。