福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月4日 ≪聖霊降臨節第2主日礼拝≫『仲たがいせず』コリントの信徒への手紙一 1章10~17節 沖村裕史 牧師

6月4日 ≪聖霊降臨節第2主日礼拝≫『仲たがいせず』コリントの信徒への手紙一 1章10~17節 沖村裕史 牧師

 

■天国の福音

 イエスさまが語られた天国、神の国の福音は、神様が「今もここ」を支配してくださっている、それも良いことばかりではなく、避けることのできない苦しみや悲しみに喘(あえ)ぎつつも生かされている、このわたしたちと共にいてくださっているということを教え、諭そうとするものでした。

 聖書日課で、コリントの信徒への手紙の今日の箇所と一緒に読むように勧められているマタイによる福音書18章10節以下の最後に、「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」(18:20)というイエスさまの言葉が記されています。

 信仰によって一つに集う、あなたたちのすぐそば近くに、今、わたしはいる。あなたたちがどれほど欠け多く、取るに足らない者であっても関係ない。なぜなら、神様はあなたたちにいのちを与えてくださったお方だから。このいのちゆえに神様があなたたちを愛してくださっているから。神様はあなたたちを誰ひとりとして損なわれることはない。

 イエスさまはわたしたちにそう教えてくださいました。そしてそのことは何よりも、イエス・キリストの十字架と復活によって、わたしたちにはっきりと示され、確かなものとされていることでした。

 イエスさまは、馬小屋の飼い葉おけという貧しさの中に生まれ、人から触れることさえ忌(い)み嫌われる罪人たちを癒(いや)され、その穢(けが)れた彼らと共に生き、そして、神を神とせず、神ならぬ己(おのれ)を神とする人々によって十字架に架けられ、殺されました。イエスさまのことを奇跡の人、卓越した指導者、革命的な英雄だと自分たちの願いを重ねて見ていた多くの人々にとって、イエスさまが貧しさのただ中で罪と穢れにまみれるようにして生き、この上もない惨めさと屈辱の中で十字架にかかって死なれたその姿は理解しがたく、受け入れがたいものでした。まさに躓(つまづ)きでした。その躓きのただ中に、イエス・キリストはよみがえられ、ただ神様の義と愛ゆえに、その恵みと祝福によって赦され、救われているこのわたしたちの姿をはっきりと指し示してくださいました。

 ただ十字架と復活に示された神様の愛によって、わたしたちは「今、ここに」生かされている。だから、わたしの名によって集まるあなたたちと、わたしも「今、ここに」共にいる、とイエスさまは宣言され、約束されたのでした。

 

■何によって

 それなのに、イエスさまが今もここに共にいてくださっている、そのことにわたしたちは気づかずにいます。いえ、気づいてはいても忘れてしまいます。そのため、まるで自分の力だけで生きているかのように肩肘(かたひじ)を張り、エゴを振りかざし、仲たがいをし、争って暮しています。

 コリントの信徒への第一の手紙の1章10節、「皆、勝手なことを言わず、仲たがいせず、心を一つにし思いを一つにして、固く結び合いなさい」というパウロの言葉は、裏返しにして読めば、コリントの教会にも「勝手なことを言い、仲たがいし、心も思いもばらばらで、固く結びついていない」現実があった、ということです。

 新約聖書の時代の教会の姿を垣間見る思いもしますが、読めば読むほど、パウロの時代の教会や社会と今日の教会や社会に共通するところが多々あることに気づかされます。

 「わたしの兄弟たち、実はあなたがたの間に争いがあると、クロエの家の人たちから知らされました。あなたがたはめいめい、『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはケファに』『わたしはキリストに』などと言い合っているとのことです。キリストは幾つにも分けられてしまったのですか。パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか。あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」(11~13節)

 ある説教者が絶妙で、しかし辛辣(しんらつ)なこんな一文を書いています。

 「教会にも『イヌ派』の人と『ネコ派』の人がいるような気がします。…信徒さんの中には時々、牧師べったりという人がいます。よく言えば牧師への尊敬や信頼が強いからでしょうが、それが過ぎると『センセイのおっしゃることは何でもごもっとも』ということにもなりかねないのです。特に牧師におべんちゃらを言ったり、持ち上げたりするわけではないとしても、結果として牧師中心、牧師の言いなり、そして教会の独裁者を創り出す危険性があります[イヌ派]。

 教会ファーストという信者さんもいます。ネコ派と言えるでしょうか。教会の歴史や伝統を大切にし『いままではこうしていました』、『これまでのやり方はこうでした』と、教会の『しきたりや慣例』を重視する人です。特に長い歴史や伝統のある教会にいます。『教会の伝統は変えてはいけないが、牧師は替えることができる』。

 イヌ派とネコ派だけではありません。何かといえばすぐにワイワイ、ギャーギャーと騒ぎ立てる人もいます。『カラス派』と言えるでしょうか。カラスは英語で『クロウ』と言います。牧師にとって苦労の種です。『サル派』もいます。ボスを中心にグループを作り、『教会内教会』を作る場合もあります。教会内に対立や争いを起こし、思い通りにいかないと教会をすぐ『サル』のです。そんな騒動や争いに嫌気がさす信徒さんもいます。教会は祈りの場だと、『おお、神様。おお、神様』と熱心に祈りを捧げる『オオカミ派』もいます。いろいろな人がいるのが教会というところです。…

 コリントの教会にもパウロ組(イヌ派?)、アポロ組(サル派?)、ケファ組(ネコ派?)、キリスト組(オオカミ派?)と派閥を作っていたようです」

 絶妙なたとえです。「パウロ組」とは、コリント教会の礎を築いたパウロを慕い、信仰の師と仰ぎ、その権威を弁護しようとする熱心さのあまり、排他的で特権的な意識を持つようになったグループのことでしょう。「アポロ組」。アポロはパウロがこの教会を去った後にやってきました。当時の学問と文化の中心地のひとつ、エジプトはアレクサンドリヤ・スタイルの絢爛(けんらん)たる、言葉巧みな知恵に基づいたアポロの説教に魅せられた人々のことです。そして「ケファ組」とは、イエス・キリストの直弟子で、かつその筆頭であったペトロの、旧約以来の伝統的な信仰という土台の上にイエス・キリストを信じるという考え方に従っていた、ユダヤ人を中心とするグループのことでしょう。そして最後の「キリスト組」は、自分たちは天からの啓示を直接霊感によって受けてキリストを示された、キリストとひとつになった者だと自称していた、現代のカルト、いわゆる霊的な熱狂主義者のグループであったと考えられます。

 わたしたちもしばしば、こんな言葉が語られるのを耳にしないでしょうか。「わたしは○○牧師からバプテスマを受けました」「わたしは毎週○○先生のすばらしいお説教をお聞きしています」「○○さんによって信仰へ導かれました」等々。そしてもちろん、それとは全く反対の言葉を耳にすることも少なくありません。

 パウロの時代の教会も、今日の教会や社会がそうであるように、人の集まりですから「人によって」結びついている、そういうところがあります。そのために、教会の中に、社会の中に、家族の中にさえ、亀裂や対立が生まれてきます。残念ながら、わたしたちは程度の差はあるにしても、誰もが自分中心に考え生きるほかない、愚かで罪深い存在だから…そう思って、ため息が出てきそうになります。

 先ほどのマタイによる福音書の続きに、イエスさまが語られた九十九匹と一匹の羊のたとえが記されています。

 「あなたがたはどう思うか。ある人が羊を百匹持っていて、その一匹が迷い出たとすれば、九十九匹を山に残しておいて、迷い出た一匹を捜しに行かないだろうか。はっきり言っておくが、もし、それを見つけたら、迷わずにいた九十九匹より、その一匹のことを喜ぶだろう」(18:12-13)

 イエスさまがこのたとえで語ろうとしておられることは、一匹が迷ったことです。つまずいた、罪を犯したということです。このたとえの後に、罪を犯した兄弟のことが語られていますが、それこそ、迷い出た一匹の羊そのものです。罪を犯すことによって、非難されるし、捨てて顧みられなくても仕方のないことなのかもしれません。それは罪の報いとして当然だとわたしたちは考えるでしょう。しかし、しかし天の父はそのことを望んではおられないのです。

 大切なことは、罪深いわたしたちだからこそ、そんなわたしたちが「何によって」支えられ、生きていくのか、「何に結びつくか」です。それが大切なのです。

 

■十字架につけられたキリスト

 パウロは今、あえて自分の名前を待ち出すことでコリントでの自分の労苦や仕事を犠牲にしてまでも、そしてまた他のリーダーたちのことをあれこれ言うことも一切せず、「キリスト幾つにも分けられてしまったのですか」と問いかけます。そして「パウロがあなたがたのために十字架につけられたのですか」と続け、さらに「あなたがたはパウロの名によって洗礼を受けたのですか」と重ねて問いかけます。

 争い合っている人たちへの何と鋭く、根本的な問いかけでしょうか。

 一人のキリストがいくつにも分けられてしまう。あなたたちの間で起っているのはそういうことです、とパウロは言います。逆に言えば、教会が一つであるのは、キリストが一人であることによるのだということです。教会の一致は、わたしたちが互いの言葉と心と思いを突き合わせて、よく話し合い、お互いに譲り合い、妥協し合うところに生まれるのではありません。ここで求められているのは、人間どうしの間で折り合いをつけることではなく、一人のイエス・キリストにしっかりと結びつくことです。

 党派が生まれ、争いが起るのは、イエス・キリストに結びついていないからです。キリストではなく、パウロとかアポロとかケファ、自分のキリストといった、人間に結びつこうとするからです。自分と同じような考えを持った、気の合う者どうしで結び合おうとするからです。キリストによる一致ではなく、人間の考えや好き嫌いによって仲間と一つになろうとするところに、仲たがいが、破れが、分裂が生じるのです。

 そもそも好き嫌いなんて、そんなに胸張って言えるようなことではありません。好き嫌いほど、一見確かそうに見えて、その実いいかげんなものはありません。とりわけ「嫌い」は、たちが悪く、物であれ人であれ、嫌いのひと言で切って捨ててしまいます。だってしょうがないじゃない、あの人、生理的に合わないのよ、などと言ってのけます。嫌いに理由なんかない、相手のせいだと思っています。ところが、実は嫌いには理由があって、その多くは自分自身の嫌な部分を相手の中に見て、嫌っているのです。「あいつ、自分勝手だから嫌いなんだよ」というその本人が、そうとう自分勝手だったりします。自分を責める代わりに、他人を嫌っているだけのことです。そうして世界は切り裂かれ、ばらばらになっていきます。

 では、イエス・キリストにしっかり結びつくとはどういうことなのか、パウロは続けます。パウロにつく、と言っている人がいるようだが、いったいそのパウロとやらは、あなたがたのために十字架につけられたのか。あなたがたのために十字架につけられた方にこそ結びつくべきなのであって、そうでないパウロなどに結びついても何にもならないではないか、と言います。パウロがそう言うのは、イエス・キリストこそ、他でもないこのわたしたちのために十字架にかかってくださった方だからです。パウロが見つめているイエス・キリストは、「十字架につけられたキリスト」であって、それ以外ではありません。

 そこに、イエス・キリストを人間の勝手にではなく、正しく見つめるための鍵があります。キリストを正しく見つめ、正しく結びつくとは、わたしたちのために十字架にかかってくださったキリストを見つめ、そのキリストと結びつくことです。

 

■違いと分裂の只中に

 「十字架につけられたキリスト」と結び合うことによって、わたしたちの言葉と心と思いは、一つとされます。しかしそれは、みんなが同じことを言い、同じことを考え、同じことを思うようになる、ということではありません。

 なぜなら、キリストの十字架はわたしたちの罪の赦し、救いのためだからです。わたしたちは神様に従うことを嫌い、自分が主人になろうとする罪人です。その罪のために神様の祝福を失っているだけでなく、隣人に対しても自分が主人となり、自分の思いを通そうとすることによって、隣人とのよい関係も失ってしまいます。それが仲たがい、破れ、分裂です。イエス・キリストは、そんなわたしたちの罪を全て背負い、身代わりになって十字架の死刑を受けてくださることによって、わたしたちを赦し、新しいいのちに生きる可能性を開いてくださいました。

 十字架のキリストと結び合うとき、わたしたちは、自分が主人になろうとする罪から解放され、新しいいのちを、まことの自由を生きるようになります。そのことによって初めて、わたしたちは一つとされるのです。

 そこに生まれる群れでは、みんなが型にはめられた、画一的な者になることなどあり得ません。むしろそこには、隣人の賜物を認め、自分とは違うその賜物を受け入れ、喜ぶということが起っていくはずです。そのような思いを互いが持つところに、真実な一致が生まれます。そして、それぞれに与えられている様々に違った賜物が生かされ、それぞれに違った奉仕が喜ばれ、信仰における強調点の違いはいろいろあっても、十字架にかかってくださったイエス・キリストに仕えることにおいて、一つである交わりが生まれるのです。それが教会を豊かにしていくのです。

 分裂していくこと、対立をしてしまうことは、わたしたち人間の集団における宿命である、避けがたいことだ、と言えるのかも知れません。それでも聖書は、それをよしとはしません。放っておけば分裂してしまう存在であるわたしたちが、ともすると対立してしまうわたしたちが、それでもなお、十字架につけられたままのイエス・キリストに結びつくことによって、いえ、イエス・キリストが、分裂し、仲たがいをしてしまうわたしたちの真ん中にいて、どのようなときにも共にいてくださるのです。

 違いのままに一つとなることを目指し、それに挑戦し続けることこそが、信仰に、教会に生きるということなのでしょう。そしてそれこそが、至るところに亀裂が走り、分裂しかけているこの世界を一致と平和へと導いていく、「キリストの十字架がむなしいものにな」らない、その一歩となるのです。