福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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6月6日 ≪聖霊降臨節第3主日礼拝≫ 『招かれているのに……―聖餐(7)』ルカによる福音書14章15~24節 沖村裕史 牧師

6月6日 ≪聖霊降臨節第3主日礼拝≫ 『招かれているのに……―聖餐(7)』ルカによる福音書14章15~24節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏    来ませ聖霊、主なる神よ (J.パッヘルベル)
讃美歌    4 (2,4,6節)
招 詞    詩編133篇1~3節
信仰告白    使徒信条
讃美歌    347 (1,3,5節)
祈 祷
聖 書    ルカによる福音書14章15~24節 (新137p.)
讃美歌    81 (1,3節)
説 教    「招かれているのに…―聖餐(7)」 沖村 裕史
祈 祷
献 金    65-1
主の祈り
報 告
讃美歌    376 (1,3節)
祝 祷
後 奏    来ませ聖霊、創造者なる神よ (J.S.バッハ)

 

≪説 教≫

■飢えていたから

 昔、一人の男が宴会を催しました。彼は、その宴会を盛大で、威厳に満ちた、そして華やかなものとするためには何も惜しみません。それは、誰もが良く知っている、毎年恒例のイベントでした。漸く、すべての用意が整い、彼は招待状を届けるために、僕(しもべ)を遣わします。

 「すべての用意が整いましたので、どうぞお越しください」

 あなたたちが今までずっと待っていたもの、生涯の一大イベント、この時代の人々が期待しているものが、ここにあります。時は満ちたのです。待つのはもう終わりです。テーブルが広げられています。どうぞ、お越しください。

 ところが、招かれた人たちの返事は驚くべきものでした。彼らは言い訳をします。想像してみてください。どんな言い訳も、招いている主人にとっては侮辱と受け取る外ないほどの、人生に一度あるかないかの贅沢な宴会です。それなのに、「皆、次々に断った」とあります。

 しかもその言い訳ときたら、どれもこれも、馬鹿げたものばかりです。現代風に言い換えればこうなるでしょうか。ある人は、家を一軒買ったのですが、それがどこにあるかも知らない、と言います。別の人は、新しい自動車を買ったのですが、それを運転する機会がこれまで一度もなかった、と言います。他のある人は、結婚したばかりの妻が、今晩、カーペットを洗ってくれるようにと彼に頼んだ、と言います。だから、宴会へは出席できない、と。

 言い訳は、軽薄で、愚かで、実に失礼な、馬鹿々々しいものばかりです。きっと、招待を断るためのこの馬鹿げた理由をイエスさまが語り終えられた時、この譬え話を聞いていた誰もが笑い転げたに違いありません。

 映画「男はつらいよ」の主人公、フーテンの寅さんを思い出します。この世にも、また映画の中にも、いわゆる「頭のいい」人が、自分でもそう思っている人がたくさん登場し、「おまえ、さしづめインテリだな」と寅さんから揶揄(からか)われるように声をかけられます。ここで馬鹿げた言い訳をしている人たちもまた、「さしづめインテリ」なのかも知れません。頭は良くても、大切なことが分かっていません。「おじさんは、生まれつき他人(ひと)に親切だ」と言われる寅さんは、そういう意味の「頭のいい」人ではなく、人の気持ちが分かり、悩みや痛み、そして喜びに共感することができる人です。寅さんは、困っている人、弱い人がいれば、敏感に気づきます。そして親身に話を聞き、その人の味方になってくれます。悩みや苦しみは、それに気づいてもらえ、誰かが話を聞き、見ていてくれるのを知るだけで、楽になります。少なくとも、どん底からは浮き上がれるものです。

 さて、僕(しもべ)が主人にこのことを話すと、どこまでも主人のつもりのその人は、招待の基準を見直すことにします。主人は、新しい、全く別の来客名簿を作って、僕に、町の広場や路地まで急いで出かけて行って、貧しい人や体に障がいのある人、目の見えない人や足の悪い人たちを連れて来なさい、と言いつけます。

 マタイによる福音書にも、これと同じ譬え話が出てきます(22:1-10)。マタイは、宴会場をいっぱいにするために、「悪い者も良い者も両方」集めるようにと僕が言われた、と語ります。「悪い者も良い者も」です。彼らが招かれ、やって来たのは、貧しい人や体に障がいのある人が、金持ちや健康な人よりも善良だから、というのではありません。彼らがやって来たのは、様々な差別と抑圧の中で、他に行く所がどこにもなかったからです。他の誰も、彼らに向かって扉を開こうとはしません。この人たちを救う者など、どこにもいないのです。彼らがやって来たのは、そう、彼らが飢えていたからです。ただ、それだけが理由でした。

 

■内にいる者と外にいる者

 故郷の会堂で語られたイエスさまの最初の説教が思い出されます。その説教とこの予想外の来客名簿とが重なって聞こえてきます。

 「主の霊がわたしの上におられる。
 貧しい人に福音を告げ知らせるために、
 主がわたしに油を注がれたからである。
 主がわたしを遣わされたのは、
 捕らわれている人に解放を、
 目の見えない人に視力の回復を告げ、
 圧迫されている人を自由にし、
 主の恵みの年を告げるためである」(ルカ4:18-19)

 イエスさまの説教を聞いていたナザレの人々と同じように、わたしたちも、恵みの年が今ここにもたらされているとイエスさまが語られたとき、それは、わたしたちのことを話しておられるのだ、と思うかも知れません。何と言っても、自分たち以上に福音を受け入れることができ、また、それを受けるに価する者など一体どこにいるというのか、そう思っていたことでしょう。

 ところが、イエスさまは思いもしないことを語られます。預言者エリヤは、助けを必要とするイスラエルの善良な女性たちのところではなく、外国人のやもめを助けるために出かけて行き、そしてエリシャもまた、イスラエルの善良な重い皮膚病の人たちのところではなく、シリア人のためにその癒しの力を用いた、と言われます。この言葉を聞いたナザレの人々は激しく怒り、イエスさまを殺そうとします(ルカ4:25-27)。

 神様はしばしば、「内にいる者」が聞くことを拒むとき、「外にいる者」のところへと行かれるのです。預言者たち―エリヤ、エリシャ、あるいはイエスいった人たち―が自分の故郷で受け入れられることは、稀です。彼らが受け入れられないのは、神様に受け入れられ、喜ばれることが何であり、誰なのかということを、そしてそれはわたしたちでない、と預言者たちがはっきりと告げ知らせたからです。

 イエスさまは、二人称単数の「あなた」から複数の「あなたたち」へと言葉を変えて、すべての人に向かって、はっきりと宣言されます。

「あなたがたに言っておくが、あの最初に招かれた人たちの中で、わたしの食事を味わう者は一人もいない」

 あの最初に招かれた人たちはもちろん、故郷の人たちも、そしてわたしたちも腹を立てるでしょう。なぜなら、きちんと献金をし、教会に通い、掟に従う、品行方正な神の愛する者であるこのわたしにとって、神様がわたしを愛してくださるのと同じように、外にいるすべての者をも愛しておられると告げられることは、決して愉快なことではないからです。外にいる人たちのために神の恵みが備えられているという良き知らせは、内にいるわたしたちにとっては、受け入れがたい、悪しき知らせだからです。

 現代の日本で、富める、豊かな生活をしているわたしたちは、胃袋を満たすための食べ物は贈られた物ではなく、自分の力で手に入れたものだと考えています。そのため、今、持っている物を自分の拳(こぶし)の中に必死に握りしめようとしているわたしたちは、贈り物など何一つ求めようとしません。結果、わたしたちには、何ひとつ与えられません。わたしたちの「豊かさ」は、豊かさゆえの「貧しさ」を生み出すばかりです。わたしたちは、電子レンジのマイクロ波によって調理されたものを食べ、テレビを見て、自分自身と自分のささやかな疼(うず)きと痛みに目を留めて、自分の中にすべてのこと、すべてのものを抱え込むようにして、家の中に留まります。

 そのようにして宴会は、わたしたち抜きで始められるのです。

 「今満腹している人々、あなたがたは、不幸である、あなたがたは飢えるようになる」(ルカ6:25)

 すっかりドレスアップしているわたしたちに、行くべき場所がありません。

 

■招き

 しかし、宴会についてのこの譬え話のテーマは、喜び—招かれる喜びです。

 「御主人様、仰せのとおりにいたしましたが、まだ席があります」と言った僕に、この主人はさらに、「通りや小道に出て行き、無理にでも人々を連れて来て、この家をいっぱいにしてくれ」と言います。神の国の盛大な宴会を人でいっぱいにしようと言われます。神様が願っておられることは、わたしたちが罪によって裁かれ、滅びてしまうことではありません。一人でも多くの人が救いにあずかり、神の国でともに食事の席に着くことをこそ、願っておられるのです。そのために、人々を「無理にでも」ひっぱって来ようとされます。来たい人は来なさい、来れる人は来たらいい、ではありません。そうではなく、ぜひ、わたしの招きに応えて、わたしの救いにあずかり、わたしの食卓に着いてほしい、そう願っておられるのです。

 わたしたちに求められていることはただ一つ、この神の招きを受け止め、それに応えて出かけることです。畑を買ったから、牛を買ったから、妻を迎えたから…。そのことも確かに人生では大切なことでしょう。等閑(なおざり)にはできないことです。しかしそれらを、神の招きを無視したり、後回しにする口実とするのでなく、「招いてくださってありがとうございます」と言って、実際に出かけて行って、主の救いの食卓に着くことが、わたしたちに求められているのです。

 ときに、自分のような者は神の救いには相応しくない、自分が招かれているはずなどない、と勝手に思い込んでしまうこともあるでしょう。しかし、祝宴に招待されるために必要な条件はただ一つです。わたしたちが空腹であることです。そして事実、わたしたちの多くが時に空腹を覚え、また、わたしたちの何人かはいつも空腹を感じています。ほとんど何も持たない人たちの飢えがあり、あまりにも多くのものを持っている人たちの飢えがあります。すべての人が飢えています。貧しい人は、飢えることの屈辱と染み入るような苦痛を証言することができるでしょう。また富める人は、肥え太り、外見上は満足していますが、内では、愛と意味を求めて飢え乾いている、そんな骨と皮ばかりになったような自分の虚しさを語ることができるでしょう。

 そのすべての人に、素晴らしい招待がもたらされているのです。

 かつて、「『福音伝道』とは何か」と尋ねられた宣教師、福音伝道者であったD.T.ナイルズが、こう答えています。

 「福音伝道とは、腹を空かしたひとりの物乞いに、パンを見つけることのできる、もうひとつの場所を告げ知らせることだ」と。

 福音伝道者とは、テレビやパソコンを見ている十分に満たされている人々に、テレビやパソコンで甘い言葉を語りかけている人のことではありません。福音伝道とは、人と人との間にさらなる壁、垣根を立てることではありません。福音伝道者とは、居心地のよい、小さな閉鎖的なクラブに集まっておしゃべりをして、互いに満足している人たちのことではありません。福音伝道とは、何に飢えているにしても、飢えている人を捜し求め、食べ物を与えることです。これが、良いマナー、やり方なのです。

 

■福音

 「目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、重い皮膚病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている」(マタイ11:5)

 この言葉は、人をどのように主の食卓に招くのか、わたしたちはそのことにもっと注意を払うべきであると教えています。わたしたちが人々を食事に招くための言葉ややり方は、福音的なものでなければなりません。つまり、わたしたちの招きは、それが良き知らせ―福音であると感じられるものでなければならないのです。

 招待するときに使われる伝統的な言葉のひとつは、次のようなものです。

 「神の命令に従いつつ、またこれから後、主の聖なる道に従って歩みつつ、自分の罪を誠実にかつ真剣に悔い改め、隣人への愛と思いやりを持ち、新しい生活を送ろうとしている、あなた。
 信仰によって近づき、この聖なるサクラメントによって慰めを受け、心から跪いて、全能の神に謙遜な告白を献げなさい」

 しかし、もっと軽やかに、もっと直接的な招きをすることもできるでしょう。

 「これは、神の民に与えられる神様からの贈り物です!
 わたしたちの主キリストは、この喜びに満ちた祝宴の主人であり、キリストは、すべての人に来なさい、と招いてくださっています!」

 あなたがご覧になっている、主の食卓に招かれている人々の様子は、いかがでしょうか。わたしたちのこと細かく、形式的な式の手順は、助けというよりも、むしろ障害になってはいないでしょうか。堅苦しく、まるで軍人のようにがちがちに歩く司式者の姿はときに、食事の席よりも、パレードの場に相応しいものに見えることさえあります。聖餐式の中で語りかけるとき、わたしたちは、もっと親切で、またもっと丁寧でなければなりません。聖餐式で、わたしたちは余りにもたくさんの指示と指図を出し過ぎています。聖霊が働き、聖霊に導かれて、人々はやって来るのですから、パンと杯が差し出されるときには、シンプルにただ一言、「主の食卓に来なさい」と言うだけで十分です。その招きは、喜びに溢れた祝宴への招きであって、軍隊のような閉じられた式への招きではありません。

 人々が、わたしたちの教会を見て、「あなたたちがキリストの体なのですか。それとも、わたしたちは別のものを捜した方が良いのでしょうか」と尋ねるとき、わたしたちが差し出すことのできる唯一の真実な証しは、イエス・キリストご自身の証しでしかありません。わたしたちは、食卓の主賓の席に上がろうとはせず、見捨てられ、傷ついた、飢え渇く人たちが招かれて良いもので満たされる、そんな食卓をこそ、人々に示さなければなりません。

 それこそが教会であり、主の食卓です。

「そして、毎日ひたすら心を一つにして神殿に参り、家ごとに集まってパンを裂き、喜びと真心をもって一緒に食事をし、神を賛美していたので、民衆全体から好意を寄せられた。こうして、主は救われる人々を日々仲間に加え一つにされたのである」(使徒言行録2:46-47)