福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

TEL.093-951-7199

6月7日 ≪聖霊降臨節第二主日・三位一体主日礼拝≫ 『あなたのひと言が欲しい』マタイによる福音書8章5~13節 沖村裕史 牧師

6月7日 ≪聖霊降臨節第二主日・三位一体主日礼拝≫ 『あなたのひと言が欲しい』マタイによる福音書8章5~13節 沖村裕史 牧師

≪礼拝次第≫  午前10時15分
黙  祷
讃  美  歌 18 (1, 2節)
招  詞 ヨハネの第一の手紙1章1節
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
交読詩編 119篇41~48節 (137p.)
讃  美  歌 351 (1, 3節)
祈  祷  ≪各自、お祈りください≫
聖  書 マタイによる福音書8章5~13節
讃  美  歌 58 (1, 3節)
説  教 「あなたのひと言が欲しい」
祈  祷
献  金 65-1
主の祈り 93-5A
讃  美  歌 472 (2, 4節)
黙  祷

≪説教≫
■百人隊長と中風の僕
 冒頭5節から6節、
 「さて、イエスがカファルナウムに入られると、一人の百人隊長が近づいて来て懇願し、『主よ、わたしの僕(しもべ)が中風(ちゅうぶ)で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます』と言った。」
 カファルナウムは、交通の要衝に位置します。しかも、ガリラヤを統治していたヘロデ・アンティパス、あのヘロデ大王の末の息子が住む、政治・経済の中心都市でした。当然そこには、軍の部隊が常駐しています。
 ここに出てくる百人隊長は、そのヘロデ軍に所属する下士官であった、と考えられます。末端の歩兵連隊の指揮官であるだけに、住民と直(じか)に接する立場にあります。ルカによる福音書3章14節に、洗礼を受けるためにやって来た兵士に、洗礼者ヨハネが「『だれからも金をゆすり取ったり、だまし取ったりするな。自分の給料で満足せよ』と言った」と記されています。当時の兵士たちの中には、力を笠に着て、金品を強奪するなど横暴な振る舞いに及ぶ者が多くいて、人々から反感や怒り、恨みの眼差しを向けられていたのでしょう。
 蛇蝎(だかつ)のごとく嫌われていたであろう、その百人隊長が、イエスさまに「近づいて来て懇願し」ます、わたしの僕、部下が「中風で家に寝込んで、ひどく苦しんでいます」と。
 中風とは、脳溢血(のういっけつ)などの後に表れる肢体麻痺、または半身不随の状態のことです。老兵士であったのかもしれません。
 当時の軍隊は、ローマ人の兵士だけでなく、地元住人の志願兵によって編成されていました。ガリラヤに駐留するヘロデ直属の軍隊であれば、大半は、その志願兵であったと思われます。当時、志願兵として25年間在籍した者には、無条件にローマの市民権が与えられ、その州の税金も免除されるという恩恵が与えられました。貧しさに耐えかねて志願した兵士たちは誰もが、石にかじりついてでも満期まで勤め上げたいと願っていたに違いありません。しかし、軍隊という、いわば肉体が資本の組織の中にあって、中風で体に麻痺のある兵士は、使いものにならない、役立たずでしかありません。普通であれば、即刻解雇となるはずです。
 ところがこの百人隊長は、使いものにならない、それどころか死にかかっている、その部下を解雇するでもなく、うち捨てるでもなく、何とかしてやりたい、治るものなら何とか治してやりたい、そして兵士として続けさせてやりたい、と願っています。この老兵士の、石にかじりついてでも満期まで勤め上げなければならない事情を、百人隊長は知って、慮(おもんばか)っていたのかも知れません。
 百人隊長は、山の上で語られたみ言葉の数々を、そして山を下りられてからなされた驚くべきみ業のことを聞き及んでいたのでしょう。イエスさまに望みをかけ、自ら訪ね、直接、部下の癒しを請(こ)い願います。

■わたしは罪人です
 重い皮膚病の人の時と同じように、イエスさまは躊躇(ちゅうちょ)なく応じられます。
 「わたしが行って、いやしてあげよう。」
 ところが、これに対して百人隊長の驚くべき言葉が告げられます。
 「主よ、わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません。ただ、ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」
 「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」、この言葉が、百人隊長の人柄に重みを加えます。彼は、自分の部下である老兵士を大切にし、イエスさまに助けを求めるほどの慈愛に満ちた者です。そして今、ここに語られた彼自身の言葉によって、彼の謙虚さが加え示されます。
 しかしそれは、単なる謙虚さではありません。わたしは人間的に未熟で、立派な人間とはとうてい言えない者です、と言っているのではありません。イエスさまを家に迎える資格がないのは、彼が、力によって人々を弾圧し、時にはその財産を強奪することもある軍隊の下士官であり、また、彼を含むその多くの兵士が異邦人であったからです。そのことは、11節から12節に、「言っておくが、いつか、東や西から大勢の人が来て、天の国でアブラハム、イサク、ヤコブと共に宴会の席に着く。だが、御国の子らは、外の暗闇に追い出される。そこで泣きわめいて歯ぎしりするだろう」とあることからもお分かりいただけるでしょう。彼は、徴税人たちと同様、ローマの手先となってイスラエルの民を虐げる、汚れた異邦人、まさに罪人として忌み嫌われる存在でした。 「わたしはあなたを自分の屋根の下にお迎えできるような者ではありません」という彼の言葉は、「わたしは汚れた者です、汚れた者です」と叫びながら人々の前に出ていくほかなかった、重い皮膚病の人の姿を思い出させます。
 百人隊長は、ローマの手先として民を虐げる、異邦人である自分を深く意識しつつ、それでもなお、イエスさまに自分の愛する部下を病気の苦しみから救ってください、と懇願したのです。彼は、イエスさまこそ、人を本当に救う力を持っている方だと信じています。病気で苦しんでいる部下を救うことができるのは、この方の他にはいない、と確信しています。このイエスさまによる救いをひたすらに求める願いと、罪人である自分にはイエスさまをお迎えする資格がない、ふさわしくないという思いとが、彼の中でぶつかり合っています。その葛藤が、懇願をしながらもその一方で、「わたしは罪人です」、ご足労には及びませんと告げる、この一見矛盾するとも思える、彼の言葉に現れています。

■み言葉という活路
 しかし彼は、その葛藤の中にひとつの活路を見出した、と言うべきかもしれません。8節の後半です。
 「ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。」
 彼は、イエスさまにそう願います。イエスさまに来ていただくことなどできない。自分にはその資格がない。がしかし、ひと言、お言葉をいただくことさえできれば、そのお言葉さえあれば、大切な部下の病気は癒される、そう思ったのです。
 彼は活路を見出しました。イエスさまの救いを求めつつもしかし、その資格など自分にはないという葛藤の中で、み言葉という活路を、彼は見出したのでした。
 わたしたちはしばしば、自分がふさわしくないということを忘れ、あるいはそんなことすら思わず、ただひたすらにイエスさまに、わたしのところに来て、手を置いてくださいと祈り願います。そして、それが叶わなければ諦め、イエスなんて、信仰なんて何の役にも立たないと文句を言い立てます。
 しかしこの百人隊長は、イエスさまのみ言葉に、確かな希望を見出します。彼がイエスさまの言葉の権威と力を信じていたからです。イエスさまがひと言おっしゃってくだされば、その言葉は実現する、そう信じました。この信頼のゆえに、彼は、ふさわしくないこの自分が、それでもなお、イエスさまの救いにあずかるための、ただひとつの活路を見出すことができたのです。
 「ひと言おっしゃってください。そうすれば、わたしの僕はいやされます。わたしも権威の下にある者ですが、わたしの下には兵隊がおり、一人に『行け』と言えば行きますし、他の一人に『来い』と言えば来ます。また、部下に『これをしろ』と言えば、そのとおりにします。」
 百人隊長が、イエスさまのみ言葉の権威と力に信頼することを知っていたのは、聖書を学んだからでも、信仰の手ほどきを誰かから受けたからでもありません。そもそも彼は、このときまでイエスさまに会ったことさえありません。
彼はただ、自分の日々の生活の中で、言葉の権威と力とを知りました。
 彼は軍人です。軍隊の命は規律です。上官の命令通りに兵士たちが行動しなければ、軍隊は何の役にも立ちません。彼は日々、そういう世界に生きています。しかも、彼は百人隊長です。最も危険な最前線で戦う下士官です。戦場では、その百人のいのちが、彼の命令如何(いかん)にかかっています。自分の発する言葉が部下のいのちを左右します。彼は、命令する権威を持つことの責任と、そこで発せられる言葉の重さとを、よく知っていました。また、彼の上には上官がいて、彼自身もその権威の下にあり、その命令に従わなければなりません。日常の生活を通して、彼は、イエスさまが語られる言葉の権威と力とを信じることができたのでした。

■あなたのひと言
 これを聞いたイエスさまは、従っていた人々に向かって、こう言われます。
 「はっきり言っておく。イスラエルの中でさえ、わたしはこれほどの信仰を見たことがない。」
 最大級の賛辞です。イエスさまがこれほど手放しに、人の信仰を褒(ほ)めておられる言葉は他にはなかなか見当りません。イエスさまはこのとき、彼の信仰の何を褒めたのでしょうか。
 イザヤ書55章10節から11節にこうあります。「雨も雪も、ひとたび天から降れば/むなしく天に戻ることはない。それは大地を潤し、芽を出させ、生い茂らせ/種蒔く人には種を与え/食べる人には糧を与える。そのように、わたしの口から出るわたしの言葉も/むなしくは、わたしのもとに戻らない。それはわたしの望むことを成し遂げ/わたしが与えた使命を必ず果たす。」
 主の言葉はひとたび語られれば、必ずその使命を果たし、主のみ心を成し遂げる、むなしく消え去ってしまうことはない、という信頼です。み言葉の権威と力へのこの信頼こそ、イエスさまがここで、イスラエルの中でさえ見たことがない、と褒めた彼の信仰でした。
 しかし、権威というものは、その権威を受け入れる者がいて初めて、権威たり得るものです。わたしたちが子どもに、あるいは職場の部下に「こうこうしなさい」と言ったとします。しかし、その言葉を子どもや部下が受け入れなければ、それは指示にも命令にもなりません。無視された結果、混乱や嘲笑のもとになるだけのことです。そして実は、自らの権威を誇り、うぬぼれ、それを振り回すだけの者は、決して他の権威を受け入れようとはしません。自分の権威と他人の権威とは、対立するものだからです。
 わたしたちが、この世の様々な権威から自由であることができるとすれば、それは、わたしたちが反骨精神溢れる自由人だからなのではありません。わたしたちが、この世のどんな権威でもなく、ただ神の、イエスさまの権威のもとに置かれている「僕」だ、と知っているからです。
 しかし、神の権威に服従することを義とするわたしたちの姿を見て、人は時に、キリスト教を奴隷の宗教だ、と言います。現代人は「僕」になるのが嫌いだからです。みんなが主人になりたがります。自らの権威を保ちつつ、他者を支配し、自分の思いどおりに生きることが幸せだ、と思い込んでいます。人々が権力を求め、富を集め、情報を握ろうとするのは、そのためです。
 しかしわたしたちは、支配されることが、権威のもとに生きることが、真の幸いをもたらすような支配、権威を知っています。愛の神という主人を、イエス・キリストという主人の下に生きる幸いを知っています。わたしたち僕を愛し、僕の幸せに全責任を負い、僕を救うためにいのちをかける主人です。そんな主人の下に、そんな愛の権威のもとに生きることができる人は、幸いです。その幸いは、この世で自らが主人になるのとは比べものにならないほどの幸いです。
だからこそ百人隊長は、イエスに向かって「ひと言おっしゃってください」とだけ願うことができました。彼は異邦人でしたが、イスラエルの人々が失ってしまっていた神のみ力に対する信仰を表わし、イエスのみ言葉の中に神が語っておられるのを聞くことができたのです。
 わたしたちの信仰に求められていることは、「あなたのひと言だけ、あなたのひと言が欲しいのです」と祈ること、それだけです。ふさわしいか、ふさわしくないか、もはや関係ありません。離れたところにいるかどうかも、問題ではありません。イエスさまのみ言葉は、あらゆる時、あらゆる場所にあって、信仰に働きかけ、わたしたち一人ひとりの信仰の中に立ち現れてくださるのですから。

お祈りします。父なる神。今日、あなたを、あなたの御子イエスを「主」とする信仰が与えられました。感謝です。神の愛そのものである御子を、絶対的な権威をもつ主人とする信仰が、どれほどの安心と喜びを、希望と自由を生むことでしょうか。ただ、あなたのみ言葉だけを求める者とならせてください。この祈り、主の御名によって。アーメン