福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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2月14日 ≪降誕節第8主日礼拝≫ 『良い倉から取り出す』マタイによる福音書12章33~37節 沖村裕史 牧師

2月14日 ≪降誕節第8主日礼拝≫ 『良い倉から取り出す』マタイによる福音書12章33~37節 沖村裕史 牧師

聖日礼拝 「降誕節第8主日」
2021年 2月 14日 式次第

前 奏  キリスト、神のひとり子よ (J.プレーガー)
讃美歌  9 (2,4節)
招 詞  詩編34篇9~10節
信仰告白 使徒信条
讃美歌  53 (1,3節)
祈 祷
聖 書  マタイによる福音書12章33~37節 (新23p.)
讃美歌  305 (2,4,6節)
説 教  「良い倉から取り出す」
祈 祷
献 金  64
主の祈り
報 告
讃美歌  545 (2,4,6節)
祝 祷
後 奏  主キリスト、神のひとり子 (J.S.バッハ)

 

説 教
■つまらない言葉

 今朝の最後の言葉、36節から37節にこうあります。

 「言っておくが、人は自分の話したつまらない言葉についてもすべて、裁きの日には責任を問われる。あなたは、自分の言葉によって義とされ、また、自分の言葉によって罪ある者とされる」

 「つまらない言葉」とは、それを口にした後で「ああ、しまった、あんなつまらないことを言うくらいだったなら、黙っていた方がよかった」と後悔せざるを得ないような言葉ということです。口語訳では「無益な言葉」と訳されていました。不注意で、軽薄で、思慮のない、恥じ入るばかりの、人を傷つけてしまう言葉です。そんな「つまらない言葉」のために、あなたは神から責任を問われる、裁きの場で神に申し開きをしなければならなくなる、とイエスさまは言われます。

 日本人は、言葉に対して無頓着過ぎるところがあるかもしれません。

 失言をしても、「不適切な表現であったことをお詫びます」というひと言で、何事もなかったかのように済ませようとします。今、テレビを賑(にぎ)やかせている森何某の発言も、海外からの、また海外と関係の深い企業からの厳しい批判に、慌てて対応する始末です。かばう人も、「いやあ、あれは口は悪いけれど、根は良い奴だから勘弁してやってくださいよ」と言い、それで事が済むと思っているところがあります。心根さえ良ければ、言葉にそれほど気をつかわなくてもよいではないかと思っています。「心にもないことを、つい言ってしまって申し訳ありません」という言い訳が通用すると本気で思っています。

 しかしイエスさまは、ここではっきりと言われます。34節後半から35節、

 「人の口からは、心にあふれていることが出て来るのである。善い人は、良いものを入れた倉から良いものを取り出し、悪い人は、悪いものを入れた倉から悪いものを取り出してくる」

 厳しい言葉です。あなたは、心にもないことを口にしたと言うけれど、それは本当ですか、と尋ねられるのです。「あふれる」とあります。水が、自然に溢れ出てくるように、あなたの心の中にあるものが、いつのまにか溢れ出てきているだけではないのですか、イエスさまは、そう問われるのです。

 

■聖霊を汚す言葉

 ここに語られているイエスさまの言葉は、34節前半に激しい調子で「蝮の子らよ」とあるように、12章に入ってからイエスさまとの間で激しい論争を続けてきた、ファリサイ派の人々に向けられた言葉です。とりわけ、直前のベルゼブル論争、その最後、31節から32節に続く言葉です。

 「だから、言っておく。人が犯す罪や冒涜は、どんなものでも赦されるが、“霊”に対する冒涜は赦されない。人の子に言い逆らう者は赦される。しかし、聖霊に言い逆らう者は、この世でも後の世でも赦されることがない」

 この言葉はよくこう説明されます。

 「イエスはこの世の罪を負って死なれたのであり、その赦しは、すべての人に向けられたもので、彼を罵り冒涜した人々も、その赦しから洩れることはない。彼らはただ、イエスを神の子とは知らなかったのである。知らずに罪を犯したのである。けれども今や、イエスの死と復活、そして昇天を経て、イエスを神の子キリストと信じる信徒の群れは、まさに聖霊の証しを携えて立ち上がった。それなのに、その聖霊の証しを拒否し、これを冒涜するとすれば、その人々こそ、永遠に赦されない罪を犯す者だ」と。

 ただ、この説明には無理があります。ファリサイ派の人々がイエスさまを神の子とは知らず、つまり、聖霊がそこに働いているとは知らずに、これを冒涜したのと同じように、十字架と復活、昇天後の信徒たちによる宣教活動でも、彼らが聖霊によって語っているということを知らずに、これを冒涜する人々がいたことが、使徒言行録のあちらこちらに書かれているからです。

 では、聖霊に敵対し、これを冒涜する人とは、一体だれのことなのでしょうか。聖書を読んでいて、はたと一つの事実に突き当りました。悪霊、サタンこそ、イエスさまを神の子と知りつつ、聖霊を聖霊と知りつつ、これに敵対し、冒涜する者であった、という事実です。そのサタンに赦しなどありえません。サタンは聖霊に敵対するその本性ゆえに、永遠の滅びに投げ込まれるのです。この厳粛な事実が、さきほどのイエスさまの言葉の中には含まれています。いえむしろ、これを中心に据えて、この言葉の意味を探ることが大切です。

 とすると、イエスさまのこの言葉は、サタン・悪に対する断乎たる断罪の宣言であると同時に、その滅びに巻き込まれないよう気をつけなさい、という愛の警告であると言えるのではないでしょうか。

 イエスさまは、悪の呪縛から、人々を取り戻そうとしておられるのです。しかもファリサイ派の人々たちが、どんなにイエスさまに敵対しようとも、その罪に対する贖いと赦しが与えられるのです。驚くべき恵みの呼びかけです。

 とはいえ、これは決して、無差別にばら撒かれる「安価な恵み」ではありません。人はみな、すべてを見通される「神の前に」立っているのです。それぞれの内に隠されている真実がどのようなものなのか、そのことが、イエスさまの言葉を通して、白日の下に晒されます。それが、今朝の言葉です。

 

■神の不在

 イエスさまが今ここで問題とされている「つまらない言葉」「心にもない言葉」こそ、まさに「聖霊を汚す言葉」であり、赦されることのない「聖霊に言い逆らう言葉」なのです。

 わたしたちが口にする、何でもない、つまらない言葉が、いちいち神の霊を汚す、しかも赦されない言葉として問題視される。そんな大げさな、と思われるかもしれません。

 しかし「聖霊を汚す」とは、そもそもどういうことでしょうか。聖霊とは、今、ここに生きて働いておられる神の力のこと、神ご自身のことです。とすれば、聖霊を汚すということは、今ここに働いておられる神を無視することです。拒絶することです。「神なんか生きておられない」とすることです。「いや、神はおられるかもしれないけれど、何の役にも立たない」と考えることです。

 今ここに働いている神を否定すること、それこそ、ファリサイ派の人々がしたことでした。イエスさまの癒しは神の御業でした。今、ここでなされる御業でした。悪霊と戦って、苦しみ悩む人々を癒しておられたのです。それを、悪霊と結託した、悪霊の頭の業でしかないと断定したのです。溢れるほどの憐みをもって神が働いておられる、かつて働かれ、これからなお働いてくださる。そのことを無視して、まるで自分が神にでもなったかのように、イエスさまによって働かれる神の御業を、「これは神の業ではない」と言ったのです。

 それこそが罪でした。

 罪とは、ファリサイ派の人々が言うような「律法に違反すること」ではなく、「聖霊を汚すこと」でした。イエスさまは、自分に浴びせられる罵詈(ばり)雑言(ぞうごん)はそれを甘んじて受け入れられます。しかし、人がどのように生きていたとしても、その人のいのちが、神の愛、神の赦しの中に置かれているということ、「今ここに」神はおられ、神は「霊によって働いておられる」という事実を拒否することはできない、赦されない、と言われるのです。

 わたしたちを超える神の愛と赦しに逆らうことなどできないのです。赦されることのないただ一つの罪は、神の愛、神の赦しなどありえないと言い張る、ファリサイ派の人々の、また、わたしたちの頑なな傲慢さでした。

 わたしたちも、ファリサイ派の人々のように、神を信じていると言いながら、神が今ここにいて、働いておられることに気づかず、忘れ、無視しようとします。神は愛の神だ、赦しの神だと告白しながら、神が、拭い難い罪の中にある自分を、何よりも自分と敵対する人をも愛し、赦してくださっていることを受け入れようとしません。そのために自分の罪をなかったことにし、一方で人の罪を決して忘れようとせず、時に呪いの言葉さえ口にします。

 そのことを恐れ、慄くこともありません。神は今ここにいない、たとえいても、ずっと遠くのことだ、そう思っているからです。信じていないからではありません。信じていながら、そう思っているのです。

 それが「悪いものを入れた倉」です。そこから出る言葉こそ「悪いもの」、罪の言葉なのです。
 
 

■神の愛と赦しの中を

 もちろん、イエスさまはわたしたちを罪に定め、見捨てようとされているのではありません。さきほども申し上げたように、イエスさまの言葉は「愛の警告」です。わたしたちを聖なる神の前に立たせ、わたしたちの言葉が、信仰が、「良いものを入れた倉」から出たものであるかどうか、自己吟味を求めておられるのです。

 「「悪いものを入れた倉」の真逆が、「良いものを入れた倉」です。今ここに神がいてくださる、神の霊が働いてくださっている、神の愛と赦しの中にわたしたちを置いてくださっているということです。神の国です。神の国の愛と赦しに生きる、そこから、良い言葉が生まれて来るのだということです。

 もちろん、わたしたちの努力によってそうなるというのではありません。また、そうすることなどできようはずもありません。それは、ただ神の霊の働きによることです。神の国は、神の霊は、わたしたちが望み、努力したから、今ここに与えられているのではありません。突然、ただ一方的に、今ここにもたらされたものです。神なきが如くに考え、振る舞い、語るのではなく、ただ、神の霊を受け入れ、神の愛の御手に自らを委ねて生きればよいのです。そうすれば、神はわたしたちをしっかりと抱き締めてくださるでしょう。

 春名康範という人がこんなことを書いています。

 「ホーソンの『緋文字』という小説があります。

 ピューリタニズムの色濃いアメリカの開拓期の話です。ある町で一人の女性が姦淫の罪でとらえられ、公衆の面前で罪の裁きを受けるところから、話は始まります。

 彼女は、不幸な結婚をしました。相手は、書斎にこもって学問の研究にばかり精力をそそぎ、気がついたら年をとっていたという男性でした。夫の指示で一足先にボストンにやってきましたが、待てどくらせど夫はやってきませんでした。

 やがて彼女は、夫が航海の途中で嵐にあって死んでしまったのではないか、と思うようになりました。そして、若くて町の人々からも尊敬されていた独身の牧師と恋におちるのです。その結果が妊娠でした。

 夫を待っているはずの人妻が妊娠したというので、姦淫の罪に問われた彼女は、獄舎から連れ出され、公衆の面前で、

 「この子の父親は誰だ。そいつの名前を言え」

 と言われます。(神の愛と赦しを忘れた、心ない、つまらない言葉です。)

 しかし彼女は、相手の名前を言いませんでした。そして、姦淫という単語、アダルトリーの頭文字「A」を、赤い布地の上に金糸で刺繍したワッペンを胸につけて、一生、生きなければならないという判決を受けました。

 人々は、辱めのAの緋文字を見るたびに彼女の罪を囁きました。しかし彼女は、そのような辱めを受けながらも、その町のはずれに住み、刺繍という特技を活かして生活してゆくのです。

 はじめは彼女をけがれた女のように言っていた町の人々も、やがて彼女の親切な行為や、辱めに屈しない生き方を見て、尊敬するようにさえなってゆきました。

 しかし若い牧師は、自分が父親であることを名のることができませんでした。人々から受けている尊敬と名声にキズがつくことを恐れたのです。(彼もまた、神に仕える者でありながら、神の愛と赦しを見失っていました。)
 自分を苦しめ続けた牧師はとうとう病気になり、死の床に着いた時、ようやく自分の罪を告白し、平安に満たされ死んでゆきます。…

 罪は告白すれば支配力を失います。隠せば力となってその人を苦しめ続けるのです」( )内は沖村。

 罪贖われ、罪赦された者として、神の愛に支えられ、神の霊に導かれて、新しくされたいのちを歩んでいく。その時に、どうして人を傷つける言葉を語ることができるでしょうか。どうして、神の御業をないがしろにする言葉を、口にすることができるでしょうか。どうして、自分の、そして人のいのちを呪う言葉を語ることができるでしょうか。

 御霊において働いておられ、今もわたしたちと共におられる神の働きを、いついかなるときにも受け入れるために、わたしたちは朝ごと夕ごと、祈り、賛美し、聖書のみ言葉に耳を傾けます。その時、自分の正しさを神の前に、人の前に主張することをやめて、神の愛と赦しの中を生かされ生きていることに気づかされるでしょう。自分の罪が赦されることを知っている者として、些かなりとも人の罪を赦すことができるようになることでしょう。