福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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7月 6日 ≪聖霊降臨節第5主日礼拝/聖餐式≫『キリストのかぐわしい香り』コリントの信徒への手紙二 2章 12~17節 沖村 裕史 牧師

7月 6日 ≪聖霊降臨節第5主日礼拝/聖餐式≫『キリストのかぐわしい香り』コリントの信徒への手紙二 2章 12~17節 沖村 裕史 牧師

 

■なぜ苦しむのか

 世界には多くの宗教があります。そして多くの人が宗教に求めることは、苦難からの解放、平安ではないでしょうか。人生には、いろいろな苦難や災難があります。苦しみや悲しみを味わったことがない人など何処にもおられないでしょう。わたしたちはできるだけ、そういうものに縁のない人生を送りたいと願っています。しかし苦難や災難は自分の注意や努力だけでは防ぎようがないものです。そのような災いに遭わないようにと神に祈る、これが古今東西の宗教を信じる人々が行ってきたことでしょう。

 逆を言えば、宗教を信じて神を熱心に拝んでいるのに災難続きの人生を送っている人がいれば、その宗教にはご利益がないと見られるかもしれません。あるいは、その宗教自体には確かにご利益があるのだけれど、信者の信仰、生活態度に問題があるから災難に遭うのだ、という見方もあります。一見信心深く装っているけれど、その裏では神に献げるべきものを、自分の楽しみのためだけに使っている人がいたら、どうでしょうか。その人は天罰を受けて災難に遭うに違いない、とは思わないでしょうか。

 このことが、旧約・ヨブ記で問われていました。ヨブという人は信心深く、行いの正しい人だったので、神は彼を大いに祝福していました。しかしそのヨブに突然、様々な艱難辛苦が襲いかかります。ヨブは正しい人だから神に守られるはずなのに、どうしてこんな苦しみばかりが襲ってくるのか、なぜ神はヨブを守ってはくださらないのか、と周囲の友人たちは驚き怪しみます。そして彼らが下した結論は、ヨブは一見品行方正に見えるが、隠れたところで罪や過ちを犯しているのだ、だから彼は天罰として恐ろしい苦しみに遭っているのだ、というものでした。ヨブはそんな人ではありませんでしたが、神は正しい人を守ってくれるはずだという信念を抱く友人たちは、そう考えました。

 パウロの場合もそうでした。彼の伝道活動には、いつも苦難が伴っていました。それを見た人たちは「あのパウロという人は、自分は神から遣わされたと言っている。それならどうして彼はあんなひどい目にばかり遭うのか。なぜ神はパウロを守らないのか」と思うようになります。

 そのうち「パウロはわたしたちの献金をだまし取っているのではないか」などと言い出す人も出てきました。パウロは、マケドニアの教会―フィリピやテサロニケの教会から献金を受け取りながら、コリント教会からはなぜか献金を受け取ろうとはしませんでした。そのパウロがわたしのためではなく、エルサレム教会のために献金をしなさいと盛んにコリント教会の人たちに勧めます。それを聞いて、自分は献金を受け取らない、あなたがたに重荷を負わせないためだ、などと何だかイイ格好をしているが、実はエルサレム教会を隠れ蓑にして、自分のためにお金を集めているのではないか、そう勘繰る人たちが出て来たのです(12:16)。パウロは詐欺まがいのことをして神の怒りを買い、だからあんなに苦しんでいるんだ、そんな勝手な解釈をする人たちが現れたのです。

 それでパウロは、ここで自分の苦難の意味について語ろうとします。

 

■トロアスからマケドニアへ

 パウロはまず、直近の自分の行動について説明します。これまでお話ししてきたように、パウロは伝道旅行の計画を何度も変更しています。彼が伝道計画を変えた最大の原因は、コリント教会の中に、パウロに対して悪意を持って中傷する信徒たちがいたためでした。テモテからの知らせを受けて、慌ててコリント教会に駆け付けたパウロですが、彼に対するコリント教会の信徒たちの態度はあまりにひどいもので、エフェソに帰らざるを得なくなります。

 もちろん、パウロもこのままでいいと思っていたわけではありません。コリントの信徒たちに猛省を促すために、パウロはエフェソでコリント教会宛の手紙を書きます。現在この手紙を読むことはできませんが、パウロは4節に「わたしは、悩みと愁いに満ちた心で、涙ながらに手紙を書きました」と記しています。パウロはこの手紙を受け取ったコリント教会の人たちが心から悔い改め、態度を改めて、再びパウロを迎え入れてくれることを願って、テモテではなく、もう一人の同労者テトスにこの涙の手紙を託し、コリント教会に送り出したのでした。

 ところが、そのテトスがなかなか帰って来ません。電話も何もない時代です。コリントの様子が分かりません。そこでパウロはエフェソを離れ、北上してトロアスというところまで行きます。テトスがコリントから陸路、マケドニア経由で帰って来るなら、トロアスに行った方が早くテトスに会える、そう考えてのことでした。待つ間も、トロアスでの伝道は順調に進み、人々はパウロの語る福音に耳を傾けてくれました。

 しかし、ここでもテトスに会えません。パウロはトロアスでの伝道に手ごたえを感じつつも、居ても立っても居られず、さらに北上してマケドニアへと向かいます。そうして、やっとテトスに会うことができたのでした。

 パウロはコリント教会のことをテトスから聞きました。彼によれば、多くの人たちは悔い改めたとのことでした。そしてコリントの信徒たちは、パウロに暴言をぶつけた信徒を処罰し、パウロと真剣に和解したいと願っているとのことでした。この知らせ聞き、パウロは喜び、神に感謝します。

 

■死の行進になぞらえる

 しかしここで、パウロは何とも不可解な表現で語り始めます。14節、

 「神に感謝します。神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ、わたしたちを通じて至るところに、キリストを知るという知識の香りを漂わせてくださいます」

 「神は、わたしたちをいつもキリストの勝利の行進に連ならせ」とあります。プロ野球で優勝した球団や、オリンピックで金メダルを取った選手たちが優勝パレードをしますが、その華やかなパレードの一員にパウロたちも加わった、そんな情景を思い浮かべるかもしれません。しかし、事実は全く違うようです。ここでパウロが語っていることは、第一の手紙4章9節のことです。

 「考えてみると、神はわたしたち使徒を、まるで死刑囚のように最後に引き出される者となさいました。わたしたちは世界中に、天使にも人にも、見せ物となったからです」

 パウロは、ローマ軍による勝利のパレードのイメージを用いて語っています。ローマ帝国では、敵に勝利するとローマで凱旋パレードをします。そのパレードの最後、しんがりには敗軍の将たちが見せ物として連なります。彼らはローマの神々へのいけにえとして殺されるか、奴隷として売られます。彼らは戦に敗れただけでなく、辱めを受けるためにパレードに加わるのです。パウロはこの敗軍の将たちのように、自分たちもイエス・キリストにあって屈辱を受けるために死の行進に加わっているのだ、と言うのです。

 しかもパウロは、ここで神に感謝しています。そんな屈辱のパレードに加わることが、どうして神への感謝に結びつくのでしょうか。パウロの真意とは何でしょうか。パウロは今、自分たちの苦難に満ちた伝道のための道程(みちのり)を、屈辱のパレードを歩かされる人たち、彼らを待ち受けるのは死なのですが、その彼らの死の行進になぞらえているのです。

 

■キリストの苦難を辿る

 なぜ、パウロはそんなにグロテスクなことをいうのでしょうか。

 端的に言えば、パウロは自分たちの伝道を、十字架に向かって歩まれたイエス・キリストの苦難の道に重ね合わせているからです。なぜ、パウロたちの伝道活動がこんなにも困難を極めているのか、その理由は、イエス・キリストの伝道の生涯もまた困難を極めていたから…。そうです、パウロの伝道の目的は、イエス・キリストを人々に示すことでした。パウロは、自分たちの言葉だけでなく、その苦難に満ちた伝道活動そのものによって、イエス・キリスト自身を、イエス・キリストの香りを人々に示しているのだ、と言うのです。

 十字架へと向かうイエス・キリストの道程は、普通に見れば、死に向かう道程そのものです。しかし実際には、それはいのちへと至る道程でした。しかも、自分がいのちに至るだけでなく、他の多くの人をもいのちに至らせる道程でした。このことに、第一の手紙でも触れていました。1章23節から24節、

 「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。すなわち、ユダヤ人にはつまずかせるもの、異邦人には愚かなものですが、ユダヤ人であろうがギリシア人であろうが、召された者には、神の力、神の知恵であるキリストを宣べ伝えているのです」

 死に至る道が実は、いのちに至る道である、愚かに見えるが実は、神の知恵なのだという逆説的なイエス・キリストの十字架への歩み、その道程をこそ、わたしたちもイエス・キリストに従って繰り返している。それが、わたしたちの苦難に満ちた伝道活動の本当の意味だ、パウロはそう主張するのです。

 キリスト教が難しい、分かりにくいということの最大の原因が、ここにあると言えるかもしれません。わたしたちは強い者、美しい者、かっこいい者に憧れます。そういう人に付いて行きたい、自分もあやかりたいと思います。しかし、キリスト・イエスは弱い者、醜い者、カッコ悪い者になられたのです。英雄と言うよりアンチ・ヒーローです。いえ、アンチ・ヒーローですらなく、何の力もない、そこにいたことさえ記憶に残らない、いわば端役(はやく)です。しかし、そのような人が、その人の生き方こそが、わたしたちにいのちをもたらしました。それがイエス・キリストの生涯であり、キリスト教の中心、福音でした。

 わたしたちはこの逆説を、キリストのみ言葉だけでなく、キリストの苦難のご生涯を辿ることによって示しているのだ。それこそが、パウロの苦難の意味だと言っているのです。

 

■いのちへの道

 このようなパウロの十字架の歩みに対して、人々の反応は分かれます。苦難の生涯を歩まれたキリストについても、受け入れる人と拒絶した人がいたように、パウロたちの歩み、パウロたちを通して示されるキリストの歩み、キリストの香りについても、人々の反応は分かれます。ある人にとっては、それは死臭ぷんぷんの汚らわしい臭い、理解できないもの、目を背けたくなるものでしたが、ある人たちにとっては、それはいのちへと至る、かぐわしい香りなのです。ですから、パウロはこう書きます。

 「救いの道をたどる者にとっても、滅びの道をたどる者にとっても、わたしたちはキリストによって神に献げられる良い香りです」

 パウロの放つキリストの香りについての反応は割れますがしかし、神のみ前には、神にとっては、それはかぐわしい香りなのです。パウロはさらにこう言います。

 「滅びる者には死から死に至らせる香りであり、救われる者には命から命に至らせる香りです。このような務めにだれがふさわしいでしょうか」

 パウロの語ること、やっていることは、人にとっては、苦しみばかりの損な生き方、無意味な生き方、苦難ばかりか死にまだ至る破滅的な生き方ですが、キリストにあっては、それこそがいのちへの道なのです。

 そんなわたしたちの常識では測り知れない神のメッセージを伝える務め、その務めにふさわしいのは、一体どんな人たちか。パウロは、キリストの苦難の人生をなぞり、キリストの苦難の道に付き従うようにして歩んでいる自分たちこそ、その務め、いのちに至らせる務めにふさわしいのだ、そうではありませんかと問いかけるのです。

 

■苦しみ、弱さ、挫折ゆえに

 そしてパウロは、自分が献金をごまかしているといった批判に対して、絶対にそんなことをしていない、と叫ぶように訴えます。17節、

 「わたしたちは、多くの人々のように神の言葉を売り物にせず、誠実に、また神に属する者として、神の御前でキリストに結ばれて語っています」

 いつの時代も宗教を売り物のようにして、金儲けの手段に用いるような人がいるものです。もちろん、イエスさまも福音を宣べ伝える者がその働きから生活の支えを得るように定めておられます(Ⅰコリ9:14)。働きに見合った報酬を受け取ることが悪いのではありません。しかし報酬をもらうことだけが目的となってはいけません。どのような仕事であっても、です。

 パウロは、わたしたちは断じてそのような者ではない、わたしたちは真心から、神によって神の福音を語っている、そう強い口調で語っています。そうでなければ、どうしてこんなに苦難に満ちた、世間の常識で見れば、馬鹿々々しいほどの苦しみに耐えて福音を語ることができるだろうか、と。

 パウロにここまで自己弁護をさせてしまうとは何ともやりきれない思いもしますが、パウロは実に一途な人でした。と同時に、とても弱く、傷つきやすい人でもあったのだろうと思います。人の苦しみや弱さ、自分への批判に人一倍敏感だったのではないでしょうか。

 そのことを思いつつ、二人の方の言葉を紹介して、メッセージを閉じさせていただきます。

 詩人・永瀬清子が、挫折する人をめぐってこんなことを書いています。

 「挫折することのない人は信用できない。人は宿命として挫折によって『人間』を獲得する。

 心をこめた仕事であれば苦しみがなくて完成しようか。愛することを知るものが悩みなくてありえようか。

 よい事づくめの人は、心をこめていないか、より以上のものを求めていないか、人を押しのけていることを自覚しないか、つめたく他を見下げているか、である。

 大きな挫折をもった人ではじめて他の挫折を共感することができる。人間の最もふかい感情がそこから発している。流されぬ日蓮はなく、十字架にかからぬキリストはありえないのだ。」(『短章集 蝶のめいてい/流れる髪』)

 大きな挫折を経験した人だけが他者の挫折に共鳴する。そればかりか「人間の最もふかい感情がそこから発している」と彼女は言います。

 パウロはまさに、そのような人ではなかったでしょうか。

 もう一人、ドイツの神学者・イェルク・ツィンクの著書『私はどこに行くのか』の中に、こんな一節があります。

 「一切のものを所有する者が幸いだとは、イエスは仰せにならない。競争に打ち勝てとは、イエスは仰せにならない。順応する者が生きのびるとは、イエスは仰せにならない。出世すること、抜きん出ることそして、名をあげることこそ肝心だ、とは、イエスは仰せにならない。そうではなくて、イエスはつぎのように仰せになる。何のために生きるかを知るときこそ、あなたは幸いだ」

 勝つこと、思い通りにすること、なりたい者になること、それが人生の勝利のように思いがちですが、パウロも人に勝てとは言いませんでした。

 「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(ローマ12:21)

 そう言って、人と人が背き合い、苦しめ合う、そんな悪に負けるなと言っています。負けて、共に生きることを知ることこそが大切なのです。キリストの後ろ姿を見つめつつ、キリストのように生きる力を与えてくださるように、と共に主に祈りましょう。