≪式次第≫
前 奏 カンツォーネ (J.フレスコバルディ)
讃美歌 9 (1,3節)
招 詞 詩編103篇11~13節
信仰告白 使徒信条
讃美歌 149 (1,3,5節)
祈 祷
聖 書 マタイによる福音書15章21~28節 (新30p.)
讃美歌 77 (1,3節)
説 教 「恵みは十分」 沖村 裕史
祈 祷
献 金 65-2
主の祈り
報 告
讃美歌 533 (1,2節)
祝 祷
後 奏 カンツォーネ (J.フレスコバルディ)
≪説 教≫
■すがりつくように
ひとりの女がイエスさまに向かって叫びます。
「主よ、ダビデの子よ、わたしを憐れんでください。娘が悪霊にひどく苦しめられています」
この女はカナンの人であった、と記されています。旧約聖書を読むと分かりますが、このカナンという土地には前から住んでいる人たちがいました。そこヘ、後からユダヤ人が入り込んできました。ユダヤ人と異邦人との間には、深い溝、越えがたい隔てがありました。ユダヤ人は、自分たちこそ神に選ばれた民であり、自分たちだけが救いに与ることのできる民だと信じ、異教の神々を信じるカナン人を、穢れた罪人として忌み嫌い、蔑んでいました。当然のごとく、カナンの人々も、そんなユダヤ人を毛嫌いしていたはずです。
ところが、そんなユダヤ人のひとりであるイエスさまに、この女は、「ダビデの子」と呼びかけます。
「ダビデの子」、それは、「ユダヤ人の王」「救い主」を意味します。ユダヤ人が救い主と呼ぶのは、ユダヤ人だけを救う救い主のことです。周りにカナン人がいたかもしれません。彼女の口から飛び出したその言葉に、周りの人たちは驚き、あっけにとられたのではないでしょうか。なぜ、わざわざ敵対するユダヤ人の救い主の名によって救いを求めるのか。
理由はただひとつ。「娘が悪霊にひどく苦しめられてい」たからです。
彼女は、愛するわが子の苦しみを見るに耐えず、追い詰められ、切羽詰まっていました。自分のことなら何とか我慢もできましょう。しかし愛する娘のこととなれば、そうはいきません。娘の苦しみに、心奪われ、恥ずかしさも、恐れもありません。「ここに救いがある」。そう思ったら、すがりつかずにはおれません。必死の願いでした。
■神の願い
「しかし、イエスは何もお答えにならなかった」
イエスさまは、心の奥底から絞り出されるようなこの叫びに、何もお答えになりません。沈黙。いえ、無視です。
それでも、彼女は諦めません。さらに叫び続けます。痛みを伴うほどの切実な願い、必死の祈りです。
わたしたちも祈りの大切さを知っています。知ってはいても、これほどまでに、祈っているでしょうか。祈ったら、迷いがなくなるというのではありません。祈れば祈るほど、神の御心を尋ねれば、尋ねるほど分からなくなってしまうことさえあります。「神様、どうしてこんな現実があるのですか」。何度立ち直ろうとしても、挫折せざるを得ないほどの現実を抱え込み、心がねじ曲がってしまうほどの苦しみ、絶望の淵に立たされ、それでもなお祈り続け、神の御心を尋ね続けます。
わたしの願いに神を従わせようというのではありません。神の御心に、わたしが応えようと懸命に祈り願います。そこに、真実の、信仰ゆえの、ひたむきな祈りが生まれます。そしてそれこそが、御利益宗教と聖書の教える信仰との決定的な違いです。イエスさまの沈黙は、そのことを教えようとしているのではないでしょうか。
ところが、叫びながら執拗について来る女にたまりかねた弟子たちは、「この女を追い払ってください。叫びながらついて来ますので」と願います。
見知らぬ女に同情したのかどうか、よく分かりません。ただ、イエスさまのあまりに冷たい態度に戸惑い、疑問を抱いたのかもしれません。まとわりつく女にイラつきながら言います、「イエスさま、この女の願いを早く叶えてやって、立ち去るようにしてください。願いさえ叶えば、もう叫んでつきまとって来ることもないでしょう」と。
弟子たちは、女の願いさえ叶えられれば、と思っています。神の願い、神の御心のことなど全く考えていません。
その弟子たちに、イエスさまは言われます。
「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」
「イスラエルの家」とは、神に選ばれた民、ユダヤ人のことです。その「失われた羊」とは、神の民に属しながら、神の救いから洩れた、救いの外にいると思われていた人々、自分でも神から見放されたと思っていた人々、「罪人」「汚れた者」と呼ばれていた人々のことです。いえ、もしかすると、イスラエルの民全体がすでに神から失われた存在になってしまっている、そう思っておられたかもしれません。
その「失われた民」を呼び戻すために、わたしは来た。それこそが、わたしを遣わされた神の願い、神の御心であった。だからわたしは、そのことのために、すべてを捧げ、仕えるのだ。そして、あなたたちもまた…。
イエスさまは今、十二弟子を派遣される時に語られた、「異邦人の道に行ってはならない。…むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところへ行きなさい」(10:5-6)という伝道命令を繰り返すように、神の願いを、神の御心による福音宣教の使命を、弟子たちに教えておられるのです。
しかし、弟子たちは悟らず、イスラエルの民も耳を傾けません。であればこそ、ますますイエスさまの心は、ただひたすらにイスラエルの家へ、弟子たちへと向けられます。
■三度の拒絶
とはいえ、何とも冷たい言葉です。
この言葉は彼女の耳にも入っていたはずです。わたしたちが考える、イエスさまの愛の姿とかけ離れているように思われるこの言葉を、彼女はどう聞いたでしょうか。
「あなたはカナン人。救いから除外されているのだから、わたしに願っても無駄です」と聞こえたのではないでしょうか。彼女は腹を立て、「あなたは、神の愛を説いておられると聞きました。そのあなたでも、ユダヤ人の差別と偏見、蔑みとエゴイズムを乗り越えることがおできにならないのですか」、そう言って、立ち去ってもよかったはずです。
しかしそこでなお、彼女は踏みとどまります。
情景が思い浮んでくるようです。弟子とイエスさまとが話をしている、その間にすっと入るように近寄り、御前にひれ伏します。そして、
「主よ、わたしをお助けください」
「お助けください」というこの言葉は、「人の悲鳴を聞いて駆けつける」という意味の言葉です。
「イエスさま、わたしの娘が苦しんでいます。あなたにその悲鳴が聞こえますか。失われた羊は、ユダヤ人だけなのでしょうか。娘もわたしも神に見捨てられ、今、悩みと苦しみのどん底にあります。わたしには、あなたのところ以外に行く所などありません。どんなに蔑まれても、どこへ行くこともできません」
切々と訴えられたイエスさまは、振り向かれます。しかしイエスさまは、ここでも、神の御心、使命に基づく、厳しい言葉を繰り返されます。
「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」
マルコでは、この言葉の前に「まず、子供たちに十分食べさせなければならない」という言葉が置かれていました。パンが余れば、小犬に与えられることもありうるということでしょう。しかしマタイはこの句は削ります。「子供たちのパンを取って小犬にやってはいけない」、あなたたち小犬のことにかまけてなどいられない、それが神の御心だ、ということです。
三度目の拒絶です。
「何もお答えにならなかった」、「わたしは、イスラエルの家の失われた羊のところにしか遣わされていない」、そして、この言葉です。
彼女は、三度も、イエスさまに拒絶されました。三度、その祈りは聞き入れられなかったのです。神はおられるのです。それも実に立派な愛の神です。ところが、その神が全く沈黙しているばかりか、あなたとわたしは何の関係もない、と顔を背けられます。やっとのことで振り向いてくださったと思ったら、「子供たちのパンを取って、小犬にやってはいけない」などと言われる。期待が大きいだけに、絶望は深まるばかりです。それなら仕方がない、と絶望と滅びの中に開き直るしかないはずです。
■溢れ出る愛
しかし、しかしここで、どんでん返しが起こります。
「主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです」
彼女は、「お言葉通りです」とイエスさまの言葉を受け入れます。イエスさまの福音宣教の使命は、ゆるぎない神の御心です。おっしゃる通りです、と。
ある人がこの時の彼女の思いをこう読み解いています。
あなたは、わたしの主です。そのあなたが語られたこともその通りです。でも今、あなたは「小犬」と言われました。たぶん、家で飼われている小犬のことでしょう。その小犬のことをあなたの子どもがかわいがっているかもしれません。とすれば、その子どもが食べた後の余り物で、小犬は養われるはずです。もちろん、小犬のことまで計算に入れて、あなたが子どものために余分に食事のことを用意されることはないでしょう。あなたがユダヤ人の救いのために力を注ぐ。それは当然のことです。それでも、そこから溢れ出るあなたの愛、ユダヤの人々に注がれるあなたの恵みは、そのイスラエルの枠をさらに超えて、溢れ出てはこないでしょうか。神の民の外にいて苦しんでいるわたしは、その恵みのおこぼれに与ることさえ許されないのでしょうか。わたしは信じています。あなたはそんなお方ではありません。主よ、ごもっともです。しかし、小犬も主人の食卓から落ちるパン屑はいただくのです。
彼女は、イエスさまを通して与えられる神の愛は溢れ出るほどで、神の恵みは十分、有り余るほどに十分だ、と固く信じています。だからこそ、彼女はここで、三度も、「主よ、主よ、主よ」とイエスさまに訴えかけるのです。
そしてついに、イエスさまもこの彼女の訴えにお応えになります。
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」
この瞬間、遠く離れたところにいた娘の病気が癒されました。
■変えられる
「婦人よ、あなたの信仰は立派だ。あなたの願いどおりになるように」
「あなたの信仰は立派だ」の「信仰」と訳されているギリシア語は、ピスティスです。辞書には、まず何よりも「信頼を呼び起こすもの」とあるように、それは、「信仰」というよりも、人を納得させずにはおかない、「ひたむきさ、必死さ、誠実さ」を意味する言葉です。「立派だ」も直訳すれば「とても大きい」です。つまり、「あなたのとても大きなひたむきさ、必死さが、真実を、信頼を呼び起こしたのだ」ということです。
彼女は必死になって助けを求め続けました。そのしつこいほどのひたむきさが、イエスさまに真実を、信頼を呼び起こしました。イエスさまはまるで降参でもされるかのように、「婦人よ、あなたの信仰は立派だ」と言って、娘の病気を癒されました。カナンの女の大きな祈りによって、イエスさまご自身が変えられ、動かされたのです。
名もない異邦人の女性との出会いによって、ご自分の宣教方針をもっと豊かな方向、愛情深い方向に変えて行かれたのです。偉大な人に出会って影響を受けたというのではありません。全く弱い、力のない人との出会いによって、イエスさまの方針は変わってしまったのです。それを神の御心と受け止め、真のメシア、救い主としての使命を自覚され、十字架へと向かって行かれました。
中国の作家、魯迅の短編「小さな事件」という作品を思い出します。実際に体験した小さな事件を回想するような作品です。
魯迅は、北京の町で暮らすうち、日増しに人間不信を募らせていました。そんなある夜、彼が一台の人力車に乗って走り出したところ、突然、車のかじ棒に一人の人間が跳ね飛ばされて、よたよたと倒れました。倒れたのは、ぼろぼろの着物をまとった老婆でした。魯迅は車夫に、誰も見てないし、かまわずさっさと行ったらいいと命じますが、その車夫は車を放り出したまま、その老婆を抱き起こし、支えながら、ゆっくり巡査のいる派出所の前へ行き始めた、というのです。その時のことを、魯迅はこう述懐しています。
「わたしはこの時、突然、一種異様な感覚を感じた。彼の全身ほこりまみれの後姿が、一瞬にして大きく、堂々たるものに思われたのだ。しかもそれは、次第に向こうに行くにつれて大きなものになり、仰ぎ見なければ見ることもできなかった」
そしてこう結びます。
「この一つの小さな事件だけは、どうしてもわたしの目の前に浮かび、時としてひときわはっきりとした形になって、わたしを恥じ入らせ、わたしに自分を改めるように催促し、そして勇気と希望を与えてくれる」
差別的なまなざしをもって見下していた存在が、その必死さ、誠実さ、ひたむきさのゆえに、仰ぎ見なければならないほど偉大な存在、大きな存在として立ち現れてくる。実にその瞬間こそ、神の国に、神の御心に触れる瞬間なのでしょう。そして、その瞬間に触れたとき、わたしたちもまた、この世的な枠、垣根の中に閉じこもり、エゴに固執する愚かな自らの姿を、ただ深く恥じ入り、回心し、そして新しい勇気と希望を与えられることでしょう。
祈ります。主よ、わたしたちの悩み苦しみを取り去ってください。いえ、あるがままにその悩み苦しみをあなたに向かって突き出しながら、祈り続ける信仰を持たせてください。溢れ出るあなたの愛と恵みにあずからせてくださいます。その愛と恵みに触れて、わたしたちが変えられ、あらゆる区別と差別、偏見と抑圧から自由になることができますように。主のみ名によって。アーメン