福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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8月3日 ≪聖霊降臨節第9主日/平和聖日/平和「家族」礼拝①≫『喜びと希望に満たされて』ローマの信徒への手紙15章 7~13節 沖村 裕史 牧師

8月3日 ≪聖霊降臨節第9主日/平和聖日/平和「家族」礼拝①≫『喜びと希望に満たされて』ローマの信徒への手紙15章 7~13節 沖村 裕史 牧師

メッセージ

■もう、せんさうは せずに

 平和聖日の今日、最初に、80年前の8月6日、ヒロシマにいた岸本光弘君という小学生が書き残してくれた「地の鹽(しお)にかわるもの」と題された手記をご紹介させていただきます。

 

 昭和二十年八月六日、朝、ぼくは いつものように 学校へいつた。まだ授業が始まるのに間があつたので、うんどうぢようで あそんでいると、とつぜん、ピカツと光つて、あたりが見えなくなつて、からだが 火の中に はいつたように あつくなつた。ぼくはびつくりして、むいしきに 走つた。校門のところへきたとき 急に ぐわらぐわら といふ音が 聞えたかと思うと、学校のこわれた はへんが、おかまいなしに とんできた。そのとき、学校にとまつていた へいたいさんが、「ぼうや、ふせつ!」といつたので、ぼくはそのまま、ぢべたへ はらばいに ふせた。少したつて、やつと頭をあげて見ると、あたりは もうもうと さじんがあがつて、夜のように まつくらだつた。それでも、ぼくは、たちあがつて はしつた。門の外へ出ると、少し さじんがおさまつて、ぼんやりながら その時の光景を見ることができた。今の今まで、がつしりと たつていた学校は、屋根がゆがみ、戸はたおれ、かべははげ、様子はすつかり かわつていた。それだけではない。泣き叫ぶ声、助けを呼ぶ声、それはちようど、じごくの えまきもの のようだつた。ぼくも なきながら、むちゆうで走った。学校をやつと とほざかつたころ、もう一ぺん たちどまつて 学校をみた。そして、いっしよに あそんでいた ともだちのことなぞを 考えていると、そばにいた 人たちが、「あれ、あれ、」と、空をゆびさした。ぼくも その方を見ると、ものすごい いきおいで、空へむかつて、けむりのような、くものような ものが、むくむく たちのぼつていた。ふと きがつくと、うでに なにか ぶらさがつていた。なんだろうと、よく見ると、手の半分が、ぜんぶ、むらさきに にた 色になつて、ぶくぶく きみわるく、ふくれあがつて、むけていた。足も さうだつた。両足の 中がわが、ぜんぶ ふくれていた。だが、その時は あまりきにかけなかつた。それから、ぼくは 下駄が かた方しか ないことにも きがついた。だが、そんなことに かまわず、もう一ぺん 走つた。今考えて見ると、あのとき かたほう はだしのまま、がらすが 一めんに 落ちている上を 走つたのに、一つも 足に きずが ついていないのが、ふしぎなくらいだ。

 とにかく、ぼくは 一生けんめいに はしつた。うちの 近くへくると、見おぼえのあるような 女の子がいた。見ると 妹だつた。妹のかおが ふくれていたので、まちがえていたのだつた。うちも、門の中へは 一歩も はいれないほど、ものがおちていた。ぼくは おかあさんをよんだが、はじめは へんじがなかった。だが二度目には、はつきり へんじがあつた。そして がたがた げんかんに 出てこられたが、だが すぐあとへ ひきかえして、くすりと、ほうたいを たくさんもつてきて、妹とぼくに、くすりをぬつて、ほうたいを してくださつた。それから、ぼうくうごうに おんぶしてもらつて いつた。時間がたつごとに、うでから 血がふきだしている人や、顔が ぶくぶく ふくれあがつている人たちが、あつまつてきた。やがて、夕方、お母さんと、妹とぼくと三人だけ、ぼうくうごうに いたとき、戸口から、きうに、人間とは 思えないものが、にゆつと はいつてきた。ぼくは、ぎくつと したが、やがて、それが、へいたいさんだ ということが わかつた。

 それから、何か月もくるしんで、やつと、車にのせてもらつて、外へ でて見ると、むかしは、きれいで 水のみやこ とよばれた廣島も、いまは やけのはら とかわつていた、ぼくは、日本が、もう、せんさうは せずに、あんな ひさんなことが、なくなればよい と思う。

(『天よりの大いなる声―廣島原爆体験記』1949年)

 

■良心の咎(とが)

 この少年の思いは、多くの人々の思いでもありました。

 当時、広島流川教会の牧師をしていた谷本清が、そのときの様子を『ヒロシマの十字架を抱いて NO MORE HIROSHIMAS』という本に書き残しています。

 原子爆弾が落とされた朝、谷本は近所の娘の花嫁道具を届けるために、市西北部の山合い、己斐にいました。音のない光とすさまじい爆風の後、広島の街が黒い煙と炎に包まれるのを見て、谷本は牧師館のあった幟町(のぼりまち)へ向かって街中を走ります。

 この後、谷本は奇跡的に助かった家族と会うことになります。しかし、自分の家族の安否を確かめるために向かったその途中、瓦礫(がれき)の中から助けを求める人たちを見殺しにしてしまったという思い、それを谷本は「良心の咎」と書いていますが、その拭うことのできない深い罪意識から、彼はこれ以降、自分の身体(からだ)も、自分の家族さえも顧みず、被爆をした人たちを救うために、そして二度とこの悲惨な戦争をすることのないよう、本当の平和をつくり出すために、ただひたすら献身的に働き続けることになります。

 8月6日のその日も、谷本は、迫り来る火災から生き残った人々を守るために、縮景園(しゅくけいえん)から対岸の牛田(うした)へと彼らを小舟で懸命に運び出し続けました。

……

 もうかれこれ真夜中であろう。私はすつかり疲れて動けなくなつてしまつた。負傷者はまだ水を欲しがつたが、此れ以上行動することが出来なくなつたので私は負傷者の間に寝転んだ。空は白くどんよりとよどんでいた。すぐ近くに臥せつていた先程の女学生は、ぶるぶる震えながら水を欲しがつた。奇妙な事に火傷(やけど)した人は皆寒がる。

 「お母さん寒いよ、お母さん寒いよ」

と泣きながら母を叫び求めている。彼女たちは田舎の女学校から勤労奉仕に動員され、疎開家屋の取壊しを手伝つている時罹災し、火傷して此処まで逃げてきたのだつた。私の隣りに住んでいた満井夫人は、防空壕から携えた毛布を彼女らに貸し与えた。彼女らはそれを頭から被つて、ガタガタ震えながら夜通し母の名を呼び続けていた。

 夏だのに全身冷え切って眠れない。昼間渡河作業中度々水中に落ちていまだにぬれているのだ。頭は益々さえて来る。まだ遠くの方で時々爆発が聞こえる。周囲は静かだ。不思議なほど静かだ。翌朝私は、私のすぐ近くにいた田中氏も桑原氏も二人の女学生も、皆息を引き取つているのを発見した。昨夜一晩中私は一睡もしなかつたのに彼らがもがきうめく声を聞かなかつた。勿論彼らは苦しかつたに違いない。…原子爆弾は怖るべき武器だつた。然し戦争を一層悲惨にしたのは人間の闘争心だ。かかる前代未聞の大爆撃を受けたにも関わらず広島の人々は参つたとは言わなかつた。否、犠牲が大きければ大きい程、徹底的復讐を誓つたのだ。ここに戦争の迷妄があり救い難い残忍がある。私は土手から川の水面に眼を移して驚いた。川全面に海水が満ちて、砂地はどこにも見当らなかつたからである。昨夜苦心して援け出した十数名の人々は、砂の上に臥せつて動けなかつたが、私はそこが安全地帯と思つていたのに―今水面には屍(しかばね)が幾つも幾つも浮いて流れている。

……

 そして終戦、敗戦を告げる放送を聞いた後、谷本はこう書き記します。

……

 夜の帳(とば)りは一層私共の心の闇を暗くした。あれほどの犠牲を甘受したこの一戦に破れた悲みは胸をえぐり引き絞る。最早や立働く気力もない。多くの男女が所謂「虚脱状態」に陥つたのも当然だつた。然しその後新聞紙上で、天皇が何故終戦の勅語を発布されるようになつたかの経緯が明らかにされるにつれ、私共は生きる望を見出した。天皇はこれ以上臣民の戦禍に苦しむのを見るに忍びず、臣民と世界の人類を戦争の惨禍から救うため、

 「忍び難きを忍び、耐え難きを耐え」

 四カ国の申込を受諾したのであつた。

 広島の犠牲は、

 「万世に大和を招(ママ)く」

 基(もとい)となったのである。

 広島の悲劇は我が国をして永遠に戦争を放棄して平和国家の建設に献身せしめるに至つたのである。新しい希望に再起の勇気を回復し得た私共の心中に、今や去来するものは世界平和への悲願と、良心の咎(ギルティコンチエンス)である。それは広島生存者の有する永遠的課題ででもあろう。

……

 今日ご紹介した、言葉では到底言い表すことのできないほどの戦争の酷さと悲惨さによって絶望の底へと落とされたこの二人は、しかし憎しみが憎しみを生み、暴力が暴力を生み、偽りが偽りを生み出すことを味わい尽くし、だからこそ、二度と同じことを繰返してはならないと、絶望を希望に変えて、平和のために戦争の記憶を語り伝えようとしています。

 

■喜びと希望に満たされて

 わたしたちを取り巻く現実の姿は、そんな懸命な働きかけや願いにもかかわらず、今も、暴力と争い、偏見と差別、欲望と不正に支配されているかのようです。

 それでもなお、ユダヤ人と異邦人が対立して相争うローマの教会の人々に、パウロが一言一句を刻むようにして語ってきた、その「本文」の締め括りとして綴られる今日のみ言葉から学ぶべきは、次の二つのことです。

 一つは、結局のところ、わたしたちの願う和解の喜びと平和に満ち溢れる社会への道筋というものは、制度やシステムではなく、わたしたちの心の中にあるのだということです。もちろん、制度やシステムが無意味なのではありません。しかしそのことで、問題がすべて解決することはありません。わたしたちは、何よりもわたしたちの心の中にある問題—独りよがりな欲望と過信、その結果としての絶望と向き合わなければなりません。

 そしてもう一つは、そのような望みなき状況にあってもなお、わたしたちを導かれる希望の神の恵みのことです。イエス・キリストがわたしたちのために何をしてくださったか、今、何をしてくださっているか、をよく知ることです。愚かなわたしたちを、イエスさまが受け容れていてくださっています。イエスさまとわたしたちとの間に信頼関係のモヤモヤなどはありません。イエスさまが、わたしたちすべての者を信頼してくださっているのです。異邦人とユダヤ人の隔てと対立を乗り越えて一つとするために、信頼に足るわたしたちへと造り変えてくださっているのです。

 その信仰の中に立って、もう一度、わたしたちが神の真実に立ち返る。そして、神の真実に根ざす大きな救いの計画の中に、わたしたちが招かれていることに気づかされる。すべての人、一人ひとりが、そこに招かれ、その中に立っています。

 そんなわたしたちの身近に、今も、戦争への誘惑と危機が現実のものとして迫り来つつあります。

 2022年12月に閣議決定されたいわゆる安全保障三文書に基づき、2024年4月以降、民間の空港・港湾が軍事において円滑に利用できるよう「特定利用空港・港湾」として11空港・25港湾が指定され、その内の9空港・11港湾は沖縄・九州にあります。さらには2025年3月、政府は有事に際して沖縄県・八重山諸島の住民と観光客を九州・山口各県に避難させる計画を公表しました。琉球新報は、これを「沖縄の戦場化を前提とした計画は受け入れられない」と報じました。

 確かに、平和のためのわたしたちの働きは小さく、平和への道のりも遠いでしょう。その計画半ばにして、わたしたちは死んでしまうかもしれません。しかし、それは挫折ではありません。なぜなら、神が必ず完成してくださるからです。わたしたちはただ、その神のみ業の一端を担うだけです。

 しかしそのことは、何とも大きな、満ち足りた、喜びをもたらす望みでしょうか。

 8月6日を、そして8月9日を迎えるこの新しい週、パウロのように怯むことなく、希望の神を讃美し、主にあっての和解と平和を祈り求め続けたい、そう心から願う次第です。

 

 主に感謝して、祈ります。