≪説教≫
■いちじくの木から
「いちじくの木から教えを学びなさい」
「教え」という言葉は、「譬え」と訳すべき言葉です。ただ、これが何を譬えているのかはっきりとしないので、新共同訳聖書はこれを「教え」と意訳しています。「いちじくの木から譬えを学びなさい」。いちじくの木を譬えとして、そこから学びなさい。「終わりの時」について語り続ける中、イエスさまが今、改めてそう語り始められます。
いちじくの木は、当時のパレスチナではごくありふれた、どこにでもある木でした。その意味で申し上げれば、ルカによる福音書に「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい」(21:29)とあるように、わたしたちの身近にある木を、例えば、桜の木を思い浮かべてもよいのかも知れません。
考えてみれば、桜というのはとても面白い木です。花が咲いている時、花見の頃には、葉は一枚もありません。緑が全くない枝に、あの淡い桃色の花が一面に咲き誇ります。そしてその花が散ると、瞬く間に緑の葉が茂り、いわゆる葉桜になります。その葉が秋になると散り、冬場は枝だけの冬枯れの姿になります。そのように木の様が劇的に変わっていくことに、わたしたちは四季折々の風情を感じます。
イエスさまもここで、いちじくの木の様子が季節によって変わっていく様を思い浮かべておられるのでしょう。それを譬えとして学びなさいとは、移り変わっていくその木の姿から、今がどのような時なのかを知れ、ということでしょう。32節の続き、
「枝が柔らかくなり、葉が伸びると、夏の近いことが分かる」
この「枝」は、「若芽」とも「冬芽」とも訳すことのできる言葉です。直前19節から20節に、「それらの日には、身重の女と乳飲み子を持つ女は不幸だ。 逃げるのが冬や安息日にならないように、祈りなさい」とありました。
時は冬です。苦しみがその冬に起こらないように祈りなさい、とイエスさまは言われます。ユダヤの冬は雨の季節です。冷たい雨が降れば、心細く、勇気も失せます。そんな寒い雨の季節にこそ、わたしたちは春を待ち、夏を待ち望みます。ユダヤの春はとても短く、ある書物によれば、春はたったひと晩、一夜が過ぎると、もう春ではなく夏になっているほどに春は短い、と書いてあります。
あっという間に春を通り越して、夏が近づいたことがわかる。冬の到来に備えて若い芽が吹き出て、緑の葉が幹を隠すように茂ると、夏の到来が、いちじくの木が実る時の近いことが分かる。桜にあてはめれば、葉桜を見れば、もうじき夏が来ることが分かるのだ、ということです。
■終わりの時は「今」
だから、いちじくの葉から夏の接近を知るように、「これらすべてのこと」を見たら、「人の子が戸口に近づいている」ことを悟りなさい、と言われます。
「これらすべてのことが起こるのを見たら」の「これらすべてのこと」とは何でしょうか。直前5節以下に記されていたことです。戦争やそのうわさ、民と民、国と国の敵対、地震や飢饉などの天変地異、また信仰のゆえの迫害、あるいは偽の救い主の出現といった、様々な苦しみのことです。人の子がもう一度来られる前には、そのような苦しみが起る。それが次第に頂点に達していき、天地創造の初めから今までなく、今後も決してないほどの苦難が襲って来る。そのことです。
しかし、ここで注意しなければなりません。「これらのことが起こるのを見たら」とは、「将来」そのような苦難が襲って来たら、ということではありません。この福音書が書かれ、読まれた当時の教会の信徒たちはすでに、これらの苦しみの中にいました。「これらすべてのこと」が、彼らにとって将来のことではなく、「今」直面し体験していることでした。そしてわたしたちもまた、彼らとは違った仕方で、やはり「今」直面し、体験していることです。ウクライナを始め、戦争やそのうわさは今も絶えることがありません。民は民に、国は国に敵対するような事態もまた、わたしたちの周囲に多々起こっています。大きな地震や津波によって、ある日突然、すべてを失うということも起こっていますし、「同調圧力」や「忖度」や「炎上」など、自由にものを言うことが憚られるようなムードが強くなっています。香港やミャンマーでは現実、多くの市民が自由を奪われ、迫害を受けています。
「終わりの時」、「人の子が戸口に近づいている」ことを悟るべき時は、いつかではなく、「今」なのです。教会の歴史の中には、旧統一協会やモルモン教のように、何年何月何日にこの世が終わると言う人が繰り返し現れました。しかし初代教会以来、わたしたちはいつも、「人の子が戸口に近づいている」ことを、つまりこの世の終わりが、神の国―神による救いの完成が、すでに始まっていることを意識しながら歩んできました。
「人の子が戸口に近づいている」という言葉は、その戸口に立っているイエスさまご自身を指し示す言葉です。イエスさまが再び、扉を開いて入って来られたなら、地上に恐るべき破滅がもたらされ、もはや人の力では如何ともしがたい、まるで闇の中にいるようなわたしたちの現実に、この世界に、パッと光が差し込むようにして、神の救いが満ち溢れるのです。夏を迎えたいちじくの木が実を豊かに稔らせるように、です。そのときに備えて、「今」を生きなさい、イエスさまはそう教えられます。
■今日、リンゴの木の苗を植える
では、どのように生きることが、世の終りに備えて生きることになるのか。マルティン・ルターが語ったとされる印象的な言葉があります。
「たとえ明日この世が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木の苗を植える」
ルターの言葉には、この世の終わりを視野に入れた歴史的感覚が語られています。歴史的感覚を持つとは、過去を振り返ることによって、今の時代の意味を捉え、将来への展望を、希望を持って、今、自分がなすべきことを見定め、実行していくことです。つまり、「わたしは今日、リンゴの木の苗を植える」ということに示されているように、「今」をしっかりと生きるということです。
とはいえ、この世の終わり、終末を見つめつつ、なお刹那的な生き方に陥らずに、将来への展望と希望を持ちつつ、今をしっかりと生きるということは、決して容易なことではありません。この世の終わりとは、この世のすべてが滅びる時です。わたしたちのこの世における営みが、無に帰する時です。そういう滅びや喪失、崩壊に直面する時、わたしたちは希望を失います。そして、この世における労苦は結局無駄なのではないか、一生懸命に生きても、結局は空しいのではないかという思いに捕われて、今ここに与えられ、生かされて生きている現実の生活に対する、歴史に対する責任を放棄してしまい、刹那的な生き方に陥ってしまうことになりがちです。
それは、この世の終わり、終末を見つめる時だけのことではありません。わたしたちの人生の終わりである「死」を見つめる時にも、同じことが起ります。死は、わたしたちの人生の終末であり、この世において自分が持っているすべてのものを失う時であり、この世における自分の営みが無に帰することです。そういう死が、だれにも必ず訪れますし、人生はその死に向かって確実に近づいていきます。死は、わたしたちに「終わり」があることを意識させます。わたしたちの人生が、閉じられた円の上をぐるぐるといつまでも回っているのではなく、始めがあり、終わりがあるのだということを、死が教えてくれます。
つまり死は、わたしたちの人生に終わりがあることを見つめさせることを通して、この世の終わり、終末を、わたしたちに見つめさせてくれるのです。この世の終わりが、わたしたちの人生において先取りされるのが死である、と言うことができるのかもしれません。その死を正面から見つめる時、わたしたちはやはり空しさに捕えられ、刹那的になっていくし、そうならないためには、明白な事実である死をできるだけ見ないように、それには触れないように蓋をして、ごまかして生きている、それがわたしたちの現実ではないでしょうか。
であればこそ、「たとえ明日この世が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木の苗を植える」とのルターの言葉が深く心に響きます。それは言い換えれば、「明日死ぬことが確実に分かっているとしても、わたしは今日も、自分のいつもの仕事をする」ということです。このように、終わりを、死を、正面から見つめつつ、それによって動じることなく、刹那的にならずに、今をしっかりと生きていくという生き方は、いったい、どこから生まれるのでしょうか。
■決して滅びないもの
もう一度思い起こしていただきたいことがあります。
イエスさまが、この終わりの時を、「夏の実りの時期」と重ね合わせておられる点です。わたしたちは終わりの時と聞けば、悲劇的な破局の時を想定します。その点ではむしろ、「葉っぱがしおれてボトボトと落ち始めたら冬が来るのがわかる」と言った方がしっくりきます。しかし、イエスさまは、実りの季節である夏を待ちこがれるような言い方で、終わりのときを語られます。
イエスさまが、ベタニア村からエルサレムに上る途中、実らぬいちじくに腹を立てて枯らしてしまった出来事(21:18-22)が思い出されます。あの時、イエスさまは空腹のどん底にありました。ベタニア村という、ハンセン病患者の隔離村、貧困にあえぐ村に滞在しておられたイエスさまは、きっと何も食べていなかったに違いありません。貧しい人たちと共に生きようとし、その悩みや屈辱、その希望を共に分かち合おうとされたイエスさまはきっと、いつも、いちじくの実りの季節を待ち焦がれていたはずです。道端に生えるいちじくは、その枝に実をつけるとき、貧しい人々や寄る辺のない旅人に喜びを与えたに違いありません。
終末とはそのようなもの。そんな終わりの時を、一緒に待ち望もう。そんなイエスさまの思いを、感じられないでしょうか。暗澹たる時代の中、当時のユダヤには空恐ろしい終末の予言が横行し、律法学者やユダヤの人々は緊張感の中で己が身を守り、自分の救いを確保することだけに汲々としていました。そんな中で、イエスさまが抱かれた終末の希望は、貧しい人々の中からわき上がってくる、本当に純粋ないのちへの希望でした。それこそが35節の言葉でした。
「天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない」
日々を生きながら、わたしたちは心のどこかで、いつも、死を、終わりの時を意識しています。事実、つい2週間前に、敬愛するひとりの姉妹を天に送りました。つい先日まで、親しいお交わりのあった方です。
だからこそ、イエスさまははっきりと宣言されます。わたしたち人間を含め「天地は滅びる」のです。でもそれだけで終わらない。もう一つ、決して忘れてはならない現実がある。それが「わたしの言葉は決して滅びない」ということです。滅びない、確かなものが残されている。それが「わたしの言葉」、み言葉の約束、み言葉に裏付けられた現実、それが、わたしたち神を信じる者が拠って立つ、滅びを突き抜ける希望です。
「わたしたちにも祈ることを教えてください」と求める弟子たちに対してイエスさまは、「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えてくださいました。そしてその時、「どうぞ、そうした日、世の終わりが来ませんように」ではなく、心から「御国が来ますように」と祈るようにと教えてくださっています。「御国が来ますように」と、神の国の完成を祈ることができるのは、「人の子」が来られる再臨の日、終わりの日に、イエス・キリストにあって世界は真の喜びに満たされる、わたしたち一人ひとりもキリストに似た者として完成される、という約束の言葉をいただいているからです。だからこそ、ルターが言うように「たとえ明日この世が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木の苗を植える」歩みを続けることができるのです。
わたしたちはボーっとしていると、天地が滅びること、死だけに心が向いてしまい、恐ろしさのあまり、「どうぞ、そうした日が来ませんように」としか祈れなくなります。他でもない、そうしたわたしたちを滅びから守り、本当の意味で意義ある生涯を送れるようにと、イエスさまはみ言葉を語り続けてくださいます。滅びを恐れるのではなく、むしろ、心を高く上げて、「御国が来ますように」と祈り、神様から与えられたこの日々に、「たとえ明日この世が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木の苗を植える」歩みを続けることができるように、そのためにこそ、イエスさまは、決して滅びることのない、わたしたちを生かすみ言葉を語り続けてくださるのです。
ですから、わたしたちは、それに耳を傾け続けていくことが大切なのです。そしてそのことが、その日がいつ来ようとも、備えができることにつながるのです。終わりの日の徴を見たなら、だれもが怖くなるものです。しかし、先に天に召された方々はもとよりのこと、信仰を持っているわたしたちは違います。なぜなら、近づいて来られるお方が「人の子」、イエス・キリストだからです。イエスさまが言われるように、今を生きるわたしたちも「世の終わり/終末」に生きています。天地は滅びるでしょう。しかし、イエスさまの希望の言葉、福音の言葉は滅びません。終わりの日は完成の日、喜びの日だからです。
今週もわたしたちは、ルターと共に「たとえ明日この世が終わるとしても、わたしは今日、リンゴの木の苗を植える」と告白しながら生きることが許されているのです。感謝です。