福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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7月21日 ≪聖霊降臨節第10主日礼拝/講壇交換≫『ゆだねられたもの』 テモテへの手紙二 1章 3~14節 茶屋 明郎 牧師(若松教会)

7月21日 ≪聖霊降臨節第10主日礼拝/講壇交換≫『ゆだねられたもの』 テモテへの手紙二 1章 3~14節 茶屋 明郎 牧師(若松教会)

 

 今、後継者の問題がいたるところの分野において、例えば会社や農家などあらゆるところにおいて後継ぎがいない、事業を引き継ぐふさわしい人がなかなか見つからないという問題があり、人手不足が拍車をかけて、事業を止めざるをえないという深刻な課題が生まれています。

 教会やキリスト教も例外ではなく、牧師になる人が少なくなり、教会員の減少が拍車をかけて、無牧の、専任の牧師を招聘できない教会が増えていて、教会・伝道所が130近く所属している九州教区においても、30近くの教会・伝道所が無牧になっているという深刻な状況があります。

 

 パウロも、この後継者の課題に直面させられていることを本日の箇所において書いています。つまり、この時、パウロは、老齢になり、そして、捕らえられて牢屋に入れられ、死刑が執行されるのではないかという危機に直面しています。

 パウロの想いには、そんなに長くは、福音の宣教は続けられなくなるのではないか、そうなったら、福音が途絶えてしまうのではないかという不安があり、そしてその不安に拍車をかけているのが、後継者として期待している、弟子テモテに対して感じている一抹の不安や懸念でした。

 その一抹の不安や懸念を感じるのはテモテの信仰であり、最初のころの、燃えて、生き生きとして、積極的になって、福音宣教に邁進し、力強く生きている信仰が消え、燃え尽き症候群みたいになり、弱くなり、生ぬるく、熱くも弱くもなく、何か中途半端な、後ろ向きな、消極的な姿を感じさせているテモテの姿があったからであり、その姿に不安を感じて、テモテを励まし、再び燃える思いが生まれるようになり、福音の宣教が途絶えることがないようにという切迫した想いをパウロは伝えようとしています。

 このテモテの姿に信仰の難しさが現されており、最初の救われた喜びや感謝そして希望を保ち続けていくのは本当に難しく、さまざまな苦難や試練などが誘惑となり、日々祈り、聖書に聞き入り、神のみ言葉を聞くという基本的な信仰者としての行為を続けていくことが困難になることが示さていて、この試練や誘惑は、私たちにおいてもよく起こりうることではないかと思います。

 

 テモテが直面していたのは、恥ずかしいという想いを強く感じていることでした。彼は福音宣教に従事することを恥ずかしく感じるようになって、それが誘惑となって、信仰が弱くなっていたということです。

 恥という感情は、私たちの生き方や行動規範に大きな影響を与えます。恥を感じなければ、例えば、「赤信号みんなで渡れば、怖くない」みたいな、みんなもやっていることだからと思えば、悪いことでも平気で行えたり、反対に、素晴らしく、善いと思われることでも、自分一人だけしか理解しない、多くの人が反対し馬鹿にしていると思えば、恥ずかしさがうまれ、その生き方や行動を止めてしまう力になったり、場合によっては、辱めを受けたという想いが絶望をもたらし、生きる力を奪うことも少なくなくありません。

 テモテは、この時恥の感情にすごくとらえられていたようです。つまり福音を宣教していくことが非常に恥ずかしいと思っていたということです。

 

 どういうことかいうと、一つはパウロが捕らえられて、牢屋に入れられ、命の危機にさらされているという悲劇でした。

 大伝道者であり、すごい働きをしていて、多くの人を救い、多くの教会を建て、まさに生ける神に選ばれ、遣わされ、祝福されているパウロが、どうして捕まり、牢屋に入れられ、命の危機にさらされる絶望的な状態に置かれていることが、テモテには理解できなかったかもしれません。パウロにはいつも大いなる生ける全能の神が共にいて、今日まで守ってくれていたはずではないか。しかし、パウロは牢屋に入れられ処刑されるかもしれない危機にさらされている。生ける神は助けて下さらないのか。守ってくださらないのか。そう思い、自分はどうなるのか、自分もいつか同じ悲惨な状態に置かれるかもしれないと思い、そうなったら、みんなから馬鹿にされるのではないかという恥ずかしい感情が生まれていたようです。

 それに拍車をかけていたのが、福音そのものを恥じる想いです。つまり、生ける神は、罪人を救うために救い主イエスを遣わし、十字架につけられ、三日後に復活させられたのであるという福音に対して、多くの人々が否定し、罵倒し、復活などあるものか、そのようなことを信じることほど愚かなことはないという意見を左右され、恥ずかしさを感じるところがあったかもしれない。

 その恥ずかしい感情から、勇気がくじかれ、弱気にとらえられ、福音に立つ想いも弱くなり、福音を通して与えられる力強さが失われ、キリスト・イエスを通して現れた神の愛、神の慈しみ、神のすべての人を憐れみ、赦すという神の救いへの愛が弱くなり、そのような中で、思慮分別の知恵もなくなり、迷いが生まれ、どのようなことが悪いことであり、善いことである判別がなくなり、善いことと思ったら、どんなに反対されたり、嘲笑されたりしても、それにめげずに、突き進んで行くという勇気がなくなっていたようです。

 

 そう思ったパウロは、「神はおくびょうの霊ではなく、力と愛と思慮分別の霊を私たちに与えてくださったのです。だから恥じてはならいし、神の力に支えられて、わたしと共に苦しみを忍んでほしい」と訴え、励ましています。

 パウロは、訴えます。力強く、確信をもって訴えます。「恥じてはならない。私は恥じない」。なぜなら、ゆだねられているこの福音は、自分自身の思いや考え、理念からではなく、人間によるのでもなく、そうではなくて、神からのものであり、神の計画と恵みによるものであり、生ける全能の神がずっと昔から計画してきたものである。すべてを支配し、創造主なる神、不可能を可能にし、絶望を希望に変え、死んだものに命をお与えになる、生ける神によって計画された、人間を救うという福音である。だから、この世において、最も確かで、確実で、信頼できることのひとつである。これが私たちが宣教している福音である。

 私たちが委ねられているこの福音を、生ける神は、必ず守り、支え、祝福し、豊かな実りを結ばせられる。だから、絶対裏切られない。絶対後悔しない。絶対無駄になることはない。必ず、万事を益としてくださる。

 だから私は福音を恥じないし、誇りに思っているし、真の希望に生きている。命を与える、不滅の命を与える、死んでも生きられる命、永遠の命に生きられる。そんな尊い素晴らしい命、かけがえなさを持つ、比較できない、唯一の価値ある命をもたらす。これが福音、委ねられている福音である。

 いろいろと危機に遭遇し、ひどく苦しみ、嘆き悲しみ、絶望した人がいうセリフの一つに、生きているこのことが尊い、存在しているそのことがありがたいという言葉ですが、このことを福音は教え、信じられるようにする。だから私は恥じないし、それどころか誇りに思うし、真の希望に生きられるとパウロは語って、テモテを智し、励まし、勇気づけようとしています。

 

 さらにパウロは、どうすれば、ゆだねられている福音を守っていけるについて、次のように言っています。それは聖霊の力を受けることによってである。この聖霊の働きにゆだねることが必要だ。そのために祈ることが求められる。

 パウロがエフェソの教会の長老たちと別れる時、いろいろと不安や恐れがありました。自分がいなくなった後、教会はどうなって行くのか。悪だくみな人たちによって、間違った福音が語られ、教会が乗っ取られるのではないか。ちゃんといままでの語ってきた福音の宣教が滞るのではないか、ちゃんと宣教していく後継者が出てくるのかという心配や危惧がありました。その時、パウロは次のように祈っています。

 「今、私は神とその恵みの言葉とにあなたがたをゆだねます。その言葉は、あなたがたを造り上げ、聖なる者とされたすべての人々と共に恵みを受け継がせることができるのです」。つまり、生ける神は万事を益として、福音が途絶えられることはなく、必ず、福音宣教は続けられていく。そのように働いてくださる。だから、それを信じて、委ねて、祈り続けていきなさいと語っています。

 福音の言葉には力があり、命がある。だから恥じないで、誇りをもって、希望をもって福音宣教を続け、信仰生活を熱く保ち、心を燃やして、感謝に溢れて、喜んで守っていきなさい。そのために祈るしかないと訴えています。