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7月28日 ≪聖霊降臨節第11主日礼拝≫『愛が借り』 ローマの信徒への手紙 13章 8~14節 沖村 裕史 牧師

7月28日 ≪聖霊降臨節第11主日礼拝≫『愛が借り』 ローマの信徒への手紙 13章 8~14節 沖村 裕史 牧師

 

■裁きと救い

 35歳で夭逝(ようせい)した楽聖ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルトは、今から233年前の冬、12月5日夜半、天に召されました。突然の死によって、完成されずに残された名曲があります。「レクイエム・ニ短調K.626」です。死者のためのミサ曲、この「レクイエム・ニ短調」の荘厳さ、美しさは形容し難いものです。そしてその歌詞も、とても印象的です。

 「怒りの日よ、その日/地上は灰に帰する…何という恐怖のくることか/審判が至り/ものみな厳しく試される時は。…審判者が席に着く時/隠されたものはすべて見出され/罪を免れるものはない。

 哀れなるわれは、何をいおう、…恐るべき御力の王よ、/贖(あがな)いし者を自由に救いたもう方よ、/憐みの泉よ、われを救いたまえ。… そしてその日、われを見放したもうな」

 「終わりの日」に御子イエス・キリストがわたしたちのもとに再びやって来られ、厳しい裁きと、愛と平和に満ち溢れる救いをもたらせてくださる。そのことを待ち望み、その時に備える大切さを思い起こさせる歌です。

 預言者イザヤが語った、「たとえ、お前たちの罪が緋のようでも/雪のように白くなることができる。たとえ、紅のようであっても/羊の毛のようになることができる」(1:18)という美しい言葉も、裁きと同時に救いを語っています。緋のように、紅のように赤い罪に対して神の裁きが臨む。しかし、神はその民を裁いて滅ぼしてしまわれるのではなく、その罪を雪のように、羊の毛のように真っ白に清めてくださる…。

 聖書の神は、徹頭徹尾、愛の神です。愛の神は、裁きのために裁くのではなく、救いのために裁かれます。裁きは、人を脅すためのものではなく、その裁きを通じて、主の恵み、回復のみ業がもたらされるという希望に満ちたものです。それが「終わりの日」の本来の目的です。

 もちろん「終わりの日」の救いのみ業は、わたしたち人間によるのではありません。それはただ、神の恵みのみ業、神の愛ゆえです。わたしたち人間はそこに指一本触れることもできません。

 「神に愛された子」という意味のアマデウスという名を持つモーツァルトもまた、「終わりの日」の神の愛による救いを待ち望みつつ、天に召されるギリギリの時まで、この曲の譜面と向き合っていたのでしょう。

 

■脱いで着る

 ローマの信徒への手紙13章11節から14節が語っているのも、そのことです。「今がどんな時であるか」とパウロが語る、今この時とは、「眠りから覚めるべき時」であり、「救いが近づいている」時です。まさに裁きと救いの成就する「終わりの日」に他なりません。パウロは、その「終わりの日」が近づいているのだから、「闇の行いを脱ぎ捨てて光の武具を身に着け」「主イエス・キリストを身にまといなさい」とわたしたちに勧めます。

 「キリストを身にまといなさい」。含蓄ある言葉です。

 「身にまとう」「着る」ために、わたしたちはまず、今着ているものを脱がなくてはなりません。コロサイの信徒への手紙にも、「古い人をその行いと共に脱ぎ捨て、造り主の姿に倣う新しい人を身に着け、日々新たにされて、真の知識に達するのです。そこには、もはや、ギリシア人とユダヤ人、割礼を受けた者と受けていない者、未開人、スキタイ人、奴隷、自由な身分の者の区別はありません。キリストがすべてであり、すべてのもののうちにおられるのです」(3:9-11)とあります。

 まず、あなたの身にまとっている、自分と人とを比べて隔てるもの、エゴイズムや悪意という古い着物を脱ぎすてなさい、そうパウロは言います。それは、裸になりなさいということでもあります。裸のあるがままの自分を受け入れる、と言い換えてもよいかも知れません。信じて生きるということは、脱ぐことと着ることにつきます。脱がずに重ね着するわけにはいきません。自分の着ている古い着物を脱いで裸になって、あるがままの弱く、小さく、欠け多い自分を受け入れて、キリストを着ることです。

 そうしないと、いつもきまって自分の着物が問題になります。奴隷と自由人、男と女、ユダヤ人と異邦人、政治的・経済的な優劣、文化の違い、宗教的な態度など、わたしたち人間が自らを誇り、自らを頼みとする着物。他人と自分を比べては、時にうぬぼれ、時には卑下する、そんな比較と差別、競争と抑圧に繋がるエゴイズムに囚われている着物。わたしたちは、信じると言いながら、まだ、そんな古い着物を問題にしてはいないでしょうか。だとすれば、わたしたちは、本当にはまだキリストを着ていないか、ただ重ね着をしているだけ、ということになるでしょう。

 では、自分が自分がというエゴイズムを脱ぎ捨てて、キリストを身にまとうということは、具体的にはわたしたちがどのように変えられることなのでしょうか。パウロはそのことを前段の八節から一〇節で、こう教えています。

 「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません。人を愛する者は、律法を全うしているのです。『姦淫するな、殺すな、盗むな、むさぼるな』、そのほかどんな掟があっても、『隣人を自分のように愛しなさい』という言葉に要約されます」

 パウロは、「互いに愛し合うこと」を、律法、神のみ言葉として、わたしたちに勧め、求めています。「キリストを身にまとう」とは、神の愛、キリストの愛、その光の中を歩むことです。それは愛の光に照らされて、愛されている自分をあるがままに受け入れ、そのように愛されている者として互いに愛し合うということです。

 

■借りるしかない

 それとしても、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」—「愛が借り」とは、どういうことなのでしょうか。

 「借り」という言葉からわたしたちが思い浮かべるのは、借金です。誰でも借りたものは返さなければなりません。借し返りのために人間関係が歪んだり、壊れてしまったりすることがままあります。そのためでしょう、「親しい者の間で金の貸し借りだけはしてはならない」と子どものころから厳しくしつけられました。それほどまでに貸し借りは難しく、やっかいなものです。

 ところが近頃は、Give and Takeとか、互いに酬(むく)いると書く互酬、あるいは互いに助ける互助といった言い方で、貸し借りの関係を肯定的に捉えることが多くなってきているように思えます。ボランティア活動も、人に対する無償の奉仕、隣人への愛ではなく、自分の生きがいや自己実現のためのものであるといった考え方が中心になり、タイムバンク制といったボランティアとして奉仕した時間を貯蓄する制度や、お金をもらってのボランティア活動なども見受けられます。確かに、ボランティア精神の根付きにくい日本社会にあっては、ひと昔前までの共同体の中に見られた互助的な考え方によって、近隣地域の助け合いや奉仕活動を進めようとすることも止むを得ないことなのかもしれません。

 しかしそうした関係は、意識するかしないかは別として、簡単に支配・被支配の関係になってしまったり、助け合いを数量化して均質なものに保とうとし、そうできないと途端に助け合うことができなくなったり、あるいは「義理、人情」といった益もない貸し借りで、人をがんじがらめにしてしまいがちです。貸し借りは、決してわたしたちを自由にすることはありません。むしろ、互いを縛り付けるばかりです。

 とすれば、人を縛り付けてしまう貸し借りで愛を説明することなど、およそ相応しくないはずです。パウロは、ギブ・アンド・テイクの互助的な意味で愛し合うこと、つまり、愛してくれるから愛する、愛するから愛してくれて当たり前、これだけ愛したのだからもっと愛して欲しい、愛してくれないから愛する必要などないといった意味で、「互いに愛し合うことのほかは、だれに対しても借りがあってはなりません」と言っているのではないはずです。そもそもパウロは、貸し借りを推奨しているのではなく、互いに愛し合うこと以外に、そのような関係はあってはならないといっているのですから、貸し借りそのものについても否定的です。

 ここで大切なことは、愛を「貸し借り」ではなく、「借り」と表現していることです。「借り」というこの言葉はもともと、負債、負い目という意味を持つ言葉ですが、それは、わたしたち人間の、神様への、イエス・キリストへの負債、負い目を意味する言葉でもあります。

 わたしたちの愛は、わたしたちが捧げるというより、神様がわたしたちに捧げてくださっているという「事実」に基づいているのだ、ということです。ヨハネの第一の手紙4章7節に、「愛する者たち、わたしたちはお互いに愛しあおうではありませんか、愛は神から出たものなのです」とあるように、わたしたちから神様に向かってゆく愛や、わたしたち相互の愛はすべて、「神がわたしを愛する愛」から出てくるものにすぎません。

 「わたしは誰の世話にもたっていない、この二本の腕ですべてをやってきた」という人に、よく出会います。しかし、本当にそうでしょうか、自分はいつも恩人で、与え主なのでしょうか。年を取ってくると、そうでないとすぐに分かってきます。自分のからだが弱くなってくると、否が応でも分かることです。

 そのことが、さきほどのヨハネの手紙の続きに簡潔に表現されています。「わたしたちが神を愛したのではない」。これは、「わたしたち」人間が主語になる愛を否定するものです。悲しいかな、わたしたち人間の愛に真実の愛はありません。しかし、神様が主語になる愛があるのです。神様がわたしたちを愛してくださっている、と聖書は繰り返し教えます。ですから、神様の愛は一方的な愛です。返すことのできない愛です。「貸し借り」などできない、ただ「借り」るしかない、無償の愛です。

 そのような神様の愛とはどのような愛か、ヨハネの手紙はさらに続けます。「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります」(4:10)。御子キリストの十字架に示された愛―自分を削りに削り、最後には自分のいのちまで削って、わたしたちに差し出してくださった愛です。だから「わたしは賢い者にも愚かな者にもすべての人に負債があります」(1:4)とパウロは言います。それは、わたしたちの行いや能力、生まれや人種に関わりなく、御子キリストからの、ただ一方的に借りのある愛です。

 愛されるにふさわしい者であろうがなかろうが、そんなこととは全く無関係に神様に愛されている者―「愛の借りしかない」わたしたちです。愛せるかどうかではなく、ただ愛されている者として、喜びをもって愛そうとする者となるように、パウロはそう教え、励ましているのです。感謝して祈ります。