福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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7月31日 ≪聖霊降臨第9主日礼拝≫ 『目を覚まして、待っていなさい』 マタイによる福音書24章36〜51節 沖村裕史 牧師

7月31日 ≪聖霊降臨第9主日礼拝≫ 『目を覚まして、待っていなさい』 マタイによる福音書24章36〜51節 沖村裕史 牧師

≪説教≫

■未来と将来

 京都学派の一人であり、信濃町教会の教会員であった宗教哲学者、波多野精一の『全集』の中に『時と永遠』という一文があります。愛する妻を亡くした悲しみの中に書かれたものだと言われています。

 その中で、波多野は「未来」と「将来」に触れ、その二つが決して同じではない、と語ります。「未来」とは、その字のごとく「未だ来ていない時」であって、時が過去から現在を経て未来へと至る、一方向への流れとしての時間がイメージされている、と言います。当然、未来はいつでも、時がこちらから向こうへと、今の自分から遠ざかるように流れ去っていく、その先にあるものです。それに対して「将来」とは、文字通り「将(まさ)に来たらんとする時」のことであって、時の流れは、未来とは正反対にあちらからこちらへ向かって流れてきます。将来はあちらからわたしたちの現在に向かって到来する、もたらされる時です。

 わたしたちは今、「小黙示録」と言われる、世の終わり、最後の審判の時、キリスト再臨の時をめぐる24章の言葉をご一緒に味わっていますが、実は、ここに語られている一連のイエスさまの言葉は、波多野の言葉を借りれば、自分とは何のかかわりなく流れ去っていく「未来」のことではなくて、今のわたしたちのところに向って到来する「将来」のこととして語られています。

 シリア地方の教会で何がしかの責任を担っていたマタイは、この教会のために何をなすべきか、この教会に何を語るべきかと案じつつ、23章まで書き進んできたに違いありません。24章を前に、マルコによる福音書と手元にあった様々な資料を前にして、マタイはこう考えていたかもしれません。

 「人の子」の到来としての終末のことを書かなければならないだろう。どのように書くべきか。イエスさまの十字架と復活の後、すぐにやって来ると思っていた「終末」の時は、明らかに遅れている。そのため、教会の人々から緊張感は薄れ、みんな自分勝手に生きているようにさえ見える。どうしても終末のことは伝えておかなければならない。でも、終末の到来を強調するだけでは、教会の人々の心には響かないだろう。そうだ、いつの日か分からない終末の時を語りながら、しかしそれを待ち望むこと、それにふさわしい信仰者としての生き方についてこそ書き記そう。事実、それこそがイエスさまの言われていたことではなかったか、と。

 

■日々の生活の中で

 直前35節、イエスさまははっきりと「天地は滅びる」と言われました。「天地」の中に、被造物のすべてが含まれます。わたしたちも、です。でもこのことが、自分たちが滅びる、死ぬということを受け止めることがなかなかできません。

 そこで、イエスさまは創世記のノアの出来事について語られます。ノアは隠れて箱舟を作ったのではありません。洪水が起こると声を大にして人々に訴え、森のど真ん中、人々の目の前で箱舟作りに精を出しました。しかし、人々は聞いても聞かず、見ても見ませんでした。ノアと人々との違いはどこにあったのでしょうか。神の言葉に対する姿勢の違いにあったのだと言う外ありません。神の言葉、それが警告であれ、約束であれ、そうした神が語られた言葉を額面通り受けるのか、それとも割り引いて聞こうとするのか、そうした神の言葉への姿勢に違いがあったのでしょう。

 しかしイエスさまは今、そのことを責めておられるのではありません。ましてや「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている」ことがいけないと脅しておられるのでもありません。そうではなく、「その日、その時は、だれも知らない。天使たちも子も知らない。ただ、父だけがご存じである」と言われます。その日、その時は、父だけがご存じで、それ以外の者は、たとえ天使であっても、また子であるわたしであっても知らない、ただあなたがたの「父なる神」だけが、と言われます。

 思い出してください。「祈ることを教えてください」と求める弟子たちに、イエスさまは「天におられるわたしたちの父よ」と祈るように教えてくださいました。神を「父」と呼ぶことなど普通はあり得ないことでした。しかしイエスさまは、神を「父」と呼ぶように教えられました。しかも、実際に使われたその言葉は「アッバ」という、とっても砕けた呼び方でした。「お父さん/お父ちゃん」です。イエスさまは、そのアッバ父に、「日ごとの糧を今日、与えてください」と祈るよう教えられました。わたしの分だけ、あるいはわたしの家族だけの糧ではありません。わたしたちすべての者に「日ごとの糧」をお与えください、です。

 そうです。「食べたり飲んだり、めとったり嫁いだりしている」ことがいけないどころか、飲み食いする物を求めるようにと教えておられるのが、他ならぬイエスさまご自身なのです。ですから、飲み食いに意味がないと言われているはずはありません。飲み食いはとても大切です。めとること、嫁ぐことも大事です。ただ、その大切な日々の生活の中でも、いえ、その日々の生活の中でこそ、終わりの日が来ること、またわたしたち自身に、土は土に、塵は塵に帰る時が来ることを忘れないように、と教えておられるのです。

 

■ちょっとそこまで

 終末は、確かにいつ来るか分からない将来のことですが、と同時に、今のわたしたちの生活の只中にもたらされるものです。そのことをルカはこう言い換えます。

 「実に、神の国はあなたがたの間にあるのだ」(17:21)

 では、わたしたちの生活の只中にもたらされる神の国、終末とは終末とは何でしょうか。

 それは、人の死であるかも知れません。また、一日の終りの時であり、別れの時、終了の時、喪失の時かも知れません。はたまた、木々が葉を落とす時、一粒の麦が地に落ちる時、鮭が川に上りその一生を終える時も、わたしたちが目にする終末の時と言えるかも知れません。それら小さな「終末」のすべてが、誰もその日その時を知らない、あの大きな終末、人の子が到来する終末を指し示しているのではないでしょうか。

 わたしたちは終末を生きているのです。イエスさまは、大きな終末の日がいつ来るかについて、エホバの証人や旧統一教会のように、あたかもそれを知っているかのようにふるまい、人々を惑わすのではなく、今ここを、終末に備えてどう生きるのかを、わたしたちに問いかけ、教えておられるのです。

 ヨハネによる福音書16章12節から24節の言葉が思い出されます。

 「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなるが、またしばらくするとわたしを見るようになる」

 この言葉が三度も繰り返されています。しかし弟子たちにはこの言葉が理解できません。18節、「『しばらくすると』と言っておられるのは、何のことだろう」。「しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなる」、この言葉は弟子たちにも察しがつきます。「わたしは十字架にかけられて殺されることになる」、そう言われていたからです。しかし続く「またしばらくすると、わたしを見るようになる」と言われていることの意味が分かりません。それでなくとも、イエスさまを永遠に失うことになるという予感に、その重さに押しつぶされそうな弟子たちは、戸惑い、うろたえるばかりでした。その弟子たちに、イエスさまは言われます。「またしばらくすると、わたしを見るようになる」。

 まるで、「ほんの少しの間、ちょっとそこまで」と言われているかのようです。

 尊敬していた先輩が重い病気になり、亡くなる直前にお訪ねしたことがあります。才能に溢れ、多くの仕事をこなし、みんなから愛されていました。その人が病に倒れました。自分の病気がもう治らないとわかってからも、何事もないかのように働き続ける、その姿は清々(すがすが)しくさえありました。訪ねたわたしの重い気持ちを察してか、先回りしてこう言われました。

 「心配しないで。ちょっと天国まで引っ越しするだけだから」

 何か励まさなくては…と考え、身構えていたわたしに、「ちょっとそこまで行くだけ。神様のなさることだから問題ないよ。ご心配なく」。そう言って微笑んだその笑顔に、わたしは今でも励まされています。

 すべての人がいずれは迎える「引っ越し」の日。しかし恐れることも、慌てることもありません。わたしたちはみな、天国、神様の御許に召されるのですから。いつの日か必ずまた会うことになるのですから。その日をごく普通に迎えたいものです。人生を歩み、その終わりが近づいてきたとき、いえ、いのちの終わりのときはだれにもわからないのですから、人生の途上のどんなときにあっても、「どちらへ」と聞かれたなら、イエスさまのようにお答えしたいものです、「ちょっとそこまで」と。

 

■目を覚ましていなさい

 そう答えることができるように、とイエスさまはこう教えられました。

 「だから、目を覚ましていなさい。いつの日、自分の主が帰って来られるのか、あなたがたには分からないからである」

 キリストの再臨が一体いつの日に起こるのか、わたしたちにはまったく予測がつきません。だからこそ、いつどのような時に、それが起こっても決してうろたえて、慌てるようなことがないように、いつも「目を覚ましていなさい」とイエスさまは言われるのです。

 目を覚ますとは、端的に「見る」ことです。何を見るのでしょうか。自分の生き方を、今、自分が生きているこの世の中を、です。この世の中は今どうなっているのか。イエスさまが語られ、またその振る舞いで示された神の国の実現に向かっているのか、それともその逆の方向にあるのか。それを、しっかりと見なければなりません。わたしたちは目覚めているでしょうか。

 そして何よりも、目を覚ましているとは、「イエスさまを見る」ことです。イエスさまがどのように語られ、どのようにこの世と関わりを持たれたかを見ることです。わたしたちは、イエスさまのことを神の子とか救い主とか、言葉の上では最上級であがめつつ、その一方で、イエスさまが実際に示されたことを見ようとしていないかもしれません。ただ、自分だけの安全と幸福を守る御守り札として、イエスさまを飾っているに過ぎないのではないでしょうか。その札をまさぐりながら、49節、「仲間を殴り始め、酒飲みどもと一緒に食べたり飲んだりして」はいないでしょうか。

 イエスさまをしっかり見ていると、今、何をなすべきかが見えてきます。そして、この世の中も見えてきます。ゲッセマネの園で祈るイエスさまを見ようともせず、眠りこける弟子たちへのイエスさまの言葉を思い出します。

 「わずか一時もわたしと共に目を覚ましていられなかったのか。誘惑に陥らぬよう、目を覚まして祈っていなさい」(26:40-41)。

 

■最も大切なこと

 「畑の二人の男」と「臼をひく二人の女」の内の一人は、人の子の到来の時、赦されず、滅びの中へと連行されます。よく言われるように、連れて行かれるのは神を信じない者、イエス・キリストを知らない者だなどとは、どこにも書かれていません。信仰が免罪符にはなりません。いえ、教会にこそ、裁きが降されるかも知れません。わたしたちはどうすればよいのでしょうか。

 24章に始まった小黙示録と呼ばれる一連の言葉は、25章31節以下の「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にした人と、しなかった人」のたとえで閉じられています。

 教会の中でさえ、小さな者は邪険に扱われていると言えるのかもしれません。パウロも、教会での主の晩餐―聖餐式の様子を聞き及び、嘆いています。「空腹の者がいるかと思えば、酔っている者もいるという始末」で「貧しい人々に恥をかかせようと」している教会の姿を描き、「ふさわしくないままで」聖餐にあずかることを戒めています(Iコリント11章)。

 今、見ている身近な人々の中に、苦悩の中にある者はいないか。今、飢えている者はいないか。今、のどが渇いている者はいないか。まず、自分の回りを「見るように促される」のです。そういう人々こそが、イエスさまの「兄弟」とされているということは、イエスさまはまさにそのような出会いをされたのだ、ということでしょう。だからこそ、イエスさまが何を語られ、どのように生きられたかを思い起こさなければなりません。イエスさまとの関わりを、ただ「罪の赦し」の信仰だけにとどめてはなりません。

 「人の子」は、いつ来るか分かりません。自分の終りも、いつ来るか分かりません。兄弟姉妹の生涯も、いつ閉じられるか分かりません。今、このわたしたちの生活のただ中で、イエスさまにどう従って生きるのか、そのことこそが、教会の課題であり、わたしたちにとって最も大切なことなのです。

 神の国は、神の方からわたしたちの方に向かって到来するものです。終末、再臨は、その神の出来事です。先方から照り輝いてくる再臨の光の中で、わたしたちが目覚めて立ち、先方から到来するイエス・キリストをいつでもお迎えする備えをすることは、何か「未だ来ていない時」の一点だけの問題ではなく、信仰をもって「今を生きる一日一日」の生きざまに関わることでした。どうか、イエスさまに励まされて、もたらされる主の日を「待ち望み」つつ、共に目を覚まして歩んで行く者となることができれば、と願わずにはおれません。