福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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7月7日 ≪聖霊降臨節第8主日礼拝≫『すべての人を喜ばせる』 コリントの信徒への手紙一 10章 23節~11章1節 沖村 裕史 牧師

7月7日 ≪聖霊降臨節第8主日礼拝≫『すべての人を喜ばせる』 コリントの信徒への手紙一 10章 23節~11章1節 沖村 裕史 牧師

■一神教と多神教

 前にも一度ご紹介したことがありますが、塩野七生の著書に『ローマ人の物語』という、文庫本43冊のシリーズがあります。聖書の背景となった世界を理解する上で大変よい本ですが同時に、わたしたちの信仰について、いろいろなことを考えさせてくれる本でもあります。

 その中で、ユダヤ人とギリシア人とローマ人の違いが、こうまとめられていました。人間の行動の規範・基準を、宗教に求めたのがユダヤ人、哲学に求めたのがギリシア人、法律に求めたのがローマ人である、と。

 「宗教」とはこの場合、神の掟、戒め、もっと広く言えば神の言葉ということです。そこに、人間の行動の規範を置いたのがユダヤ人であり、だからこそユダヤ人の間に、神の言葉を記した聖書が生まれました。ところが、ギリシア人やローマ人はそういうものに規範を置きません。ギリシアやローマに宗教がなかったわけではありません。たくさんの神々が信じられ、神殿があり、礼拝が行われていました。しかしギリシア人やローマ人は、そこに人間の行動の規範があるとは考えませんでした。人間は神々の教えに従うべきであるとは考えなかったのです。神々は人間が従うべき主、規範ではなく、人間の営みを見守る、別の言い方をすれば、願いを叶えるだけの存在でした。

 若松英輔に「願いと祈り」という一文があります。

 「…願うのは悪いことではない。願わずにはいられない、そうした局面に追い込まれることは人生に幾度でもある。しかしそんなときでも、私たちは聞く耳は封じない方がよいのではないだろうか。求めていることは思いもよらない場所からやってくるかもしれないのである。

 神仏は、人間が思っているよりもずっと、私たちのことを知っている。宗派を問わず聖典、経典と呼ばれるものを繙(ひもと)くと、そうしたもう一つの現実が描き出されている。神仏は、人間が感じている以上に、私たちの苦しみ、悲しみ、嘆きを深く受けとめているのである。だが、そのことを深く実感できない人間は、不安に耐え切れず、分かっているはずの状況を神仏に説明しようとする。説明する自分の声が、彼方からの無音の声をかき消しているのに気が付かないまま語り続けてしまう。」

 ここに、ユダヤ的一神教とギリシア・ローマ的多神教の違いがあります。一神教と多神教の違いは、神が一人であるか多数であるかという数の問題と言うよりも、人間に従うべき規範を与える神と、人間を見守る、願い事を叶えるだけの存在である神との違いだと言ってよいのかもしれません。そこに、一神教と多神教のすれ違いが生まれます。そしてそれこそ、わたしたちがこの社会の中でクリスチャンとして生きていこうとする時に経験する、すれ違いでもあります。わたしたちはイエス・キリストを信じ、主なる神に従って生きようとします。それで、例えば神道の結婚式や仏教のお葬式に列したときにも、そこで柏手(かしわで)を打ったり、手を合わせて拝んだりすることに抵抗を覚えます。ところが周囲の多くの人は、そのことを信じるとか従うとかいう感覚を全く持たずに、そうしています。そのため、わたしたちが拘(こだわ)っていることをなかなか理解してもらえません。

 キリスト教は、神の言葉こそ人間の行動の規範であるとする旧約聖書の、ユダヤ教の伝統を受け継ぐ一神教です。ところが、そのキリスト教の中に「すべてのことが許されている」という考え方が生まれてきました。それは突き詰めて言えば、神の掟、戒めをもはや人間の行動の規範としない、神の戒めに縛られないで、人間が自分で判断し、自由に生きるのだということであって、ユダヤ人には受け入れることのできない考え方です。ところが、基本的にユダヤ教と同じ流れの中にあるはずのキリスト教会の中に、こうした教え、考え方が出て来ました。

 最初期の教会の指導者であり、コリント教会の創立者であるパウロ自身がそうです。パウロがここで「すべてのことが許されている」という言葉を引用しているのは、「そんなことはとんでもない間違いだ」と言うためではありません。むしろ、彼はこのことを「その通りだ」と受け入れています。それを受け入れた上で、「しかし」と言って、ある「但し書き」を付け加えているのです。

 それはどういうことでしょうか。パウロは、ユダヤ人でありながら、神の言葉を人間の生活の規範とするユダヤ的な一神教の信仰を捨ててしまったのでしょうか。ギリシア、ローマの人々のように、人間のことは人間が自分で決める、神は、時に人間の世界に介入をすることはあっても、基本的にはただ見守っているだけの存在だ、という多神教的世界観に妥協してしまったのでしょうか。

 

■他人(ひと)の利益のために

 この問いを念頭に、パウロが「すべてのことが許されている」という教えに付け加えた「但し書き」から読んでいきたいと思います。23節、

 「『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことが益になるわけではない。『すべてのことが許されている。』しかし、すべてのことがわたしたちを造り上げるわけではない」

 すべてのことが許されている、確かにその通りだ。しかし、その許されていることすべてが益になるわけではない。すべてがわたしたちを造り上げるわけではない。だから「益になる、造り上げる」ということを基準に判断していくべきだ、とパウロは言います。その「益になる」とは、「自分」の益になるかどうかということではありません。24節、

 「だれでも、自分の利益ではなく他人の利益を追い求めなさい」

 「益になる、造り上げる」というのは、「他人(ひと)」の益になること、「他の人」を造り上げることです。すべてのことが許されている中で、そのことをこそ追い求めなさい、とパウロは言います。その具体的実例が25節以下です。

 「市場で売っているものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」

 これは、偶像に供えられた肉であっても、気にすることなく食べてよい、ということです。その理由が26節、

 「『地とそこに満ちているものは、主のもの』だからです」

 詩編24編からの引用です。偶像に供えられたものであっても、それは主なる神が造り、「よい」と祝福し、与えてくださっているものなのだから、汚れているなどと考えてはならない、と言います。偶像に供えられた肉を食べることができるのは、神の掟を無視するからではなく、むしろ創造の主である神を信じるからです。神の祝福と愛と恵みが、偶像やそれを拝む人々の上にも注がれていることを信じるからです。だから27節、

 「あなたがたが、信仰を持っていない人から招待され、それに応じる場合、自分の前に出されるものは、良心の問題としていちいち詮索せず、何でも食べなさい」

 こう言うことができるのです。父なる神と御子キリストを信じていない人に招かれて食事をする時に、この肉はどこから手に入れたものか、などと詮索する必要はない。出されたものは感謝して、喜んで、美味しくいただけばよいのだ、と言います。

 ここまでが、「すべてのことが許されている」ということに当ります。

 しかし、「すべてのことが益になるわけではない」に当るのが、28節です。

 「しかし、もしだれかがあなたがたに、『これは偶像に供えられた肉です』と言うなら、その人のため、また、良心のために食べてはいけません」

 この「だれか」とは、共にその食事に招かれているクリスチャン、特にユダヤ人のクリスチャンのことを指しているのかもしれません。とすれば、「これは偶像に供えられた肉です」という言葉は、「わたしたちはこれを食べてもよいのですか、食べない方がよいのではないですか」といった信仰上の心配、不安からの言葉だということになます。そういう人が同席していることがわかったなら、その人にいらぬ不安や心配を抱かせ、信仰のつまずきとなることを避けるために、その肉を食べるのをやめなさい、とパウロが教えます。

 肉を食べることが、その人の信仰に関わるのなら、その人がつまずいたり、あるいは信仰を誤解されたりする恐れがある時には、食べてもよいものでも食べないように、許されていることでもしないようにするのが、わたしたちのあるべき姿だ、とパウロは言います。

 そこに「良心のため」とあり、その良心とは自分の良心ではなく、他人の良心のことだ、とわざわざ29節に語られています。自分の良心に、何もやましさを感じる必要はありません。すべてのことが許されているのです。しかし他人の良心、それは神から与えられている良い心、信じる心と言い替えることもできるわけですが、それを痛め、傷つけることのないように、そのためには許されていることでもしない方がよいことが多々あるのだ、と言います。

 だから、とパウロは31節に言います。

 「だから、あなたがたは食べるにしろ飲むにしろ、何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにしなさい」

 「神の栄光を現す」、これこそが「益になる、造り上げる」ことの内容です。

 

■神の栄光を現すために

 「すべてのことが許されている」というのは、律法をもはや人間の生活の規範とはしない、ということです。何かをする時に、細々と定められた掟に照らして、事を決めることはもうしないということです。

 イエスさまの安息日の教えを思い出します。マタイによる福音書12章10節から12節、

 「すると、片手の萎えた人がいた。人々はイエスを訴えようと思って、『安息日に病気を治すのは、律法で許されていますか』と尋ねた。そこで、イエスは言われた。『あなたたちのうち、だれか羊を一匹持っていて、それが安息日に穴に落ちた場合、手で引き上げてやらない者がいるだろうか。人間は羊よりもはるかに大切なものだ。だから、安息日に善いことをするのは許されている』」

 イエス・キリストを信じる者は、そういう掟からは自由になったのです。しかしそれは、ギリシア人やローマ人のように、人間の考える哲学や、人間の定める法律に行動の規範を置くということかというと、そうではありません。もはや、掟や律法に縛られていない自由な人間が何をするにしても、まず神の栄光を現すことを考え、そしてすべての人の良心、神から与えられた信じる心のつまずきにならないように、また神から与えられたすべての人のいのちが救われるために、自分の自由を制限し、放棄するのです。掟によって強いられてそうするのではなくて、自分の意志で、自発的にそうするのです。

 それが、「すべてのことが許されている」信仰者の生き方なのです。「すべてのことが許されている」者が、「何をするにしても、すべて神の栄光を現すためにする」、それが、パウロの教える信仰者の自由です。それこそが、本当に自由な、解放された人間の姿なのです。

 

■神のみ心はキリストのうちに

 神のみ心を人間の従うべき規範として受け止めるという点では、ユダヤ教もキリスト教も同じ一神教です。しかしその神のみ心をどこに見るかという点に違いがあります。ユダヤ教、旧約聖書の教えでは、神のみ心は律法において、掟という形で与えられていて、それに従うことが神に従うことでした。しかしキリスト教、新約聖書では、旧約の時代に掟、律法として示されていた神のみ心が、イエス・キリストのみ言葉とみ業、十字架と復活において成就し、完成したのだ、と教えます。

 だからこそ、わたしたちは神のみ心を、律法の中にではなく、イエス・キリストの救いのみ言葉とみ業の中に示され、見出します。わたしたちが何かをするのは、あるいはしないのは、掟に命じられたり禁じられたりしているからではありません。戒律を守ることがわたしたちの規範、信仰ではありません。

 そういう意味で、わたしたちにはすべてのことが許されています。わたしたちはそういう自由に生きているのです。それは、人間の行動の規範を神にではなく、人間自身に置くギリシア、ローマの考え方と同じだと思われるかもしれません。しかし、その人間の自由がイエス・キリストによって示された神のみ心に添うものであることを、罪深い現実の只中にあってなお、追い求めていくのがわたしたちの信仰なのです。

 生まれつきのわたしたちは、そもそも自由な決断ができなくなっています。罪に支配され、その奴隷となってしまっているからです。人間は、自分の自由な決断によって行動していると思っていても、そのすべてが実は、エゴイズムという悪霊の力、罪の力によって支配され、ねじ曲げられてしまっているのです。そのために人間の自由が、様々な問題を、対立を、悲惨な結果を生んでしまうのです。

 そんなわたしたちを、罪の支配から救い出し、解放してくださったのがイエス・キリストです。だからこそ、何者にも支配されず、拘束されずに、自由な決断に生きることができるようになったのです。その自由は、罪に支配されているわたしたちが行使する自分勝手な自由、自分の利益や、自分を造り上げることだけを追い求める自由ではありません。イエス・キリストによって本当の自由を与えられたわたしたちは、その自由を、キリストによって示された神のみ心に従い、計り知れない神の愛と恵みを証しするために用いていくのです。

 具体的には、自分の益よりも他の人の益のために、他の人がイエス・キリストを信じてその救いにあずかり、感謝して、喜びの内に生きることができるようになるために、むしろ自分の自由を制限し、放棄する、という歩みをしていくことです。それこそ、イエス・キリストご自身がわたしたちのために歩んでくださった道でした。

 32節に、「人を惑わす原因にならないようにしなさい」と語られています。人をつまずかせる者となるな、ということです。そのためにわたしたちに必要なことは、この真(まこと)の自由に生きることです。罪に支配された、自分の利益を求める自由に生きようとするところに、人をつまずかせることが起るのです。

 33節に「わたしも、人々を救う[正確には、人々が救われる]ために、自分の益ではなく多くの人の益を求めて、すべての点ですべての人を喜ばそうとしているのですから」とあります。パウロはこの真の自由に生きています。だから11章1節、

 「わたしがキリストに倣う者であるように、あなたがたもこのわたしに倣う者となりなさい」

 イエス・キリストは、ギリシア人もユダヤ人も、神の教会の人もそうでない人も、自分も、他の人も―すべての人が神のものだから、すべての人があるがままにかけがえのない存在であることを教え、示してくださいました。そのキリストに倣う者として、そのキリストの後に従う者として、パウロは生きようとしているのです。

 だからこそ、「すべてのことが許されている」と言うことができ、同時に「すべてを神の栄光を現すために」「すべての人を喜ばせるために」と言うこともできるのです。※わたしたちもパウロに倣って、イエス・キリストによって与えられている自由を神のみ心に従って、神の愛と恵みをすべての人に証し、すべての人を心から喜ばせるために用いていきたいものです。