福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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8月15日 ≪聖霊降臨節第13主日礼拝≫ 『十字架の遺言』 マタイによる福音書16章21~28節 沖村裕史 牧師

8月15日 ≪聖霊降臨節第13主日礼拝≫ 『十字架の遺言』 マタイによる福音書16章21~28節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏    平和の道具と (志村拓夫)
讃美歌    14 (1,3節)
招 詞    詩編107篇19~22節
信仰告白    使徒信条
讃美歌    196 (1,3節)
祈 祷
聖 書    マタイによる福音書16章21~28節 (新32p.)
讃美歌    411 (1,3節)
説 教    「十字架の遺言」 沖村 裕史
祈 祷
献 金    64
主の祈り
報 告
讃美歌    507 (1,3節)
祝 祷
後 奏    組曲より、ソルティー (L.ボエルマン)

≪説教≫
■分水嶺
 ペトロの信仰告白から受難の予告に続く今日の箇所は福音書の「分水嶺」である、と言われます。分水嶺。高い山、そしてその山の頂から水が右左に分かれて流れる場所です。広島にいた頃、年に四度、丸一日を使って島根県の隠岐島にある教会を訪ねていました。その途中、岡山から米子に向かう中国山地の頂で、この分水嶺を目にします。列車に沿って流れている川の流れがそこから全く逆向きになります。そこが分水嶺です。

 山登りがブームになっています。どうして人は山に登りたいと思うのか。「そこに山があるから」はよく知られた名文句ですが、わたしがそう思うのは、ただ山の向こうが見たいからです。中学校を卒業するまで、山々に囲まれた小さな盆地からほとんど出ることなく育ったわたしにとって、その思いは「山のあなたの空遠く」の歌に重なるものでした。あの山の向こう側に何があるのだろう。そんな憧れに似た思いを抱いていました。一生、あの向こう側を見ることなどないのではないか、そんな恐れを感じることさえありました。どうしても向こうを見たい。向こう側が見えれば安心して、またここに戻って来ることができる。きっとあの向こうに何かがあるにちがいない。そう思っていました。

 小学校最後の夏休み、隣の町との境にある峠へと向かって歩き始めました。中ほどまでやって来て、振り返ったとき、暮らしている小さな町を見渡すことができました。安らぎがこみ上げてきます。今まで自分がいた世界が広く、新しく感じられます。そして長い、長い山道を辿り、ようやく峠を登りつめて、向こう側を見たとき、言葉にならない喜びが湧き上がりました。今まで自分に見えなかったものが見えるのです。もうしばらく下りて行けさえすれば、あそこに行き着く。その道が見えていました。
 
 今日の御言葉が「分水嶺」であるとは、ここで初めてイエスさまが、これから先、どこに向かって坂道を下るように、まっすぐに進み行こうとされるのか、その救いの道が見えるのだということです。それはとりもなおさず、イエスさまとは誰か、ということが、はっきりするということでもあります。

 

殺される

 その冒頭が、「このときから」と始められます。

 マタイは、この言葉を特別な区切りの場面で使っています。4章17節にも、これとまったく同じ言葉が使われていました。「そのときから、イエスさまは『悔い改めよ。天の国は近づいた』と言って、宣べ伝え始められた」。16章21節以降、新たな局面を迎える。それは、イエスさまの公生涯の始まりのときと同じくらい大事なことなのだ。マタイはそう告げています。そして、こう続けます。

 「イエスは、御自分が必ずエルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている、と弟子たちに打ち明け始められた」

 メシア―救い主キリストと言えば、困窮の中から人々を救出する絶対的な権威と力を持つ者、つまり勝利者だと人々は信じていました。ところが今、「多くの苦しみを受けて殺され…ることになっている」と言われます。勝利者どころか、敗北者の道を歩くことになる。それも、たまたまそうなるというのではなく、「…ことになっている」「そうなるべく定められている」、神の意志によってそうなるのだ、と言われます。そればかりか、「三日目に復活することになっている」と続きます。メシア・キリストであるイエスさまが殺されるなど、弟子たちにはとうてい受け入れられないことでしたが、復活、死後のよみがえりともなれば、それ以上に、理解に苦しむことであったに違いありません。

 「あなたはキリスト、生ける神の子です」という告白が意味することの全貌が今、イエスさまの言葉によって明かされたのですが、その言葉を弟子たちは理解することができません。いわば、わたしたち人間はみんな、山の頂から水が右左に分かれて流れる分水嶺のこちら側にいるのです。向こう側が見えません。こちら側にいる人間が、あちら側にこんな道があるはずだ、この道を通って行ったら救いに至るはずだ、と言い合っているに過ぎません。あそこにイエスさまが立っておられる、あのイエスさまが指し示される道はこれではないか、とみんなで見当をつけます。ところが、登ってイエスさまのところに近づけば近づくほど、全くの誤解であることに気づかされるのです。ペトロもまた同じでした。

 

引き下がれ

 ペトロはイエスさまを「わきへお連れして」、「主よ、とんでもないことです。そんなことがあってはなりません」と言って、「いさめ始め」ます。

 「わきへお連れして」は、「ぐいと引き寄せて」と訳すことのできる言葉です。ペトロがイエスさまを救い主と仰いでいたとは言え、いかにも親密で、遠慮のない間柄であったのかが垣間見えてくるようです。

 そのペトロが「とんでもないことです」と言います。この言葉を直訳すると、「あなたに〔神の〕憐れみがあるように」となります。祈りの言葉です。ペトロには、イエスさまの言葉の意味が全く分かりません。「主は混乱しておられる。あれだけ集まっていた群衆から離れて、もしかして宣教の行く末を悲観され、こんなことを口走ってしまわれたのではないか」、そう考えたのかもしれません。ペトロはあらん限りの愛を注ぎ出し、神の憐れみによって、その悲惨な出来事からイエスさまが守られますように、と心から願ったのでした。

 ところがイエスさまは、厳しい否定の言葉をもって、これに応えられます。

 「サタン、引き下がれ」

 これは、荒野でサタンの試みにあわれたとき、イエスさまの口から最後に出た言葉です(4:10)。

 「落ち込んでいる仲間を安易に励ますな」と教えられたことがあります。なぜか。「神の御心に適った悲しみ」(Ⅱコリ7:10)というものがあるからです。それを安易に取り去ってしまえば、神の特別な取り計らいの邪魔となるというのです。わたしたちが善意を込め、よかれと思ってしたこと、語ったことが、結果として、その人のためにならないばかりか、神の御心に背き、神のご計画に水を差すようなことがあるのだ、ということです。

 この時のペトロがそうでした。「引き下がれ」と訳されている言葉を直訳すれば、「わたしの後を行け」となります。わたしの前に立ってはならない、あの荒野で、「神の子なら」と救い主としての栄光の道を示して誘惑し、十字架への道から遠ざけようとしたあのサタンのように、わたしの先に立って妨げる者となってはならない、わたしの後について来なさい、と言われます。

 どうにもイエスさまに近づくことのできなかったサタンが、今、弟子の心の中に入り込もうとしていました。であればこそ、ペトロの愛情あふれる祈りは厳しく非難されなければなりませんでした。もし厳しく叱責されなければ、弟子たちは、イエスさまが十字架へと向かわれるのを阻もうとするかもしれません。イエスさまの宣教にも積極的に反対さえするかもしれません。

 事実、27章39節以下にこんな言葉が記されています。

 「そこを通りかかった人々は、頭を振りながらイエスをののしって、言った。『神殿を打ち倒し、三日で建てる者、神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。』同じように、祭司長たちも律法学者たちや長老たちと一緒に、イエスを侮辱して言った。『他人は救ったのに、自分は救えない。イスラエルの王だ。今すぐ十字架から降りるがいい。そうすれば、信じてやろう。神に頼っているが、神の御心ならば、今すぐ救ってもらえ。『わたしは神の子だ』と言っていたのだから。』」

 「キリスト、生ける神の子」と胸を張って告白したペトロの、このときの思いも、イエスさまを嘲(あざけ)った人々の思いに近いものだったのではないでしょうか。なんだ、このイエスは、わたしたちの救いに何の役にもたたない、自分すら救うことができないのか。

 信仰の告白であったはずの言葉が、たちまちのうちに嘲笑の言葉に変わります。期待と希望が、深い失望と絶望に変わります。分水嶺に立って見えるもの、そこに立っておられるイエスさまが、弟子たちのキリスト告白の中に見ておられたものは、そんな嘲笑と絶望だったのではないでしょうか。

 イエスさまを嘲笑い、イエスさまに絶望することの中に、わたしたちの偽らざる姿が現れます。イエスさまの正体が明らかになるところで、人間の正体も明らかになります。洗礼者ヨハネと呼び、エリヤと呼び、エレミヤとさえ呼んだ、そのお方を捨てる。ペトロもまた「神の子」を捨てました。この人をキリストと呼ぶことを恥じ、その身を隠しました。

 「キリスト、生ける神の子」とは「受難のキリスト」以外の何者でもない、そのことがあなたたちに見えているか、いや、今は見えるはずもない。そう、「あなたは神のことを思わず、人間のことを思っている」。イエスさまはそう言われたのでした。

 

十字架を背負う

 それでもなお、イエスさまの言葉は続きます。

 「それから、弟子たちに言われた。『わたしについて来たい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る』」

 「弟子たちに言われた」と記されています。ペトロだけではなく、イエスさまを「キリスト、生ける神の子」と告白するすべての弟子たちに、そして、この言葉を読んでいるすべての人々に、また「この方は一体誰だろう」と呟かざるを得ないわたしたちに、イエスさまは語りかけられます。

 イエスさまが、わたしたちを見捨てられることはありません。ご自分は見捨てられても、見捨てるわたしたちを見捨てられることなど決してありません。驚くほどの愛をもって、語りかけられます。

 「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」

 「十字架を背負う」。これが、イエスさまが神から示され、また、イエスさまに従う弟子たちに求められる生き方でした。

 しかし「十字架」とは、最も過酷な刑罰です。十字架刑に処せられる人は、縦の杭が地面に打ち込まれている刑場まで、その「横木」を背負って歩かなければなりませんでした。沿道の人々から白い目で見られ、嘲笑され、なじられながら歩く、その屈辱と恥辱。受刑者が十字架を背負って歩く時、沿道の人々から、「立派な仕事をしておられますね」とか「大変なご苦労をされて、ほんとに立派ですね」などと言われることがあるでしょうか。そんなことは、決してありません。十字架を背負うということは、この世的な価値観や評価からすると、恥ずべきこと、白い目で見られ、罵られ、唾を吐きかけられる、そういうことでした。

 だからこそ、ペトロは、あの裁判の時、「お前もあのイエスの仲間だ」と言われて、「わたしは違う、あんなやつの仲間ではない。あんなやつは知らない」とイエスさまを否定しました。イエスさまと共に十字架を背負うことを拒み、イエスさまとイエスさまの言葉を恥じとし、自分の「命」を守ろうとしたのでした。厳しいようですが、それがペトロの姿であり、そしてまた、わたしたち自身の姿でもあります。

 それでもなお、いえ、だからこそ、イエスさまは、言葉を重ねるようにして、「十字架を背負う」ことの意味を教えられます。

 

命の重さ

 「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」

 ここに用いられている「命」とは、生物学的意味での「生命」を指す言葉ではありません。「息」とか「魂」とか「心」とか、あるいは「本当の自分」と訳すことのできる言葉です。

 今日の出来事のきっかけとなったのは、「わたしを何者だというのか」というイエスさまの弟子たちへの問いかけでした。それは別の言い方をすれば、あなたがたは、どう生きていくのか、どう生きたいのか、という問いかけでした。そして今、「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と言われるのです。

 イエスさまは今、敢えて「損得」の「得」という言葉、「御利益宗教」の「御利益」という言葉を使って、問うておられるのです。イエスさまがここで言われる御利益とは何でしょうか。それは自分の「命」を手に入れるということです。本当の自分として生きる、本当の自分を見つけて生きる「命」という意味です。

 「全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか」と言われるほどに、価値をもつ自分、そういう自分をあなたは見つけていますか、という問いかけです。

 さらに続けて言われます。「自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」。その「命」と取り替えのきくものなどない、とイエスさまは言われるのです。それほどに大きな値打ちをもっているもの、かけがえのないもの、それがあなたです。その値打ちに、あなたは気づいていますか、と。

 それこそが、この時のイエスさまの問いかけであり、イエスさまの十字架の意味であり、「自分の十字架を背負う」ということでした。

 一人の人間として、十字架の犠牲を受け入れるか、それとも拒絶するのか。その岐路、分水嶺に立って、イエスさまは、十字架の危険を選ばれました。しかしそれは、「心頭滅却すれば火もまた涼し」といった、苦行によって自分を押さえつけ、自分を超越しようとする禁欲主義的な修行として、というのではありません。また、後の世代の賞賛が保証される殉教を望み、熱心に死を求めたのでもありませんでした。さらには、神が自分を罰することを欲していると思ったわけでもなく、人々に誹(そし)られることが本来良いことであると考えていたわけでもありません。イエスさまは、神と隣人への根源的な愛から十字架を受け入れられたのです。

 わたしたちは、自分の負うべき十字架の意味を誤解してはなりません。

 家庭内暴力に苦しむ女性たちが、牧師に助言を求めに行くと、「姉妹よ、それはあなたの十字架です。あなたは、それが自分の十字架なのですから、耐えなければなりません」といった誤った納得のさせられ方をされることがありました。奴隷たちは、白人の説教者たちによって、奴隷制とは主が彼らに担うようにと望んでいる十字架である、と教えられました。ときに、「通勤に一時間かかるのは、わたしの担うべき十字架だ」とか、「庭があるのだから、雑草取りはわたしの担うべき十字架だ」というようなことを耳にすることがありますが、こうした考えは、イエスさまの十字架とは何のかかわりもないものです。十字架は単なる苦難のことでも、自己否定のことでもありません。

 イエスさまが教えとおられることは、自分を捨て去ることではなく、また「隣人を愛し、自らを愛してはいけない」と言われているのでもありません。むしろ、自分自身と同じように、隣人を愛すべきだと言われているのです。

 ペトロたちが、イエスさまの十字架と復活の後に、今日の言葉をあたかも遺言のように繰り返し想い起したように、わたしたちもまた、このイエスさまの言葉の前にするとき、自らの「命」の重さと向き合うように導かれるのではないでしょうか。この「命」の重さを贖うために、イエスさまがなさったこと、あの十字架に示された驚くべき愛を、もう一度しっかりと受け取り直したい、そしてまた「自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」と招かれるイエスさまにわたしたちも従いたい、そう願います。