お話し 「彼は神の子だった」(こども・おとな)
■神の子
最後5節に、こんな言葉が出てきます。
「だれが世に打ち勝つか。イエスが神の子であると信じる者ではありませんか」
イエスさまを「神の子」と呼んでいます。この「神の子」、二節にある「神の子供たち」とは、どうも違っているようです。「神の子供たち」とは、イエスさまをメシア・キリスト、つまり救い主と信じる人たちのことでしたが、5節では、そのイエスさまのことを、わたしたちを救うためにお父さんである神様がこの世界に遣わしてくださった「神の独り子(ひとりご)」「神の子」と呼んでいます。マルコによる福音書の1章1節にも「神の子イエス・キリストの福音(ふくいん)の初め」とあります。それは「神の子であり、救い主キリストでもあるイエスさまが教えてくださった福音―喜びの知らせ―の始まり、始まりー!」という意味でした。
■百人隊長
そんな「神の子」という言葉を口にした人が、聖書には何人も出てきます。そのひとりに、イエスさまに付き従った最後の最後、イエスさまが十字架で亡(な)くなるその様子をじっと見つめていた人がいます。ローマの百人隊長です。
「百人隊長がイエスの方を向いて、そばに立っていた。そして、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『本当に、この人は神の子だった』と言った」(マルコ15:39)
イエスさまが何かを大声で叫んで息をひきとると、その瞬間、遠く離れたエルサレム神殿の垂れ幕(たれまく)が上から下まで真っ二つに裂けました。いえ、それだけではありません。地震が起こったり、大きな岩が崩(くず)れたり、と天地が震(ふる)えました。そんな様子に驚き、イエスさまの処刑を最後まで見ていた百人隊長は、「本当に、この人は神の子だった」と告白します。
「百人隊長」というのは、その名の通り、百人の兵士たちを引き連れて、最前線で戦うリーダー、指揮官(しきかん)のことです。その多くは平(ひら)の兵士たちの中から選び抜かれた人で、エリートの指揮官の派手(はで)さはありませんが、頼りになる人たちでした。あるギリシアの歴史家はそんな百人隊長たちのことを、「着実(ちゃくじつ)に行動し、信頼できる」「厳しい攻撃にあっても一歩もひかず、持ち場で死ぬ覚悟(かくご)がある」人とほめたたえています。新約聖書にも六人の百人隊長が登場しますが、どの人も素朴(そぼく)で実直(じっちょく)、イエスさまも部下の病を治してくれるようにと熱心に頼む百人隊長の、その信仰を絶賛(ぜっさん)しています(ルカ7:9-10)。
さて、イエスさまの処刑場にいたその百人隊長は、どうやらイエスさまをピラトの前での裁判からずっと見守っていたようです。イエスさまがさまざまな奇跡(きせき)を行って人々の病を治した噂(うわさ)も聞き、また捕らえられた後、荊(いばら)の冠(かんむり)をかぶせられて侮辱(ぶじょく)されたことまで、つぶさに見ていました。彼は裁判所の門を通り、岩だらけの処刑場の丘まで続く、ヴィア・ドロローサ〔悲しみの道〕と呼ばれるその道中、イエスさまを警護(けいご)しながら一緒に歩きました。そして十字架にかけられたイエスさまが語られた、「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」という苦しみの言葉、また「成(な)し遂(と)げられた」(ヨハネ19:30)という最後の言葉まで、そのすべてを見聞きしていました。
百人隊長は、イエスさまが言われた最後の言葉が何を意味するのか、ほとんどわかっていなかったかもしれません。ここでいったい何が起こっているのか、自分が何のためにここにいるのか、何も理解していなかったに違いありません。けれども、この実直な百人隊長は、死にいたるまでのイエスさまの言葉とふるまいのすべてを振り返り、最後に心からの畏(おそ)れをもって、「本当に、この人は神の子だった」と言ったのでした。
■『グリーンマイル』―神様の愛と救いの物語
この百人隊長と同じ言葉を口にしたのが、今日、これから見ていただく映画『グリーンマイル』の主人公ポールです。
今から90年前の1935年、ポール(トム・ハンクス)は、ジョージア州のコールド・マウンテン刑務所で、囚人たちを監視するリーダー、看守長(かんしゅちょう)を務めていました。彼が受け持ったのは死刑囚たち。看守長の仕事のひとつは、グリーンマイルと名づけられた緑色の廊下を、囚人に付き添って一緒に処刑場まで歩くことでした。そして、彼らをできるだけ心安らかに電気椅子に座らせることでした。
そんな彼のもとに、ある日、ジョン・コーフィ(マイケル・クラーク・ダンカン)という黒人の死刑囚が送られてきます。大きな体をしているのに、よく目に涙をためるこの囚人は、双子(ふたご)の少女を惨殺(ざんさつ)した罪で死刑を宣告されていました。ところがこのジョン、そこでさまざまな奇跡を起こします。まずポールの尿道炎(にょうどうえん)という病気をあっという間に治してしまいます。痛さで廊下にへたり込んだポールに、鉄格子(てつごうし)越しにジョンが手を当てると、なんと激痛が嘘のように消えてしまったのです。それから鼠(ねずみ)のミスター・シングルスがいじわるな看守に踏み潰(つぶ)された時も、それをよみがえらせます。びっくりしたのはポールで、こんな奇跡が起こせるような、何よりも気のやさしい男が人殺しをするはずなどない、そう思い始めます。その確信は、ジョンが刑務局長(けいむきょくちょう)の妻を治してしまうのを目撃するにいたって、より深いものへと変わります。彼女は脳腫瘍(のうしゅよう)というガンをわずらい、もう手術することもできず、ただ死を待つばかりでした。ところがそこでも、ジョンは奇跡を起こし、ガンを消し去ってしまったのです。
ポールの目に、ジョンの無罪は明らかです。犯人が他にいたこともわかりました。しかしそれがわかったからといって、看守長の彼にはどうすることもできません。今のポールにできる精一杯のことは、ジョンと一緒にグリーンマイルを歩むことだけでした。いよいよ処刑の時、ジョンは電気椅子にくくりつけられ、そのスイッチが入れられました。すると、どうしたことでしょう。突然電気がショートし、火花が飛び散り、処刑場は一瞬にして暗闇になります。イエスさまが処刑された時「全地は暗くなり」「太陽は光を失っていた」(ルカ23:44-45)とある、その時のようです。それを見たポールは、ジョンが行った奇跡の数々を思い出し、「神の子のようだ」と最後に短くつぶやくのでした。
ここで、その最後の場面をご覧ください。
さて、どうでしたか。『グリーンマイル』は、イエスさまと彼の処刑に立ち会った百人隊長とを現代に移しかえた作品です。題名のグリーンマイルは、処刑場に通じる廊下のことですが、イエスさまが歩んだゴルゴタの処刑場に通じる「悲しみの道」そのものです。多くのアメリカ映画に出てくる乱暴な看守のイメージと違って、トム・ハンクスが演じる看守長が真面目そのものなのも、聖書の百人隊長の実直な姿と重なります。そして何よりも、ジョン・コーフィはイエス・キリストそのものです。ジョンは、本当は何の罪も犯したことのない、身代わりの犠牲者でした。逮捕前の経歴(けいれき)がいくら調べてもないことから、「奴は空からでも降ってきたらしい」という台詞(せりふ)も、いかにも彼がイエスさまであることを匂(にお)わせます。きわめつけはジョン・コーフィの名前です。『ターミネーター2』のジョン・コナーと同じく、そのイニシャルがJ・C、Jesus Christ―イエス・キリストを示しています。
この『グリーンマイル』のテーマは、日本の映画評論家(ひょうろんか)が言うような、無実な囚人を救うことのできない「現代の不条理(ふじょうり)な暴力」などではありません。ましてや、誰も避けられない死への道、「グリーンマイルを歩いているという事実」を訴えかける映画でも、「死刑制度の矛盾(むじゅん)を世に鋭く問いかけた問題作」でもありません。これは、十字架の死を前にした神の子イエス・キリストと、それに付き添った百人隊長の物語です。救い主キリストが、無実の神の子が、わたしたちの過ち、罪を負って十字架にかけられたその出来事、神様の愛と救いを描いた物語だったのです。祈りましょう。
メッセージ「神の子どもにされて」(おとな)
■神の子供たち
冒頭1節に、こうあります。
「イエスがメシアであると信じる人は皆、神から生まれた者です」
「メシア」とありますが、もともとの聖書には「キリスト」と書かれています。どちらも「救い主」という意味です。つまり「イエスさまを救い主だと信じる人は、神の子どもです」ということです。えっー、それってちょっと傲慢じゃない?自分たちのことを神様の子どもだなんて、と思った人がいるかもしれません。
確かに聖書は、イスラエルの民やクリスチャンのことを「神の子ら」「神の子たち」、この2節でも「神の子供たち」と言います。しかしそれは、決して上から目線の、選民意識によるものではありません。旧約聖書の中に出てくる預言者エゼキエルは、イスラエルの民はもともと「捨て子」だったとさえ言っています(16:3-5)。神様に選ばれた特別な民族でもなければ、純潔を誇ることのできる民でもない。カナンに住んでいた原住民アモリ人とヘト人の間の混血、雑種に過ぎない。取り上げる者も、目をかけてくれる者も、憐れみをかけてくれる者もいない、捨て子のような民だった。そんなイスラエルの民を神様は拾い上げて、守り育ててくださった。そうしてわたしたちは今ここに生かされている、そうエゼキエルは教えています。
「その方から生まれた者」「神の子供たち」というヨハネの言葉もまた、このエゼキエルの言葉と同じです。優れているからでも、強いからでも、成功をしたからでもなく、どんなに弱く、愚かで、失敗ばかりでも、イエスさまをキリスト救い主と信じ、信頼する人は皆、神様に愛される神の子どもにされるのだ、と言います。これはそんな、神様の愛の言葉、希望の言葉でした。
■神の子どもにされる
しかし、ヨハネがわたしたちに語っていることは、それだけではありません。神に愛され神の子どもにされて良かったね、それで終わりではありません。神の子どもに「された」わたしたちが神の子どもに「なる」ように、と勧められています。神に愛され、神の子どもとされたのだから、愛の神の掟を守りなさい。この世の様々な誘惑や欲望に打ち勝って、神を愛し、隣人を愛して、神の子どもになりなさい。それがどんなに困難なことに思えても、ただそれだけが、神の子どもであることの証しなんだよ、ということです。
一度、お話ししたことがあります。暑い夏になると思い出す光景です。
小学生の夏休み、学校給食がなくなり、自分の家で食事をすることになります。煮えたぎるような夏の暑さも、遊び盛りの子どもの食欲を奪うことはありません。昼の休憩時間に母が職場から帰ってくると、子どもは毎日のように尋ねました。
「今日のお昼は何?」「そうめんよ」「えーっ…また、そうめん?」
普段はこの言葉を聞いても、母はまるで聞こえていないかのようにそうめんを作ります。しかし機嫌の悪いときには、ズバッと逆襲されます。
「文句を言うのなら、食べなくてもいいわよ。戦争のときは、何も食べられなかったんだから。うちはレストランじゃないのよ。ぜいたく言わないで、そうめんを食べなさい。うちの子なら、そうめんを食べなさい」
そんな乱暴な…。でも、子どもに残された道はただ一つでした。それは、おいしい昼ご飯を作ってもらうよう母を説得することではなく、そうめんを食べられる自分に変わることでした。「母を変える」のではなく、そうめんを食べられる自分に「わたしが変わる」しかありません。なぜなら、「わたしは母の子どもだから」です。
イエスさまも、同じような体験をされました。イエスさまは天の父から、苦くて、とても飲みにくい「杯」を飲み干すようにと差し出されます。イエスさまはたまらず訴えます。「父よ、御心なら、この杯をわたしから取りのけてください」(ルカ22:42)と。「杯」とは「十字架で死ぬこと」。イエスさまは、こんな杯、飲めるわけがないと叫びます。しかし天の父はこの杯を取り除けようとはされません。
多くの子どもたちは、親が出す食事を食べる以外に道はありません。親子とは、「親が食事を作り、子どもは出されたものを食べる」関係だとも言えるのでしょう。そこでは、子ども自身がそこで出される食べ物を受け入れる体に変わるしかないのです。イエスさまも例外ではありませんでした。天の父が御心を変えるのではなく、イエスさまご自身がその体を変えるしかありませんでした。体を変えていくことは生半可なことではありません。杯に手を伸ばすとき「死ぬばかりに悲しい」と言われました。杯に手が触れたとき「苦しみもだえ」ました。杯に口をつけるとき「汗が血の滴るように地面に落ち」ました。
この極限の痛みを通して、イエスさまはご自身を変えられました。そして天の父の本当の子どもとなられたのです。
■神を愛し、人を愛す
この出来事は、祈りとは何か、信仰とは何かということを教えてくれています。普段、わたしたちは自分の願望を神に訴えることだけが祈りだと思っています。しかし本当の祈りは、神が出してくださる思いがけない料理を、食べられる体に、自分自身が変えられるようにと願うことなのです。自分が変わるには痛みや苦しみを伴うでしょう。それでも、その体験、そんな人生の営みを通して、神と親子の関係になること、神と深い交わりに入れられること、それが祈りだ、信仰だ、とヨハネの手紙は教えています。
「うちの子なら…」という、この言葉に背を向け続けることもできるかもしれません。自分の願いだけを延々と訴えても全然かまいません。しかし、わたしたちが神の子どもでいたいのなら、本当の神の子であったイエスさまのように、出された料理を食べるしかありません。そして今ここでも、神は料理を作り、出しくださっています。
「そして、生んでくださった方を愛する人は皆、その方から生まれた者をも愛します。このことから明らかなように、わたしたちが神を愛し、その掟を守るときはいつも、神の子供たちを愛します」(1節b-2節)
わたしの子どもなら「神を愛し、隣人を愛しなさい」という料理です。もちろん、これも食べやすいものではありません。そもそも、神を愛することと、ただ人を愛することとが同じではないからです。聖書の「愛」は、わたしたちの自然の情愛ではありません。自然の情愛は、自分の本能や好みによって愛します。嫌いな者は嫌いです。いやな人とはつき合いません。下の者は見くびり馬鹿にします。しかし今、神の戒めとして「愛する」ことが命じられています。そのような愛は、いやな者も、嫌いな者も、いえ、敵ですらも愛の対象とします。敵すらも、憎むべき者をも愛してゆくためには、自分の欲望や願望を実現することだけを追い求め、そのためには人を傷つけ、いのちを奪うことさえ良しとする、わたしたちの中にある「この世」を克服しなくてはなりません。
■杯を飲み続けなさい
先週の金曜日は80回目の終戦記念日でした。
戦前、天孫降臨という建国神話があり、エゼキエルが批判をしたイスラエルと同じように、わたしたち日本人は、日本民族の起源を栄光のベールに包み、現人神(あらひとがみ)を頂点とする単一民族として、選ばれし者のごとくに自らの姿を思い描いていました。もちろんそれは作り話です。しかし明治以降、近代化を進める指導者たちは国家としての形をつくるために、国民のすべてが天皇を崇め、その支配を絶対的なものとして受け入れるよう求め、国家神道まで作り出しました。国家神道は、国家の根幹―国事に属するものであるから宗教ではないという奇妙な論理によって、国家神道に反しない限りという条件の下で、他の宗教活動を認めました。このため当時のキリスト教会でも、礼拝の中、神と併せて天皇への忠誠を唱えることを受け入れなければなりませんでした。
ある牧師の回想にこんなことが書かれています。その牧師の父親も牧師だったのですが、礼拝に特高がしばしばやって来ては、天皇への忠誠が唱えられているかどうかを監視します。ところが同じ地域に、そのことに異を唱え、公然と抵抗する別の教会がありました。当然、警察ばかりではなく、教会に対する周囲の目は厳しさを増すばかりです。父である牧師は眉間にしわを寄せながら、「あんなことをする牧師がいるから、教会があるから迷惑する」と呟きました。
神への愛において隣人を愛するのではなく、ただ自分のこと、自分の身の安全のために、ひとつであるはずの教会のつながりを忘れ、隣人との関係を切り捨て、排除し、無関心と無視を決め込んでしまう。そのような態度は今も昔も変わりません。決して珍しいことではありません。しかしそれこそ、ヨハネが語る、神への愛と人への愛に生きる信仰から程遠い、わたしたちが打ち勝つべきこの世の姿そのものです。80年目という節目にこそ、二度と繰返してはならない過ちです。
ヨハネは今、父なる神の憐れみと愛によって罪赦され、「神の子供たち」として新しいいのちに生かされるわたしたちが、自らの欲望や好悪からではなく、神を愛するがゆえに、世界、世間というものによって切り裂かれ、差別され、戦いに敗れ、打ちひしがれている人々をこそ、それが自分に敵対する者であっても、神に愛されている兄弟姉妹であると信じ、自分たちの群れに受け入れ、互いに愛し合うことを求めています。
しかしわたしたちの愛には限りがあります。どんな父親もまた母親も、子どもを完全に愛することなどできません。どんな夫も妻も、相手を限りない愛をもって愛することもできません。挫折のない人間愛などありえません。そのような挫折のある愛が、わたしたちの持つことのできる唯一の愛であるなら、わたしたちは簡単に絶望してしまうでしょう。そして呟くでしょう、「あなたの杯を取りのけてください」と。
それでもなお、今日のヨハネの言葉は、わたしたちが神の子どもなら、イエスさまに倣って、それを飲みなさい、飲み続けなさい、飲み続けることでわたしの子どもでいなさい、と教え、励ましてくれています。この世に打ち勝ち、神への愛ゆえの、隣人への愛に生きる者となるべく、平和をつくり出す神の子どもとなるべく、これから後も歩み続けたい、そう切に願う次第です。祈ります。