福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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8月20日 ≪聖霊降臨節第13主日礼拝≫『行きなさい、と送り出される道』マルコによる福音書 10章46~52節 井ノ森高詩 役員

8月20日 ≪聖霊降臨節第13主日礼拝≫『行きなさい、と送り出される道』マルコによる福音書 10章46~52節 井ノ森高詩 役員

 

 イエス様御一行がエリコの町に到着するところから今日の聖書箇所は始まります。エルサレムから北へ26キロ、海抜マイナス250mのこの町に、イエス様が立ち寄られたのは、いよいよエルサレムに入場される直前のことです。この後の11章でエルサレムに入場されたイエス様は、14章で逮捕され、15章で十字架につけられ、16章で復活なさいます。

 イエス様から癒された人物の名前が具体的に紹介されることはほとんどありませんが、珍しくマルコ福音書10章のこの盲人の名前は、はっきりとバルティマイと記されています。マタイの20章とルカ18章にも同じような盲人の癒しの話が登場しますが、バルティマイという名前はこのマルコ福音書にだけ記されています。バルティマイとはティマイの子を意味するらしいので、バルは「~の子」という意味でしょうか。ではティマイはというと、汚れたとか罪深いという意味らしいのです。「罪の子、汚れた子」とはまた、ひどいネーミングですが、マルコがその名をわざわざ記したのには理由があったのでしょう。

 さてバルティマイは道端に座っていました。道端に目が見えない人が座っているということは、つまり障がいを持った人が、メインストリートを歩けないでいる、多くの人々に出来るはずのことが出来ないでいるということです。来る日も来る日も、同じ場所でじっと座ったまま物乞いをするほかない生活を送っていたということです。そのバルティマイが、イエス様に「憐れんでください」と言い始め、周囲の多くの人々に叱られ、黙るように言われても、ますます声を大にして「憐れんでください」と叫び続けます。「主がお呼びだ」と聞くと、上着を脱ぎ棄て、躍り上がってイエス様のところに来たのです。上着がこのバルティマイにとって何であったかというと、昼はその上着を座布団替わりにクッションとしてその上に座り、夜はその上着に身を包んで寒さをしのぐ、おそらく命を支える全財産と言っても過言ではない、大切な持ち物だったに違いありません。その上着を文字通り脱ぎ捨てて、彼はイエス様のもとへとやってくるのです。初対面であろうイエス様に「何をしてほしいのか」と問われ、「目が見えるようになりたいのです」とはっきりと答えます。「いやいや、そんなつもりでは」とか「そんな、もったいない」とか「欲しいものを言ってもいいのでしょうか」などというやりとりはなく、即座に「目が見えるようになりたい」と答えます。イエス様は「行きなさい」とまず仰います。続けて「あなたの信仰があなたを救った」と言われると、バルティマイはすぐ見えるようになり、イエス様に従ったと記されています。

 このバルティマイとイエス様の出会いとやり取りから、私が学んだこと4点を今日は皆さんと共有したいと思うのです。

 まず1点めです。それは、助けは求めていい、ということです。バルティマイ、つまり罪の子、汚れた子でも、「憐れんでください」つまり「助けてください」と声をあげていいということです。叱られ、黙るように言われても、ますます声を大にして「助けて」と叫び続けていいということです。イザヤ書の29章や35章にも助けを求めた人が救われる奇跡が預言されています。「耳の聞こえない者が聞き取るようになる、盲人が見えるようになる、口の利けなかった人が喜び歌う、荒れ野に水が湧き出でる」と記されています。自分の弱点をさらけ出して、助けを求めるというのは、実は難しいものです。遠慮や恥ずかしさ、あるいは諦めもあるかもしれません。私のランニング仲間で視覚障がいの女性は、30歳で視力を失うまでは、テニス、スキー、ドライブを楽しんでいたそうです。しかし多発性硬化症という病気に突然襲われ、しばらくは自力で起き上がれず、何も見えなくなり、失意のどん底にありました。やがて盲学校に通うようになり、鍼灸の資格をとり、盲学校で始めたマラソンにはまり、伴走者の助けを借りてフルマラソンだけでなく100キロマラソン、富士山登頂にも挑戦しました。ところがその後、今度は乳がんを発症するのですが、入院・手術・放射線治療を経て、再びフルマラソンを完走します。視覚障がいランナーと伴走者をつなぐ活動だけでなく、がんサバイバーとして、自らの体験を小中学校、高校で子どもたちに語っています。「自分は目が見えなくなって良かった、見えるままだったら、マラソンにも富士山にも挑戦しなかっただろうし、こんなに多くの人々に出会うこともなかった」とも言っています。盲学校で出会ったご夫君も視覚障がいランナーですが、「彼女は、遠慮せずに、私は●●ができないのですが、誰か助けてくれないでしょうかと、どこでもすぐに声をあげるし、自分だけでなく、周囲の障がい者のための援助もすぐに声をあげて求めるのです。行動力があるんですよね」と言います。自分の弱さを隠さずむしろさらけ出して、救いを求めるのは、難しいことですが、道端で同じ場所にずっと釘付けになっていた人が、大通りを大股で歩く、あるいは走る、人目につかないところで目立たずじっとしていた人が表舞台で活躍することを可能にしてくれるです。

 2点めは、祈ることの大切さです。イエス様とバルティマイとのやり取りにもう一度注目してみます。イエス様の「何をしてほしいのか」という問いかけと、バルティマイの「目が見えるようになりたいのです」という応えです。これは祈りだと思うのです。神様との対話と言ったほうがいいかもしれません。祈りとは、ただぼんやりとした思いではなく、はっきりと言葉で言い表すものだということを、バルティマイは示してくれています。言語化することで自分の考えていることや望んでいることが整理されることがよくあります。しかも聞き手がいるときのほうが整理されます。一人でボヤっと悩んでいるよりも誰かに聞いてもらってすっきりするという体験は多くの人に共通するのではないでしょうか。祈りも同じだと思うのです。いかがでしょう。バルティマイの叫びは祈りだったのです。この祈りの大切さは、来週の礼拝後の信徒研修会で皆さんとご一緒に深められれば幸いです。

 3点目は、バルティマイが上着を脱ぎ棄てたタイミングから学びました。先ほど申し上げたように、バルティマイにとって全財産と言ってもいい上着をバルティマイが脱ぎ捨てたのは、目が見えるようになってからだったでしょうか。違います。時系列で確認しますと、まず「私を憐れんでください」と叫び、叱られ、もう一度「憐れんでください」と叫び、「主がお呼びだ」と言われ、ここで上着を脱ぎ棄て、イエス様とのやり取りがあり、それから見えるようになったのです。つまり、見えるようになるかどうかわからない時点でバルティマイは全財産を捨て去り、イエス様のもとへ向かったということになります。イエス様の「あなたの信仰があなたを救った」の「あなたの信仰」とは、つまりバルティマイの信仰とは何を指し示すのでしょうか。諦めずに「憐れんでください」と叫び続けたこと、そして上着を置き去りにしてイエス様のところへ向かったことではないでいでしょうか。後から上着を回収するつもりだったのではないかと思うひともいるかもしれませんが、どうでしょう。目が見えなかった人が、大勢の人ごみの中で、自分が元々座っていた場所に戻れるでしょうか。仮に戻れたとして、その場に上着がそのまま残されているでしょうか。ルターの言葉にこういうものがあります。「信仰は海を渡るようなものだ。海を渡るには船に乗らなければならない。船に乗って委ねるしかない。」海を渡る船旅は安全が約束されたものではなかったはずです。実際、西暦1620年メイフラワー号に乗船して新天地北アメリカを目指した人々の多くがアメリカ到着前の船の中で、また到着後の最初の冬を越せずに命を失いました。バルティマイは上着を脱ぎ棄て、船に乗ったのです。対岸にたどり着けるかどうかわからないまま船に乗る決断をしました。委ねる信仰をイエス様に、そして私たちに示したのです。

 最後に4点めです。バルティマイは「行きなさい」と言われたのですが、なお道を進まれるイエス様に従ったということです。「行きなさい」つまり、360度、どこでも自分の行きたい方向へ行きなさい、目が見えるようになってよかったねぇ、さぁ行きなさい、と言われて、私だったらどうしましょう。新幹線に飛び乗って、阪神タイガース応援ツアーに出かけたかもしれません。ところがバルティマイは、道を進まれるイエス様に従ったのです。マタイとルカに登場する名前を紹介されていない盲人も同じようにイエス様に従っています。イエス様がエリコの後に進んだ道とは、エルサレムでの十字架への道です。受難の道です。この後、バルティマイは聖書のどこにも登場しません。彼がどこまでイエス様に従ったのか、それはわかりません。しかし、イエス様を三度否定したペトロの中にも、イエス様の復活を信じられないと言ったトマスの中にも、イエス様や弟子たちを迫害し後に大伝道者へとなったパウロの中にも、バルティマイが示した信仰は生きていたのではないでしょうか。冒頭ご紹介した、バルティマイという名前の意味は、罪の子、汚れた子でした。それは、目が不自由だったこの人物だけでなく、私たちのことを指し示しているような気がしてなりません。マルコがわざわざバルティマイという名前を記したのは、これはバルティマイだけでなく、私の、私たちの、あなたの、あなたがたのストーリーでもあるのですよ、という意図があったのかもしれません。イエス様がなお進んだ道、十字架の受難の道、復活への道へとバルティマイは従いました。バルティマイと同じようにイエス様に救われた人々は、2千年前も、この2千年の間も、そして今も、イエス様に従う道を選んできたのです、そのような生き方があることを世に示しているのです。イエス様の愛に、バルティマイによって示された信仰に感謝したいと思うのです。