福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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8月29日 ≪聖霊降臨節第15主日礼拝≫ 『倒れ伏す者に近づいて』 マタイによる福音書17章1~13節 沖村裕史 牧師

8月29日 ≪聖霊降臨節第15主日礼拝≫ 『倒れ伏す者に近づいて』 マタイによる福音書17章1~13節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏   天にまします われらの父よ(M.プレトリウス)
讃美歌   16 (1,3節)
招 詞   イザヤ書30章18節
信仰告白  使徒信条
讃美歌   167 (1,3,5節)
祈 祷
聖 書   マタイによる福音書17章1~13節 (新32p.)
讃美歌   285 (1,4節)
説 教   「倒れ伏す者に近づいて」 沖村 裕史
祈 祷
献 金   64
主の祈り
報 告
讃美歌   403 (1,3節)
祝 祷
後 奏   天にまします われらの父よ(M.プレトリウス)

 

≪説 教≫

■押しつぶされそう

 冒頭、1節から2節にこう記されています。

 「六日の後、イエスは、ペトロ、それにヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。イエスの姿が彼らの目の前で変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなった」

 イエスさまが高い山に登るときに連れて行かれた、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人は、十二弟子の中でも特別な存在でした。会堂長ヤイロの娘が死んだときに連れて行ったのもこの三人でしたし、イエスさまが十字架に架けられる前の晩、ゲッセマネで血の滴るような汗を流しながら祈られその時も、イエスさまが連れて行かれたのは、ペトロ、ヤコブ、ヨハネの三人でした。

 その三人の前で、イエスさまの姿が変わり、顔は太陽のように輝き、服は光のように白くなりました。その時のこと、

 「見ると、モーセとエリヤが現れ、イエスと語り合っていた」

 モーセとエリヤはいずれも、旧約を代表する人です。モーセは律法の、エリヤは預言者の代表です。そのモーセとエリヤが栄光の姿に変貌したイエスさまと語り合っていました。ペトロは驚き、動転します。

 「ペトロが口をはさんでイエスに言った。『主よ、わたしたちがここにいるのは、すばらしいことです。お望みでしたら、わたしがここに仮小屋を三つ建てましょう。一つはあなたのため、一つはモーセのため、もう一つはエリヤのためです』」

 仮小屋とは、幕屋、テントを意味する言葉です。この幕屋について、ヨハネの黙示録にこう記されています。

 「神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(21:3-4)

 終りの日に用意される幕屋に、神がわたしたちと一緒に住んでくださり、涙をことごとく拭い取ってくださり、悲しみも嘆きも労苦もない、と言います。終りの日の幕屋は神がご用意くださるのですが、このときペトロは、イエスさまの受難予告を振り払うかのように、仮小屋を作りましょうと言います。

 六日前、イエスさまがエルサレムで多くの苦しみを受け、殺され、三日目に復活することになっている、と打ち明けられました。救い主キリスト、神の子であるわたしが、真実の救いをもたらすために、苦しむこと、殺されることは神の御心なのだと言われます。そのときイエスさまは、死だけでなく、「復活」についても語っておられたのですが、弟子たちは、イエスさまが「死」について語られた、その言葉に圧倒されていました。今、ここにおられるイエスさまが殺されてしまうなんて、とんでもないこと。ペトロはそう思い、他の弟子たちに先に立って諫(いさ)めますが、逆にイエスさまから「サタン、引き下がれ」と厳しく叱責され、「あなたがたも自分を捨てなさい、自分の十字架を負って、わたしの後について来なさい」と諭されます。そして続けて、「自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのために命を失う者は、それを得る。人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」と告げられます。あなたがたのいのちは、とても大切で、かけがえのないもの、この世界よりも重いもの。そのいのちのためにこそ、このことを教えるのだと言われます。

 弟子たちは「死」だとか、「自分を捨てる」だとか、「十字架」だとか、そういう言葉に押しつぶされそうでした。わたしたちも同じです。その言葉は、暗く、圧迫してくるように、心の奥底へと沈み込んできます。そこに希望があると言われても、目の前に迫っている真っ暗な黒雲に押しつぶされるような思いがします。

 そんなとき、ここまで語ってこられたイエスさまを光が覆って、弟子たちの前で、白く輝く姿に変えられました。ペトロは興奮します。そして、これはすばらしいことだ。ここにわたしたちがいるのは、たいへんすばらしい、すてきなことだから、ずっとここにいましょう。あなたがた三人のためにここに小屋を建てましょう、と言ってしまうのです。

 

■手を触れて

 ペトロがそう話しているうちに、光り輝く雲が彼らを覆い、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者。これに聞け」という声だけが、雲の中から聞こえて来ました。

 雲の中から聞こえた、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声は、イエスさまが洗礼を受けられた時に天から聞こえた声と同じものでした。

 この福音書を書き記したマタイは、イエスさまの誕生は、インマヌエル—「神、我々と共におられる」、神がわたしたち罪ある者と共に永遠にいてくださることを決意された出来事だ、と語ります。そして、イエスさまが悔い改めの洗礼を受けられたということもまた、イエスさまが罪あるわたしたちとどこまでも共にいることを決意された出来事でした。そして今、その洗礼の時と同じ声が聞こえたのです。

 天から、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という声が聞こえて来たのは、そこに神の御旨、神の御心が示された、ということです。イエスさまが罪あるわたしたちと一緒にいること、インマヌエルを決意されて洗礼を受けられること、そして今、イエスさまが多くの苦しみを受けて殺され、三日目によみがえること―神の子イエスがそうした歩みをなさる、そのすべてが神の御心なのです。

 しかし、神のみ声を聞いた弟子たちは、ただただ恐れ、打ち倒されたかのように、ひれ伏すばかりでした。その弟子たちに、イエスさまが、イエスさまの方から近づいて来られ、手を差し伸べ、触れられます。

 「弟子たちはこれを聞いてひれ伏し、非常に恐れた。イエスは近づき、彼らに手を触れて言われた。『起きなさい。恐れることはない』」

 混乱し、恐れ、倒れ伏すばかりの弟子たちですが、そんな彼らをイエスさまが見捨てたり、見離されたりされることは決してありません。そんなときにこそ、そっと触れてくださるのです。

 「触れる」。この世に誕生したとき、人は母の胸に触れ、生きるために欠くことのできない乳を与えられ、おむつを替えるたびに母の手に触れられます。その後も、嬉しいときや悲しいときにはその腕に抱かれ、怪我をしたり、お腹が痛くなったりすれば、優しく撫でてもらいます。そんな触れられることを通して、愛されていること、信頼することを学んでいきます。そして人生最後のときにも、家族が手足を撫でながら、その人への思いを巡らし、じっと見守っている中を、人は天へと旅立って行きます。触れられることは、言葉にならない、しかし何よりも確かな「愛のしるし」です。

 今はタッチパネルの時代です。スマートフォンやタブレット端末、銀行のATMや会計レジなども、液晶パネルに軽くタッチするだけで用事を済ますことができます。しかし、心の触れ合い、心のタッチはどうでしょうか。愛の触れ合うようなコミュニケーションがどれだけあるでしょうか。

 ルカによる福音書10章25節以下の「善いサマリア人」という話が思い出されます。ひとりの旅人―おそらくユダヤ人であったと思われます―が、旅の途中で強盗に襲われ、持ち物を取られただけでなく、半死半生の目に遭います。神殿に仕える祭司やレビ人、同胞のユダヤ人たちが通りかかりますが、彼らはその旅人を見捨て、道の反対側を通り過ぎて行ってしまいます。そのとき、ユダヤ人と対立していたはずの、ひとりのサマリア人がそこを通りかかります。彼は、傷つき倒れているその人を憐れに思い、手当てをし、ろばに乗せて宿屋にまで連れて行き、費用はいくらでも出すから介抱してくれるようにと頼んで立ち去った、というイエスさまのたとえ話です。

 わたしたちは、殴られ、傷つけられて、倒れている旅人と自分を重ね合わせることでしょう。そして、そんな自分を介抱し、手当てしてくださったのが実は、イエスさまだったということに気づかされます。「手当て」という言葉はいい言葉です。手を当てる。手で触れてくださる。それがいやしにつながるのです。「看護」の看という字も、手と目からできた字だといわれます。手で触れ、見守ってさしあげることが、やはりいやしにつながるということなのでしょう。イエスさまは、いやしを必要とする部分にタッチしてくださる方です。時には、本人が気づいていない心の深い部分の傷にも触れて、いやしてくださいます。

 触れていやしてくださるイエスさまの手はどんな手でしょう。イエスさまは、十字架につけられて死んで三日目によみがえりました。そして、弟子たちに姿をお見せになります。そのとき、手にははっきりと、あの十字架につけられたときの釘の跡が残っていました。イザヤ書に「彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」(53:5)とあります。イエスさまは、罪という傷をいやすために、わたしたちの身代わりとして十字架にかかってくださいました。その傷ついた手で、わたしたちに触れてくださるとき、わたしたちはいやされたのです。

 そして今、イエスさまに触れられた弟子たちも、神への恐れではなく、神の愛に包まれます。そしてイエスさまは、湖の上で嵐に襲われたときのように、「恐れることはない」とお声を掛けてくださいました。

 

■共にいてくださる

 恐れから解放され、立ち上がって、「彼らが顔を上げて見ると、イエスのほかにはだれもいなかった」と記されます。

 そこにいるのは、自分たちと共におられるイエスさまだけでした。モーセもエリヤもいません。イエスさまの服も白い輝きを失っています。そう、すべてが元に戻ったのです。しかしここに、とても大切なことが語られています。何気なく語られているようですが、この言葉に特別な思いが込められています。

 このとき、弟子たちは、ただ目の前にいるイエスさまを見たというのではありません。自分たちと一緒にいてくださるイエスさまを見たのです。言い換えれば、そのイエスさまと一緒にいる自分たちを、改めて見出したということです。そのとき見たイエスさまの輝きは、空しいものではありません。あの輝きの中におられたイエスさまが今ここで、わたしたちと共にいてくださる。このことこそが、弟子たちにとって、そしてわたしたちにとって、とても大切なことでした。

 この場に居合わせたペトロは、だいぶ経ってからですが、ペトロの第二の手紙の第一章にこう記しています。

 「わたしたちの主イエス・キリストの力に満ちた来臨を知らせるのに、わたしたちは巧みな作り話を用いたわけではありません。わたしたちは、キリストの威光を目撃したのです。荘厳な栄光の中から、『これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者』というような声があって、主イエスは父である神から誉れと栄光をお受けになりました。わたしたちは、聖なる山にイエスといたとき、天から響いてきたこの声を聞いたのです。こうして、わたしたちには、預言の言葉はいっそう確かなものとなっています。夜が明け、明の明星があなたがたの心の中に昇るときまで、暗い所に輝くともし火として、どうかこの預言の言葉に留意していてください」

 ペトロは山上の変貌の出来事により、イエスさまがもう一度おいでになるときのことを知らされました。夜が明け、明けの明星が昇るとき、それまでわたしたちは暗闇を歩くのですが、しかし、「これはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」という天から聞こえた声が、暗いところに輝くともし火となるのだ、と言います。

 イエスさまに従っていこうとすると、困難に、試練に、迫害に直面します。しかし、あの時、天から聞いた言葉が暗闇の中のともし火となり、励まされ、慰められるというのです。イエスさまはどんなときにも、わたしたちと共に歩んでくださるお方なのです。

 

■真の輝きを見つめて

 この出来事は、弟子たちの心に深く刻みつけられました。

 しかし一同がその山を下りて来る途中、イエスさまは、三人の弟子たちに、今見たことを、人の子が死者の中から復活するまで、わたしの復活を見るまでは決して誰にも喋ってはいけない、とお命じになります。

 三人の弟子たちは、もしかすると、「わたしたちがここにいることは素晴らしいことです」と語っていたように、いささかの優越感に浸りながら、自分たちは山の上で真っ白に光り輝くイエスさまを見た、と他の弟子たちに誇らしげに告げようと思っていたのかもしれません。

 しかし、受難の人の子の栄光は、弟子たちが誇るようにして語るようなものではありませんでした。この世にあって、小さくされた人々と共に歩み、病人に触れ、罪人と食卓を囲み、彼らを無明の谷底へと追いやる高ぶった人々に敢然と闘いを挑まれるイエスさまです。その愛のみ業ゆえに、受難の道を辿られるイエスさまです。栄光に輝くイエス・キリストは、この世の中の最も無力な者として、この世の中のあらゆる恥辱が投げつけられる、その地の底にある存在として、わたしたちにそのお姿をお示しになるのです。

 そこにこそ真(まこと)の輝きがあります。

 愛に満ちたその輝きを見ようとしない者は、たとえ、救い主キリストであるイエスさまがやって来られても、預言者エリヤと同じようにキリストの道備えとなった洗礼者ヨハネがやって来ても、それと気づかず、好きなようにあしらってしまうことになるということでしょう。

 八木重吉に「貫く 光」という詩があります。

  はじめに ひかりがありました

  ひかりは哀しかったのです

 

  ひかりは

  ありと あらゆるものを

  つらぬいて ながれました

  あらゆるものに 息を あたえました

  にんげんのこころも

  ひかりのなかに うまれました

  いつまでも いつまでも

  かなしかれと 祝福(いわわ)れながら

 この光を、輝きをこそ、わたしたちは見つめなければなりません。それによって、自分の愚かさを恥じ入らされ、自分を改めるように促され、そしてほんとうの勇気と希望を与えられる。そんな輝きをこそ見つめ続けたいものです。