■わたしの資格
まず5節です。
「もちろん、独りで何かできるなどと思う資格が、自分にあるということではありません。わたしたちの資格は神から与えられたものです」
ここでパウロは、少し前の2章16節の言葉を念頭に置いています。
「このような務めにだれがふさわしいでしょうか」
パウロは、キリストの福音を伝える務め、キリストの香りを運ぶ務め、その務めにふさわしいのは、だれか。それはわたしたちだ、と言います。
では、パウロがそのような務めを担う資格はだれから、どこから与えられたのか。パウロは、その資格は自分のものではない、と言います。自分の能力や実績、ユダヤ人という血筋やローマ市民であるといった身分ゆえに、自分がこの務めにふさわしいのではない。では、その資格はどこから来るのか。それは神から、その資格はただ神から与えられたものだ、と言います。
もちろんパウロには、伝道者にふさわしい、卓越した聖書や信仰に関する知識や能力、また過去の伝道実績もあります。わたしたちが人を評価する時、どうしてもそうした権威や知識、能力や実績といったものをチェックします。もちろん、そうしたことなど全く不用だ、無意味だというのではありません。しかし一番大切なことは、神が御子キリストを通してパウロを召し、用いておられる、という事実そのものにあります。
では、なぜパウロは自分が神に用いられている、と言えるのか。その証拠は、彼の中に働く「聖霊」です。6節以降に、霊、聖霊という言葉が何度も出てきます。霊こそ、今日の箇所の中心テーマです。神の霊こそが、パウロに伝道の務めにふさわしい資格を与えているのです。そしてその霊は、わたしたちすべての者にも等しく与えられています。
■聖霊の働き
聖霊、霊なる神は、父なる神や御子キリストと比べると分かりにくいかもしれません。キリスト教の中には、聖霊の働きを非常に重視するグループがあります。そういうグループでは、礼拝に参加している人が「霊に満たされて」、突然意味の分からない、理解することのできない言葉―「異言」を語り出すといったことがあります。わたしたちにはそういう経験がほとんどないので、聖霊がわたしたちの中に働くというのがどういうことなのか、具体的にイメージしづらいかもしれません。
しかし、たとえ目立った働きをわたしたちが見ることができないとしても、聖霊は今ここにいるすべての人の中に働いています。わたしたちが今朝起きて、今日は礼拝に行こうと思ったのも、何よりもキリストの信仰に生きたい、洗礼を受けたいと願ったのも、それは確かにわたしたちの意志ではありますが、と同時に、その背後には霊なる神が、聖霊がいつも働いている、そう思わざるを得ません。
列王記上19章11節以下に「主の御前には非常に激しい風が起こり、山を裂き、岩を砕いた。しかし、風の中に主はおられなかった。風の後に地震が起こった。しかし、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火が起こった。しかし、火の中にも主はおられなかった。火の後に、静かにささやく声が聞こえた」とあります。この「静かにささやく声」を直訳すれば、「小さな沈黙の声」となります。どこにおられるのか、と心の中でそう問いかける預言者エリヤに、神はかすかな「沈黙」のささやきをもって臨まれたのでした。人の期待がすべて外れる。もはや希望の欠片(かけら)もない。しかし、人が絶望した「その後」に、神は「沈黙」の中で初めてわたしたちに触れてくださるのです。
談話室に置いている月刊誌『本のひろば』8月号に、山本賢藏著『静寂者ジャンヌ:生き延びるための瞑想』の書評が掲載されています。京都大学名誉教授の西平 直による大変興味深いその一文をご紹介させていただきます。
「17世紀フランスの知らない女性、ジャンヌ・ギュイヨン夫人。…
ジャンヌは知的な家庭で育った。聡明な少女が16歳で結婚させられる。夫は完全な「マザコン」。自信がなく、いつも不機嫌で、癇癪(かんしゃく)持ち。母親は底意地の悪い人だったというから、その結婚生活は「奴隷のようだった」。
彼女は隠れ家(内なる砦)を求めた。祈ること。しかし神を実感できない。その悩みの中で「外側に求めるな」と教えられた。神を実感できないのは、神を外側に探すからだ。神を探すなら内側に求めよ。こころの中に帰れ。
この「こころ」について、山本氏は、日本語の「肚」を当てると分かりやすいと言う。「頭で神をわかろうとしてはならない。…「肚」で神を直観するのだ。言葉のすっかり落ちた、すなわち言語作用がすっかり麻痺した非活性化した根源的な〈沈黙〉の内に、生身で〈ことば〉を直感する。それが〈沈黙の祈り〉だ」。
「言語」ではない。深い〈沈黙の祈り〉。肝で感じ、流れにまかせる。やわらかな神の愛に、身をゆだねてゆく。空っぽの祈り。幸せな無関心。「あらゆる区別が消え去った」静寂者。…
どうやらこの女性は「無知で天真爛漫」と形容される人であったようである。…幼子のように無垢でいること。しかも「〈あなた〉」(神)の「愛」に満ちている。山本氏は書いている。「…〈あなた〉の〈愛〉の濃密な香りが芬々(ふんぷん)としている。むせかえるようだ。」」(「…」は沖村による省略)
こういう言い方が許されるならば、聖霊、霊なる神は、人間の外側にではなく、心の内側に働きかけてくださる、実に控えめな神なのです。たとえ、わたしはここにいるとはっきりとアピールしなくとも、わたしたちの背後に、わたしたちの中にいつもいてくださり、わたしたちを支えてくださる方なのです。
■文字は殺し、霊は生かす
パウロは、この聖霊の働きこそ新しい契約のしるしだ、と言います。6節、
「神はわたしたちに、新しい契約に仕える資格、文字ではなく霊に仕える資格を与えてくださいました。文字は殺しますが、霊は生かします」
なぜ、文字は殺すのか。文字とは何でしょうか。モーセ律法、十戒のことです。神が与えてくださったものです。神が人に与えてくださった良いものが、人を殺すなどということがあり得るだろうか、と不思議に思われるかもしれません。
もちろんパウロは、律法は悪いもので人を殺す、と言いたいわけではありません。律法、十戒は良いものです。しかしイスラエルの歴史を振り返れば、分かります。イスラエルの民はモーセを通して、十戒を始めとする律法を神から与えられました。与えられたその時、律法を守れば祝福される、しかし律法を守らなければ呪われるという契約を結びました。
イスラエルはどうなったでしょうか。祝福された時がなかったわけではありません。しかし不遇の時代、辛い時代の方がずっと長かったのです。なぜでしょうか。預言者たちが言うように、イスラエルが律法を守らなかった、いえ、守れなかったからです。律法を守らなければ、契約の呪いがイスラエルに下る。大国に攻められ、侵略され、搾取されることが繰り返されました。それは、律法、すなわち文字を守れなかったからでした。
「文字は殺し」と言った時、パウロはそんなイスラエルの歴史を思い起こしていたに違いありません。自分の力では律法を守ることのできなかった彼らに必要なのは、彼らを助け、律法を守る力を与える神の霊でした。神の霊が彼らに降るとき、彼らは新しい力を得、律法を正しく行えるようになるはずでした。しかし、約束の霊はイスラエルには降りませんでした。聖霊が降るためには、イエス・キリストが十字架に架かって、神と人との執り成しをする必要があったからです。
パウロは、わたしたちは今や、聖霊が信じる者一人ひとりに降る時代、キリストの時代、新しい霊の時代に生きている、わたしたちは、その神の霊、新しい契約に仕える者なのだ、と言います。
■霊に仕える
パウロはそのことを、モーセを引き合いに出して説明します。7節から8節、
「ところで、石に刻まれた文字に基づいて死に仕える務めさえ栄光を帯びて、モーセの顔に輝いていたつかのまの栄光のために、イスラエルの子らが彼の顔を見つめえないほどであったとすれば、霊に仕える務めは、なおさら、栄光を帯びているはずではありませんか」
何の話かと思われるかもしれませんが、これは、旧約聖書出エジプト記の出来事を踏まえています。出エジプト記34章29節から35節です。少し長いのですがお読みします。
「モーセがシナイ山を下ったとき、その手には二枚の掟の板があった。モーセは、山から下ったとき、自分が神と語っている間に、自分の顔の肌が光を放っているのを知らなかった。アロンとイスラエルの人々がすべてモーセを見ると、なんと、彼の顔の肌は光を放っていた。彼らは恐れて近づけなかったが、モーセが呼びかけると、アロンと共同体の代表者は全員彼のもとに戻って来たので、モーセは彼らに語った。その後、イスラエルの人々が皆、近づいて来たので、彼はシナイ山で主が彼に語られたことをことごとく彼らに命じた。モーセはそれを語り終わったとき、自分の顔に覆いを掛けた。モーセは、主の御前に行って主と語るときはいつでも、出て来るまで覆いをはずしていた。彼は出て来ると、命じられたことをイスラエルの人々に語った。イスラエルの人々がモーセの顔を見ると、モーセの顔の肌は光を放っていた。モーセは、再び御前に行って主と語るまで顔に覆いを掛けた」
これを踏まえて7節以下を書いています。そしてパウロは、神の言葉、十戒を伝えたモーセの務めを「つかのまの栄光」と呼び、続けて「死に仕える務め」と書いています。これは、当時のユダヤ人にとっては、冒瀆と思えるほどのショッキングな言葉だったでしょう。ユダヤ人にとって最大の英雄はモーセです。その彼の務めを「死に仕える務め」と呼ぶのです。
なぜか。十戒、律法の言葉は、福音の言葉には及ばないからです。9節「人を罪に定める務め」に留まってしまうからです。
しかし、パウロたちに与えられたのは、人々の罪を裁く言葉ではありません。2章にあったパウロの言葉で言えば、人々を悲しませる、罪を犯している者を悲しませるのではなくて、恵みにあずからせる、そのようにして慰め、励ますことのできる務めです。
それを9節では「人を義とする務め」と言い換えています。「人を義とする」とは、人を神との正しい関わりの中にもう一度呼び戻すということです。罪がいいかげんにされるのではありません。罪はそこで明らかにされ、裁かれるのです。しかし、また赦されるのです。
赦されて、神との正しい交わりの中に立つことができるようになる、そんなことがパウロにできるのでしょうか。神と罪人の間の取り次ぎをすることなど、もちろんだれにもできません。そうすることができるのは、ただイエス・キリストだけ。そして、そのイエス・キリストの救いをわたしたちのところに取り次いでくださる、聖霊の働きだけです。
「霊は生かす」とは、わたしたちの霊のことを語っているのではありません。6節で「霊に仕える」とパウロがはっきり語っているように、この霊にわたしたちは仕えるだけです。わたしたちが聖霊を自由に使いこなす、というのではありません。
わたしたちはときに、そういうとんでもない考え違いをすることがあります。神の霊は信じる者の願い通りに動いてくださるかのように思ってしまうのです。しかしそれは、恐るべき罪です。
わたしたちは霊に仕えるだけです。自由なのは聖霊です。自由に吹く風のようなその霊が、わたしたちを自由に用いてくださるのです。そのことを、わたしたちはただ信頼して待つよりほかない、信頼して待てばよいのです。
わたしたちは神の霊に仕えるのです。その霊が今ここに働くとき、例えばこの礼拝を通して、わたしたちの存在を神との新しい契約の中に導き入れ、そこに置いてくださるのです。
■栄光に包まれて
そんなすばらしい務めを、パウロは「栄光」という言葉を重ねるようにして語り、わたしたちの心に深く刻みつけます。栄光のわざです。11節、
「消え去るべきものが栄光を帯びていたのなら、永続するものは、なおさら、栄光に包まれているはずだからです」
この栄光に包まれているのは、他のだれでもありません。パウロその人です。パウロは、モーセが包まれていた栄光よりももっと確かな永続する、束の間ではない栄光の中にわたしたちは置かれているのだ、と言います。
パウロがモーセよりも立派な顔をしていたとか、堂々たる姿であったとか、そんなことではありません。パウロが身に纏(まと)っていた衣装の方がモーセが身に纏っていた衣装よりもすばらしい輝きを帯びていた、というのでもありません。後世の聖職者たちが身に纏ったような輝くような祭服をパウロが身に纏っていなかったことは明らかです。イエスさまと同じように、埃にまみれていたことでしょう。貧しい衣装を身につけていたかもしれません。
けれどもパウロは、自分たちが栄光の中に立っていると知っていました。霊に仕える務めを担うパウロの現実の働きは、栄光に満ちたものというより苦難に満ちたものでした。そのことはパウロ自身がだれよりも知っていました。しかし、パウロの苦難はイエスさまご自身の苦難を反映したものであり、それゆえにこそ栄光に満ちたものだった、とパウロは語るのです。
ここに逆説があります。イエス・キリストの苦難の人生、そしてパウロの苦難の人生のどこに栄光があるのか。しかしその苦しみの中でも、人のため生き、自分を呪う人のためにすら祈る姿、そこに確かに栄光があるのです。それはこの世のものではない、神の栄光です。
7節には、モーセについて「彼の顔を見つめえないほどであった」と記されています。この栄光がわたしたちにも輝いている。満ち満ちている。人々が仰ぎ見ることができないほどの輝かしい栄光が、信じる者を包み、その言葉を生かしている、と言うのです。
そんな喜びの言葉が、今日、ここに集められたわたしたちをも生かしています。わたしたちもそのことを信じているからこそ、自分の語る言葉が人を殺す文字、人を裁くばかりの言葉となっていないか、そのことをいつも深く、真実をもって吟味しなければなりませんがしかし、その深いところで確信を持って、ゆるしと慰め、愛と恵みの言葉をもって、歩み続けることができるのです。
わたしたちが自分のことを、自分の言葉をそういう思いで吟味するとき、実に、今もここに霊によって与えられている、神の愛と福音の喜びとその栄光に満ちていることに、わたしたち自身が改めて気づかされ、新しく生かされるという体験をします。なんとすばらしい恵みでしょうか。感謝して祈ります。