≪説教≫(おとな向け)
■違和感
ウクライナへのロシア軍の侵攻が始まって2か月が経った4月下旬、こんな報道が耳に飛び込んできました。「ロシアは侵攻以降、占領地域および親ロシア派支配地域の人々をロシアに強制移住させている。ウクライナ当局によると、その数は最大で50万人にのぼる」。これを聞いたとき、9年前の終戦記念日8月15日に、テレビ「奇跡体験!アンビリバボー」で放映された「収容所から来た遺書」というタイトルの番組のことを思い出しました。
第二次世界大戦が終局を迎えようかという1945年、山本幡男(はたお)は一家で日本を離れ、中国東北区―満州にいました。終戦間近のこと、彼は兵舎にまで面会にやって来た妻モジミにそっと耳打ちをします。「日本は戦争に負けるだろう。子どもを連れ日本に帰るように」。そして「これからの時代、教育が子どもたちの一生の財産になる」と、こどもたちの教育を妻に託して戦地へと向っていきました。
それから2か月後、日本は敗戦。妻は、夫と連絡がとれないまま、4人の子どもを抱えて何とか帰国を果たし、女手一つでなりふり構わず働きました。
終戦から7年、安否のわからなかった夫から便りが届きます。そのハガキは、当時のソ連から送られてきたものでした。満州にいた多くの日本人兵士たちは、終戦後、ソ連の捕虜となり、収容所で強制労働を強いられていました。それでも妻は、元気そうな夫の言葉に胸をなで下ろしました。
ところが、それから3年後のこと。夫が遠いシベリアの地で亡くなったという知らせが届きます。亡くなったシベリア抑留者は現地で埋められ、遺書や遺品も没収されるケースがほとんどでした。何も分からないまま、紙切れ一枚で知らされた夫の死。悲しみの中にうずくまるほかありませんでした。
それからさらに1年半が経ったある日、突然、夫とシベリアで一緒だったという男が訪ねてきました。見知らぬ男が持って来たのは、亡くなった夫・山本幡男の遺書だと言います。内容は確かに、夫が書いたものに間違いなさそうでした。がしかし、妻にとってその遺書はあまりに違和感のあるものでした。その筆跡が夫の字とは明らかに異なっていたからです。
■句会
ハバロフスクに『ラーゲリ』と呼ばれる強制収容所が立ち並んでいました。冬には雪が吹きつけ、気温がマイナス30度にも及ぶ極寒の地での、1日10時間を超える重労働。しかも、朝夕の食事はわずかなお粥と粗末な黒パンが一切れ支給されるだけ。そんな地獄のような生活を、およそ60万人もの日本人が強いられていました。抑留期間中の死亡者数は6万人を超えると言われていますが、その内の80%の人が1945年から1946年にかけての最初の二年の間に亡くなっています。
終戦から4年後、ソ連政府は「捕虜全員の帰国を完了した」と公式に発表しましたが、ハバロフスクの収容所には、まだ多くの日本人が残されていました。「ソ連に忠誠を誓えば、帰国できる」、そんな根も葉もないウワサも流れ、日本人同士の密告、裏切りも日常茶飯事。彼らの脳裏には『絶望』の二文字以外、何もありませんでした。
野島信介も、そんな地獄に送られた一人でした。彼はハバロフスクに移送された直後、知り合いの折田から手製の本を渡されます。著者は、山本北瞑子。収容所内では、日本語のメモ書きを持っているだけで重大なスパイ行為とみなされ、独房に監禁され、いのちを落とす人も少なくありません。そんな中、手製の本を発行することなど、自殺行為に思われました。野島は恐怖心から本を読むことができませんでした。
ある夜、野島は山本に声をかけられます。山本北瞑子とは、山本幡男のペンネームでした。山本は野島を俳句の句会に誘います。野島は、なぜそんな危険なことをしているのか、と山本に尋ねます。山本の答えは「みんなでダモイ(帰国)した時、日本語を忘れてたら、かっこ悪いでしょ」というものでした。帰国できると本気で思っているのか、野島は驚き、あきれました。
数日後、野島が句会の様子をのぞき見ると、そこには、見たこともないような光景がありました。山本を中心に、集まった面々が仲良く笑い合っているのです。当然見つかれば、ただでは済みません。山本は、なぜ危険を冒してまで句会を開くのか。なぜ、あんなに嬉しそうにできるのか。野島は山本の本を読んでみることにしました。その本には、「故郷への想い」が切々と綴られていました。終わりの見えない、過酷な収容所生活の中で、野島は空を見上げることなど一度もありませんでした。ただ絶望していたのです。山本の本を読んで、初めて空を見上げる気持ちになりました。
山本の本を渡してくれた折田は、希望を持つことが大切なのだ、と野島に言います。訝しがる野島に折田は、「まあ、そのうちわかりますよ、あの人に毎日、ダモイ、ダモイって耳元で言われたら…」と呟きます。地獄を見て来た野島は、それでもまだ、山本の言う夢のような話を信じる気にはなれませんでした。
■遺書
そんなある日、彼らの運命を変える出来事が起こります。1953年3月、ソ連の最高指導者スターリンが死去。国家体制がにわかに大きく変化し始めました。それから3か月後、戦犯として収容されていた長期抑留者が日本に送還されることになりました。ところが、帰国が許された者は全体のおよそ半数にしか過ぎません。それでも、山本は希望を捨てず、残ったメンバーを励まし続けました。
しかしこの時、山本の身体に異変が起きていました。当初、中耳炎かと思われた病状がどんどん悪化。検査の結果、末期の咽頭癌だと判明します。すでに手遅れでした。
このままでは、大切な家族に何も伝えられないまま、山本は死んでしまう。句会のメンバーは、山本に遺書を書いてもらおうと決意。「万一の時のため、ご家族に伝えたいことがあれば、書いてください」と一冊のノートを渡します。そのとき、山本は何も答えませんでした。翌朝、彼が仲間たちに返したノートには、気力を振り絞って綴られた家族に向けた切々たる思いが、15ページにもわたって記されていました。遺書を書いてからわずか2週間後、山本は45歳という若さで、この世を去りました。
句会のメンバーたちは、「山本の思いを必ず日本に届けよう」と決意します。しかし、収容所内では頻繁に抜き打ち検査が行われ、遺書の安全な隠し場所などどこにもありません。その時のことです。あの野島が、みんなで分担して全て記憶しようと提案。そして自分もまたそれに参加したいと申し出ます。
それぞれが、山本の4つに分かれた15ページにもわたる遺書を書き写し、自分が担当した部分を一言一句、全て暗記する。それは危険な賭けでした。もし、遺書の写しが発見されたが最後、スパイ行為を働いたとして、一生帰国できなくなる恐れがあったからです。それでも、彼らは信頼できる人間に秘密を打ち明け、作戦への協力を頼みます。全ては、絶対に遺書を日本に届けなければならない、という思いからでした。半年が過ぎ、1年が過ぎました。いのちがけの闘いでした。すでにシベリアに連行されて10年あまりが経っていました。
山本幡男の死から2年、ついにその時がやってきます。1956年10月、日ソ共同宣言が調印され、戦犯として収容されていた日本人抑留者全員の釈放と帰国が、急遽決定したのです。その年のクリスマスイブ。最後のシベリア抑留者を乗せた帰還船が、日本に向けて出港。終戦から実に11年が経っていました。
そして、その1か月後、遺書を記憶したメンバーの一人が山本の住所を探し当て、ようやく、念願だった遺書を届けることができたのでした。妻は「やっと謎が解けました」と告げます。話を聞くまで、なぜ遺書が夫の字で書かれていないのか分からなかったのです、とお礼を言う妻に、彼はこう告げます。
「この遺書の言葉に僕らがどれだけ救われてきたことか。だからこそ、あの地獄を生き抜いてこれたんです。山本さんの遺書が、僕たちを生きて、日本に帰してくれたんです。」
■共に苦しみ、共に喜ぶ
今日のみ言葉、22節に「被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっている」とあります。
被造物。信じるものも信じないものも、人間も動物も、すべての生物も無生物も…、すべてのものが無に引きずり込まれるような思いを抱いている、とパウロは語ります。虚無が支配するとは何と恐ろしいことでしょうか。しかし確かに、現代を生きる多くの人の心の中にも、そんな重苦しい思いがあるのではないでしょうか。多くの人々が人間関係に疲れ果て、自分自身に絶望しかけています。いつ果てるとも知れない争いやいのちを奪い合う凄惨な光景を目の当たりにする度に、多くの人が、先が見えないと感じ、将来に暗闇を、この世界に虚無を見ています。
しかし少なくとも、神様はわたしたち被造物が虚無に服している、そのことをよくご存じだ、とパウロは語ります。もしも神様がその状況を知っていてくださるのなら、わたしたちが無の中に滅んでいくことをそのままにされることなど決してありえません。21節、
「被造物も、いつか滅びへの隷属から解放されて、神の子供たちの栄光に輝く自由にあずかれるからです」
この世界はいつの日か、虚無の支配から、空しい争いから、いのちを押しつぶそうとするあらゆる抑圧から解放されるでしょう。とはいえ、わたしたち被造物はなお、しばらくの間、うめき、苦しまなければならないかもしれません。なお忍耐しなければならないかもしれません。そうであったとしても、わたしたちには、孤独に苦しむのではなく、「共に」苦しむことがゆるされています。そして「共に」苦しむことの中には、力があり、喜びがあります。
さきほどご紹介したように、想像を絶する絶望の中にあってなお、山本幡男の言葉が、遺書が、救いであり、希望であったように、そして先ほどの讃美歌に、「われら主にある ひとつの家族、青い地球の 神の世界で、共に苦しみ 共に喜ぶ」(『讃美歌21』369)と歌われているように、「共に」苦しむことの中にこそ、力があり、喜びがあり、希望があるのです。
島崎光正という詩人がいます。身体に障がいを負い、車椅子で生活をされていた人です。たくさんの詩集を出しておられます。そのひとつ、処女詩集『故園』の中に「冬の手帳」という、とても素敵な詩があります。その冒頭部分、
「からたちの刺よ/お前もゆうべの雪をつもらせているね
青いちいさな刺よ/お前も重さを知っているね
松葉杖をつきながら私がそばを通ったのだよ」
ここにも、共に苦しみ、共にうめく姿があります。この詩を読むまで、からたちの刺が、雪の重さを知ってうめいているなんて、考えたこともありませんでした。松葉杖をついて、からたちの側を通る人だけが、自然の中にある、うめきを聞き取ることができるのかもしれません。逆を言えば、島崎は、からたちの刺までが自分のうめきを共にしていてくれることに、深い慰めと喜びを感じていたのでしょう。
わたしたちもまた、毅然として担うべきものを担って、あがなわれる日を待ち望みたい、あの主キリストと同じ姿に変えられる時が来ることを待ち望みたいと願っています。しかしそのときまで、自分の苦しみだけを訴え、自分のことだけを大切にして、それだけで精一杯というのではありません。人のうめきに耳を傾け、「共に」苦しみを担うとき、わたしたちは「共に」喜ぶことができるようになる、とパウロは教えます。わたしたちには、そのことがゆるされているのだ、そう告げます。
そのことこそが「平和」への道だと思えます。たとえ、その道がどれほど遠く、狭く、険しく思えても、またどれほどの苦難の中にあっても、共にその苦しみを担い合うとき、共に心から喜び合うことができるという希望が、「アバ父よ」と呼ぶ日々が、今もわたしたちに与えられています。
この約束の言葉に感謝して、粘り強く平和への道を皆さんとご一緒に歩んで参りたい、心からそう願う次第です。