福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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9月11日 ≪聖霊降臨第15主日/教会創立記念礼拝≫ 『与えられたもの』 マタイによる福音書25章14〜30節 沖村 裕史 牧師 - 小倉東篠崎教会

9月11日 ≪聖霊降臨第15主日/教会創立記念礼拝≫ 『与えられたもの』 マタイによる福音書25章14〜30節 沖村 裕史 牧師

説教

■与えられた

 いのち生きるときに抱える如何ともしがたい悩みのひとつは、わたしたちが自分で選んだのではない条件で生きていかなければならないことです。

 『自閉症の僕が飛び跳ねる理由』という本をご存じでしょうか。13歳の一人の少年、それも重度の自閉症というしょうがいを負った東田直樹という少年によるものです。コミュニケーションを取ることなど到底不可能だと考えられていた自閉症児の心の内を初めて明らかにしたこの本は、世界28カ国30カ国語に翻訳され、自閉症の子どもを抱えて苦悩していた家庭や自閉症の専門家たちを始め、多くの人々に大きな驚きと希望をもたらしました。彼はこの本の序文に「僕たちの障害」と題して、こう記しています。

 「自分が障害を持っていることを、僕は小さい頃は分かりませんでした。どうして、自分が障害者だと気づいたのでしょう。それは、僕たちは普通と違う所があってそれが困る、とみんなが言ったからです。しかし、普通の人になることは、僕にはとても難しいことでした。

 僕は今でも、人と会話ができません。声を出して本を読んだり、歌ったりはできるのですか、人と話をしようとすると言葉が消えてしまうのです。必死の思いで、1~2単語は口に出せることもありますが、その言葉さえも、自分の思いとは逆の意味の場合も多いのです。また人に言われたことに対応できないし、精神的に不安定になると、すぐにその場所から走って逃げ出してしまうので、簡単な買い物さえも一人ではできません。

 なぜ、僕にはできないの…

 悔しくて悲しくて、どうしようもない毎日を送りながら、もし、みんなが僕と同じだったらどうだろう、と考えるようになりました。自閉症を個性と思ってもらえたら、僕たちは、今よりずっと気持ちが楽になるでしょう。みんなに迷惑をかけることもあるけれど、僕らも未来に向かって楽しく生きていきたいのです。

 僕は、会話はできませんが、幸いにも、訓練で、筆談というコミュケーション方法を手に入れました。そして、今ではパソコンで、原稿も書けるようになりました。でも、自閉症の子供の多くは、自分の気持ちを表現する手段を持たないのです。ですから、ご両親でさえも、自分のお子さんが、何を考えているのか全く分からないことも多いと聞いています。自閉症の人の心の中を僕なりに説明することで、少しでもみんなの助けになることができたら、僕は幸せです。…」

 「僕は幸せです」と語る彼と彼の家族を悩ませ、苦しめ続けた自閉症というしょうがいは、彼が選んだものでも、望んだものでもありません。ただ、「与えられた」としか言いようのないものです。それと同じように誰もが、この時代、この国、この家族のもとに、この顔と体、この性格と資質など、何某(なにがし)かの課題をもって生まれ、育ち、生きています。最初から、ある種の条件のもとに人生を歩み始めなければなりません。しかも、そうした条件がしばしば、「どうして…」「なぜ…」と思わず呟くほかない、わたしたちの悩み、苦しみの種となります。誰もが思い当たる悩み、苦しみです。

 そんな悩み、苦しみを抱えるわたしたちに、今日の「タラントンのたとえ」が大切な真理を教え示してくれます。

 

■それぞれの力に応じて

 ある人が旅に出かけるにあたって僕たちを呼び、一人には五タラントン、一人には二タラントン、一人には一タラントンを預けて旅に出たというところから、このたとえは始まります。

 タラントンというのは、ギリシアの重さの秤、通貨の単位で、一タラントンは六千デナリオン。一デナリオンは、当時の兵士の一人分の日当に相当すると言われます。現在の日当が八千円から一万円だとすれば、一タラントンは五千万円から六千万円ほどの、あまりに高額なので普通は使われなかったと言われるほどの単位です。二タラントンで一億から一億二千万円、五タラントンは二億五千万から三億円にもなります。確かに預けられた額に違いはあるものの、一番少ない一タラントンでも相当の額です。

 このことから分かることは、すべての人が神様からタラントンを与えられている、それも、多くの賜物を預けられ、だれもが期待され生かされている存在である、ということです。価値のない人生なんか一つもありません。一人ひとりが、実に価値ある、尊い存在なのです。

 哀しいかなそれでもなお、預けられたタラントンの違いが気になります。この違いはどこから出てくるのでしょう。15節に「それぞれの力に応じて」と書かれています。人間は決して公平、平等に同じようなものとして生きているのではない、五タラントン、二タラントン、一タラントンといった具合に全く違った能力を与えられ、それぞれに生きている、ということです。能力だけではなく、性格も、感性も、価値観も、環境も、一人ひとり全く違ったものとして、わたしたちは生きています。その違いは、わたしたちが思っているよりも遥かに大きく、深く、わたしたちはバラバラの状態で生きているかのようです。

 どうして、こうもバラバラなのでしょうか。それはバラバラに違ったものが、補い合い、認め合って生きていく、その調和し合う努力の中に、人間らしさが潜んでいるからです。みんなが全く同じなら、放っておいても調和するでしょう。そうではなくて、違ったものが思いやり合い、譲り合い、我慢し合い、理解し合って、組み合わさっていく、そういう調和の努力をするのが、人間だからです。みんなが金太郎飴のように同じ、死んだような平和ではなく、またみんなが単に違うだけの騒々しい分裂でもなく、互いに調和し合う努力をする。そこでこそ人間は、まさに人間になっていく。そう造られているからです。

 聖書は、この努力を「愛」と呼びます。W兄姉の結婚式の時にも申し上げましたが、「愛」は「好き嫌い」ではありません。好きには努力はいりません。しかし愛には努力が必要です。相手を思いやり、自分を反省し、互いのことを考えて我が儘を押さえる努力が求められます。だからこそ聖書では、愛は全て命令形で語られます。「互いに愛し合いなさい」「隣人を愛しなさい」「敵を愛しなさい」、全部命令形です。わたしたちが五タラントン、二タラントン、一タラントンと違うのは、愛をもってそれを乗り越えなさいと神が置かれた、わたしたちが人間になっていくための大切なハードルなのです。これを避けて、好きなことだけをしていると、人間は人間でなくなります。

 それだけではありません。そもそも、重さ10キロしか持つことのできない人が常時、50キロの荷物を抱えながら生きていかなければならなかったとしたら、これはとても辛い、シンドイことです。分不相応でしょうし、不幸です。イエスさまはここで、与えられているものの量によって評価などなさいません。むしろ「それぞれの力に応じて」タラントンの量が違っているのだ、と言われます。

 

■真実に生きる

 その上で19節以降、「さて、かなり日がたってから、僕たちの主人が帰って来て、彼らと清算を始めた」場面へと移ります。五タラントンを預けられた人は五タラントンを儲け、二タラントンを預けられた人は二タラントンを儲けました。ところが、一タラントン預けられた人は地の中に隠しておき、結果、その僕は外に追い出されてしまいます。

 思わず、そんな、と呟きそうになります。せっかく「それぞれの力に応じて」賜物を与え、愛に生きるようにと励ましてくださったのに、結局は、わたしたちの価値はやっぱり、成果や業績にかかっているのか、と思われるかもしれません。「働かざる者、食うべからず」ではありませんが、働かなかった者は切り捨てられる、そう読めなくもありません。そうなると、天の国も、この世の世界と同じ価値観が支配しているではないか、と思えてきます。

 しかし、ここで「成果」を挙げた人へ語りかけた主人、神様の言葉をご覧ください。五タラントンを倍にした僕に対しても、二タラントンを倍にした僕に対しても、主人は「忠実な僕だ。良くやった」と全く同じように誉めています。つまり主人は、十タラントン、四タラントンという商売をして得た結果で差をつけずに、与えられた賜物をそれぞれの力で精一杯、働かせて倍にしたという、その忠実さ、ギリシア語のままに訳せば、誠実さ、真実さに注目して、同じように誉めているのです。

 ということは、人生は結果を競うところではなく、いかに自分に与えられた力、賜物を、五は五なりに、二は二なりに、一は一なりに生かすか、その忠実さを問われているところだ、ということです。わたしたちは、すぐに人と比較して羨んだり、ひがんだり、逆に威張ったりしますが、そうではなくて、自分に与えられているものを生かして、自分らしい、自分ならではの生き方をすれば、それで良いのだということです。他と比べるのではなく、自分を生かすことに心を用いて生きる、与えられている賜物に誠実に、真実に生きる。これこそ、失ってはならない人間の真のプライド、誇りだ、ということでしょう。

 

■生きる喜び

 問題は、一タラントンの僕が、主人が厳しい人だから上の中に隠して置いたと言って、自分が何もしなかったことを主人の厳しさのせいにしていることです。

 彼は、とにかく一タラントンを任せられているのですから、他と比べれば少ないにしても、一タラントンを任せてくれた主人の信頼に応えるべきでしょう。一夕ラントンの能力しかないにしても、その自分を引き受けるべきでしょう。自分をきっちり引き受けて、人のせいにしない。これは、人として忘れてはならない生きる作法です。

 灰谷健次郎の書いた短編に『だれもしらない』という作品があります。主人公の麻理子ちゃんは、小さいときの病気がもとで、筋肉の力がふつうの人の十分の一くらいしかありませんでした。それで、歩くのに何倍もの時間がかかります。麻理子ちゃんは毎朝、養護学校へ行く通学バスがくるところまでのおよそ200メートルを、40分もかかって歩かなければなりません。そんな麻理子ちゃんを見て、「あれじゃ日が暮れる」とか、「あんな子、なにが楽しみで生きているのやろ」とか、冷たい言葉を口にする人もいます。

 しかし麻理子ちゃんは、その200メートルの間に、喫茶店のおねえさんとあいさつを交わし、ネコのクロと話をし、きれいな海を眺め、パン工場のいい匂いを嗅ぎ、木にとまっているハチを見つめ、マツバボタンに触れながら歩くのです。たった200メートルしか歩かないのに、実にたくさんの人や自然と話をすることができるのです。

 麻理子ちゃんは、自分のしょうがいを、そんな自分を恨むことも嘆くこともなく、また誰彼の責任にすることも非難することもせず、ただそれを引き受けることによって、与えられたタラントンがたとえ僅かなものに見えても、そのタラントンによって十分に生かされ、自分に、また人に喜びをあたえる生き方をしています。

 一タラントンの僕に欠けていたのは、タラントン—才能や能力ではなく、与えられた小さなタラントンを誠実に生かそうとすることでした。人としての喜びに満ちた、幸せな生き方とは、自分を引き受けて、人のせいにしないところにあるようです。

 五タラントンの人と、二タラントンの人に向けて語られた主人の言葉をもう一度思い出してください。「主人と一緒に喜んでくれ」とありました。神様がわたしたちにタラントンを預けられた大きな目的は何でしょうか。それは、この「主人の喜びを共にする」ためでした。小さな子どもが台所で、お母さんのお手伝いをする時、満足します。大きな喜びに満たされます。お母さん一人ですれば、時間もかからず、美味しく仕上がる料理ですが、あえて子どもに手伝わせます。手間もかかり、効率もよくないかもしれません。でも、そうします。なぜか。作る喜び、作った物を家族が食し喜び合う幸せを、子どもと一緒に分かち合うためです。「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう。主人と一緒に喜んでくれ」とは、そうした意味でした。

 

■他者を生かす

 この後、26章から受難物語へと移ります。イエスさまが十字架につけられて殺されることになります。このたとえを聞きながら、決して忘れてはならないことに気づかされます。それは、その十字架の出来事は、愛の出来事、わたしたちが生かされていくための、いのちをかけた愛の出来事だったということです。イエスさまがその十字架の死を目前にして、今、タラントンのたとえを語っておられます。一人ひとりに託されているタラントン、神様がわたしたちに与えてくださった尊い宝は決して、自分ただ一人を生かすためのものではありません。もっと大切な、真実な生き方を期待して、イエスさまは与え、託しておられるのです。その預けられたタラントンを用いて、どのように他の人々を愛し、どうしたら他の人々を生かすように使っていくことができるのか、まさにイエスさまは、十字架を通して身をもって、ご自分のいのちをもって示してくださったのでした。

 わたしたちの教会の前身―小倉美以教会に遣わされた金子卯吉牧師の言葉が思い出されます。1900年、「九月二四日 教報二七四号に金子卯吉牧師が小倉近況として」記したものです。

 「…我教会は八、九人の信者を有し一ヶの家族的小團体を形作りたり、小生は毎週門司、馬鬨、大里、城野、北方等の二、三里若しくは四、五里の地方に傳道に出かけ申候 求道者も五、六人相生じ申候 苦しき中にも喜ばしきものは、傳道職にて御座候 神の道を傳へ死生をキリストと共にするものゝ生涯程愉快なるものは無しと存じ候」

 「苦しき中にも喜ばしきもの…死生をキリストと共にするものゝ生涯程愉快なるものは無し」。預けられた賜物を神様にお返ししなければならないときが来るということを忘れないように、とイエスさまは言われます。わたしたちは、その日をどのようにして迎えるのか。その日、わたしたちは喜んで神の御前に進み出ながら、「主よ、本当に感謝でした。あなたからお預かりしたものを精一杯用いさせていただきました。今、あなたにお返しします。本当にありがとうございました」、そう喜びをもって告白できる人生を求めて、先達たちに倣いつつ、この一週間も歩んでいきたい、そう願う次第です。