福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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9月10日 ≪聖霊降臨節第16主日礼拝≫『キリストに抱かれて』コリントの信徒への手紙一 3章1~9節 沖村 裕史 牧師

9月10日 ≪聖霊降臨節第16主日礼拝≫『キリストに抱かれて』コリントの信徒への手紙一 3章1~9節 沖村 裕史 牧師

 

■霊の人と肉の人

 パウロがここで「あなたがたには乳を飲ませ、固い食物を与えなかった」と語っているのは、いったいどういうことなのでしょうか。

 そのことを考えるヒントとなるのが、2節後半の言葉です。あなたたちには乳を飲ませて、固い食物は与えなかった。それは「まだ固い物を口にすることができなかったからです。いや、今でもできません」とあります。あなたたちは今でもまだ、固い物を食べることができない。あなたたちが信仰者となり、この教会が生まれてから、もうずいぶんと時が経つのに、いまだに乳飲み子のままで固い物を食べることができないでいる。あなたたちは成長できていない。パウロはそう言います。

 そう言いながら、パウロが見つめているのは、3節のことです。

 「相変わらず肉の人だからです。お互いの間にねたみや争いが絶えない以上、あなたがたは肉の人であり、ただの人として歩んでいる、ということになりはしませんか」

 「肉の人」という言葉は、一節にもありました。「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々」。「肉の人」とは、まだ固い物を食べることのできない乳飲み子のことです。そして、その「肉の人」が「霊の人」との対比で語られています。「肉の人」と「霊の人」とは、2章14節以下の「自然の人」と「霊の人」のことです。「霊の人」とは、神からの霊、聖霊を受けて、神の恵みを知らされている人ということでした。それに対して「自然の人」というのは、神からの霊を受けておらず、従って神の恵みを悟ることができずにいる人のことです。口語訳聖書の「生れながらの人」です。人間は誰もが元々は「自然の人」で、神の恵みがわかっていませんでした。そこに神からの霊が与えられることによって初めて、神の恵みを知ることができるようになった。それが霊の人です。

 「肉の人」とは、この「自然の人」のことです。生まれながらの普通の人間ということです。3節に、肉の人は「ただの人として歩んでいる」とあります。「ただの人」とありますが、「ただの」という言葉は原文にはありません。直訳すれば「人として歩んでいる」です。生れながらの普通の人間のままに生きている、それが「肉の人」です。

 

■ねたみ争い

 では、肉の人、生れながらの人間であるということが、どこに表われるのか。「お互いの間にねたみや争いが絶えない」ことの中に、です。

 パウロがこの手紙を書き送った第一の理由はここにありました。4節にも記される、分裂と争いがあるということこそ、あなたたちがまだ肉の人であり、乳飲み子のような状態に留まっているということだ、そう言います。

 ここでパウロが、この党派争いのことを「ねたみや争い」と言っていることに注目してください。党派を結んで対立し合っていくことの根本には、「ねたみ」の思いがあるものです。ねたみとは、人をうらやむ心です。人が自分よりもよいものを持っていると面白くないという心です。それはお金や持ち物だけのことではありません。才能、財力、あるいは家庭環境、性格、健康など、あらゆることに及びます。とにかく、人が自分よりも勝っている、優れていることが腹立たしいという思いです。自分がその人よりも劣っていることを思い知らされ、プライドを傷つけられるからです。

 誰もがプライド、誇りをもって生きています。それを自分の心の拠り所としています。そのプライドを傷つけられることは、その人にとってナイフで切りつけられるよりも大きな苦痛となります。人を殺すのにナイフは要りません。拠り所としている誇り、プライドを徹底的に否定すればよい。それは、その人を殺すことと同じです。人はそのようなプライド、誇りに生きています。そこに、ねたみが生まれます。

 そういう思いがねじ曲がった仕方で、人と人とが結びついていきます。そこでは、自分のプライドが守られ、満足するようなグループが作られます。それが党派です。そういう党派は必ず閉鎖的になります。よそ者が入って来て、自分たちのプライドが傷つけられることを嫌います。自分と違う意見が語られると、プライドを傷つけられ、人格を否定されたかのように感じてしまい、些細な違いがプライドとプライドの衝突の原因となります。プライドによって結び合う党派は、他のプライドによって結び合う党派と対立し、そこに「争い」が生まれます。そんなグループ同士の対立、争いがコリント教会にあったのでしょう。

 パウロは、そのようなねたみや争いがあるということは、あなたがたが肉の人であり、乳飲み子の域を脱していないからだ、と言います。自分のプライドにこだわり、「ねたみや争い」に陥っていくのは、生れながらの人間の姿そのものです。神の霊を受け、信仰を与えられて生きる者は、そのようなことから解放され、新しくされているはずだ、パウロはそう言うのです。

 

■十字架の愛を知るなら

 信仰者はねたみや争いから解放される。これは、信仰者たる者、自分の心を磨き、人のことをねたんだり争ったりしない者になるべきだ、という道徳的な教訓の話ではありません。パウロが問題としているのは、そうした人間的な努力のことではなく、コリント教会の人々が、神からの霊によって示される神の恵みを、本当に自分のこととして受けとめていない、そのことです。

 神からの霊によって示される神の恵みとは、これまで繰り返し語られてきた、十字架につけられたキリストという恵みのことです。神がその独り子をこの世に遣わしてくださり、その十字架の死によってわたしたちすべての罪を赦し、贖ってくださったという恵みです。神がそれほどまでにわたしたちを愛していてくださっているという恵みのことです。

 この恵みが本当にわかる時、わたしたちは、ねたみの思いから解き放たれます。プライドにこだわる必要がなくなるからです。わたしたちを愛し、わたしたちの罪を背負って、いのちを捨ててくださった方の中に、真実の拠り所、確かな支えを見出すことができるからです。キリストの十字架に示された神の愛を本当に知った者には、拠り所、支えを自分自身の中に確保しておこうとする必要などありません。と同時に、どちらがより優れているかと、自分と人とを比べようという思いからも解放されます。自分より優れた、よい賜物を持ち、よい働きをしている人を、自分のプライドが傷つけられるという思いで見るのではなく、その人の働きを喜び、感謝して受け入れる者とされます。それは、自分の努力によってそうするというのでなく、イエス・キリストの十字架の恵みを本当に自分のこととして受け取ることで、わたしたちはそのように新しくされていくのです。

 コリント教会の人々は、この新しさに生きることができていませんでした。そのために、ねたみや争いが起こり、党派の対立が起こってきたのです。そのような状態を指してパウロは、あなたがたはまだ乳飲み子で、乳しか飲むことができない、固い物を食べることができない、と言っているのです。

 パウロは、キリストの十字架による神の恵みを繰り返し、繰り返し語りました。十字架の恵みとは別の、何かもっと分かりやすい、初心者向きの教えを語っていたというのではありません。ということは、乳を飲んでいるというのは、同じキリストの十字架による神の恵みが語られているのに、それが聞く人自身のものになっていない、その人の生き方を変えるようなものになっていない、その状態を指していることになります。とすれば、乳と固い食物の違いは、語られていることの違いではなく、それを聞き、受けとめる側の違いによって生じてくる、ということになります。問題は、わたしたちがみ言葉をどう聞き、どう受けとめているか、ということでした。

 

■キリストに抱かれた乳飲み子

 その意味で、パウロが教会の現状について、「まだ成長していない」と言っていることに、深い意味があります。

 考えてみれば、このような内部対立、3節の言葉で言えば、「お互いの間にねたみや争いが絶えない」といった状況は、果して、信仰の成長が足りないから起こっていることなのか、むしろ信仰のあり方が根本的に間違ってしまっているからではないのか。とすれば、今ここで語られるべきは、信仰の成長ではなく、信仰の間違いを悔い改めて正しい信仰に立ち帰れ、という勧めであるべきではないか。ところが、パウロは今、あなたたちはまだ乳飲み子だ、信仰においてもっと成長してほしい、と語っています。

 なぜか。ひとつには、この教会の人々に対するパウロの深い愛情ゆえだ、と言ってよいでしょう。1節の「肉の人、つまり、キリストとの関係では乳飲み子である人々」という言葉が、それを表しています。「キリストとの関係では」とありますが、この「関係では」という言葉の原文は、「~の中にある」です。「キリストの中にある乳飲み子」というのが直訳です。パウロは、いつまでも乳飲み子のままで成長しない、ねたみと争いに陥っているコリント教会の人々を、「キリストの中の乳飲み子」、さらに言えば「キリストに抱かれた乳飲み子」として見つめているのです。

 み言葉を乳としてしか聞くことができていない。キリストの十字架に示された神の恵みを表面的にしか受けとめることができず、生れながらの人間の思い、ねたみや争いをひきずってしまっている。そういう者たちはもはや、キリストにおける兄弟姉妹ではないと断罪しようというのではありません。

 いつまでも乳飲み子の域を脱することのできないコリント教会の人々をも、神は慈しみのまなざしをもって見つめておられる。だから、ちゃんと固い食物を食べることのできるおとなになりなさい。いつまでも肉の人、生れながらの人間のままではいけない。そう語りかけながら、パウロもまた彼らを、キリストの腕に抱かれている乳飲み子として慈しんでいるのです。

 コリントの人々に初めてキリストの福音を伝え、教会の礎を築いたパウロにとって、彼らは自分が生んだこどものようなものです。そのこどもが過ちに陥っている。それをパウロは「おまえたちは間違っている」とただ叱りつけるのではなく、まだ成長が足りない、おとなにならなければ、と愛をもって諭しているのです。

 

■成長させてくださるのは神

 しかし、パウロがここで「成長」という言葉を用いている理由は、それだけではありません。パウロは、5節でこう言っています。

 「アポロとは何者か。また、パウロとは何者か。この二人は、あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者です」

 「何者か」とありますが、これは「誰か」という問いではなく、「何か」という問いになっています。パウロやアポロがどのような人物かではなく、そもそも何なのか。その本質を問うています。その答えが、「あなたがたを信仰に導くためにそれぞれ主がお与えになった分に応じて仕えた者」でした。「仕えた者」は「奉仕者」とも訳されます。あなたたちは、「わたしパウロにつく」「わたしはアポロに」などと言っているけれど、そのパウロやアポロは「奉仕者」に過ぎない。しかもその奉仕自体が「主がお与えになった分に応じて」なされたものだ。その奉仕はいずれも、自分の思いで行なったことではなく、神によってそれぞれに割当てられた働きなのだ、ということです。その割り当てられた働きの違いが、6節の「わたしは植え、アポロは水を注いだ」ということです。パウロには植えるという働きが、アポロには水を注ぐという働きがそれぞれ、神から与えられ、その与えられた奉仕をしたに過ぎない。そのように神が用いてくださって、神ご自身があなたがたを成長させてくださったのだ。そうパウロは言うのです。

 これは謙遜ではありません。6節から7節に、「成長させてくださったのは神」、「成長させてくださる神」と繰り返されます。信仰を成長させてくださるのは神。そのことをパウロは強調します。それは、自分で自分の信仰を成長させていくのではない、ということです。コリント教会の人々の陥った間違いは、そこにありました。

 

■神の畑、神の建物

 では、信仰の本当の成長とは、どのようなことなのでしょうか。

 パウロはここで、「植える」とか「水を注ぐ」という言葉を用いて、信仰を、畑で作物を育てることになぞらえています。種を蒔き、苗を植えたのはパウロで、そこに水を注いだのはアポロです。それでは、コリント教会の人々は何にたとえられているのでしょうか。

 9節後半に「あなたがたは神の畑」とあります。教会の人々、信仰者たちは「畑」です。このことが大切です。わたしたちはともすれば、植えられ、育てられている苗、作物が自分たちのことだ、と考えてはいないでしょうか。作物であるわたしたちが、いろいろな指導者によって植えられ、養われ、育てられて、やがて立派な作物として実を実らせていく。それがわたしたちの信仰の成長だ。そういうことを目指さなければならない、と考えます。

 しかしパウロは、あなたがたは作物ではなく、畑だと言います。では、神の畑である教会、わたしたちにとって、植えられ、育てられ、実を結んでいく作物とは何なのでしょうか。マルコによる福音書4章に記される、イエスさまが語られた「種蒔きのたとえ」を思い出してください。種がいろいろな地に落ちる、落ちた地が悪いとそれは実を結ばない、よい地に落ちるなら何十倍もの実を結ぶ、とありました。そこでも、土地がわたしたちのことであり、様々な土地の違いがわたしたちの違いを意味していました。そしてそこで蒔かれる種とは神のみ言葉である、とイエスさまは解き明かされます。

 信仰において育ち、実を結んでいく作物は、わたしたちではありません。わたしたちの中で、神のみ言葉が育ち、豊かな実りを生んでくださるのです。神のみ言葉がわたしたちに蒔かれ、育てられていくために、パウロやアポロのような奉仕者の働きが用いられますが、彼らは神に用いられているのであって、わたしたちの中でみ言葉の種を成長させ、実らせてくださるのは、どこまでも神なのです。

 パウロはさらに、「あなたがたは神の建物なのです」と言います。このたとえでも、家を建てているのは神であって、わたしたちではありません。畑のたとえも建物のたとえも、神がわたしたちの中で、わたしたちを用いて、み業を行なってくださるのだ、そう教えているのです。

 

■人生は神の働き場

 信仰の成長とは、わたしたちが向上し、立派な、優れた者になっていくことではありません。またそういう成長を、わたしたちが何かをすることで、例えば優れた指導者のもとにグループを作ることで、獲得するようなものでもありません。わたしたちは、神がみ言葉の種を蒔き、それを養い育て、豊かな実りを生み出そうとしてくださっている、神の畑です。また神が招き集めて、救いにあずかる者たちの群れ、キリストの体である教会を建て上げてくださっている、その神の建物です。

 そう、わたしたちの人生は、神が働いてくださる場所、神の働き場なのです。神の働き場として、恵みのみ業のフィールドとして、神の畑、神の建物として、自分に与えられている日々の生活を生きるようになることこそが、わたしたちの信仰の成長なのです。言い換えるならば、信仰の成長とは、わたしたちがなす働きが大きく立派になっていくことではなく、神がわたしたちの内でなしてくださるその働きが大きくなっていくことなのです。

 神が、様々な奉仕者を用いてみ言葉を伝え、キリストの福音を示してくださることによって、わたしたちの信仰は植えられ、養われ、成長していきます。「み腕に抱いてくださるキリスト」の愛、「成長させてくださる神」の働きに気づかされ、そのもとに立ち続けることによって、わたしたちは、信仰によって自分がより優れた者になるという錯覚から救われます。信仰の成長を自分の力で獲得できるという間違った思いからも解放されます。すべては神のみわざです。そこにこそ、争いや対立から解放された、本当に成熟した、霊の人としての歩みが与えられていくのです。そのことに感謝して祈ります。