■どうして…
わたしたちには、人生に対していろいろと注文があります。そして思い通りに、万事順調という人も時にはおられるかも知れませんが、そうは行かないという思いを持っている人も少なくないでしょう。いえ、誰もが心の底に、そんな思いを抱いているのではないでしょうか。
真面目に、こつこつと丁寧に生きているのに、思いがけないことに遭遇する。そして、一切がご破算。「どうしてこんなことになったのか」、「どうして、わたしがこんな目に遭わねばならないのか」、「同じ状況にいたのに、どうしてわたしだけに起こり、他の人には何事も起こらなかったのか」、人生の不可解に直面してたじろぎ、「どうして、どうして」と問わざるを得ないことが、しばしばです。
でも、「どうして」という問いを出すということは、問えば分かるはずだという前提があってのことです。だけど、よく考えてみてください。人生は人間の理解で答えが見つかるもの、そう考えることほど傲慢なことはないのではないでしょうか。
■答えのない人生
思えば、イエスさまがお生まれになった時にも、「どうして」という事件が起こりました。
「さて、ヘロデは[救い主誕生のいきさつを知らせるように頼んでいた]占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた」(マタイ2:16)
ベツレヘム近辺の二歳以下の男の子が、ヘロデ王の恐れと怒りの飛ばっちりで、皆殺しにされたという話です。神が人間を救おうとしてくださったばかりに、こんな筋の通らない無残なことが起こったのです。イエス・キリストは救いをもたらすためだけに来られたのではありませんでした。人の世は解答不能な問いそのものであることを、明らかにするためにも来られたのでした。
また、イエスさまは十字架の上で最後にこう叫ばれました。
「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(同27:46)
イエスさまの人生最後の言葉は、答えではなく、問いでした。考えてみれば、イエスさまの誕生によって幼児皆殺しという解答不能な問いが起こり、その最後の十字架上の言葉も答えのない問いであったということは、問いを突きつけられ、問いを抱いて生き、問いを抱いたまま死ぬのが人生というものだ、そう聖書が語っているように思えてなりません。
人生とは、「どうして」と問えば答えが分かるようなものではありません。そうではなく、そういう答えのない人生の只中に、問うても分からない人生の真っ只中に、そこにイエスさまの誕生があり、そこにイエスさまの十字架が立っているのですから、その「どうして」と問わざるを得ない、そここそが、イエスさまの共におられるところであり、まさにわたしの、わたしたちの引き受けるべき人生なのだということなのでしょう。
■人生をあるがままに
さきほどのコヘレトの言葉にも、こうありました。
「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた。それでもなお、人は神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」(3:11、口語訳)
「永遠を思う」というのは、時間を超えた、遥かな遠い世界に思いを馳せるということではなく、日常の生を問い直して、人生の本質とは一体何か、究極的な人生態度は何かを問うこと、つまり「どうして、どうして」と問うことです。しかしその答えは「神のなされるわざを初めから終りまで見きわめることはできない」とあるように、分からないということです。
わたしたちは、自分の意思でも願いでもなく、気づけば、いのち与えられ、人生を与えられて、与えられた以上は死ぬまで生きなければならない、そんな存在です。言うならば、わたしたちの人生、いのちは、わたしの手の中にはない、授(さず)かりものなのです。ですから、分からないことが起こっても、それは当然であり、「どうして」と問うて、すべて分かり得るとするのは、むしろ、永遠を思わない人の、永遠を知らない人の自惚(うぬぼ)れというものでしょう。その不可解を受けとめ、背負って生きる、その注文のなさこそが、永遠を思う心を与えられた人間に最もふさわしい、と言わなければなりません。
もちろん、生活のいろいろの段階で注文をつけ、改善し、計画を立て、工夫をし、より良い暮らしを求め、自分の力を生かして向上していくことの大切さは言うまでもありません。しかし、生活のレベルでは、そうであるにしても、人生のレベルでは、わたしたちは注文をつけることはできないのです。ただ、受けとめるだけです。それが、生かされ生きている人間のけじめです。
ですから、注文を引っ込めて、置かれた状態を受けとめる時、人間ははじめて、永遠を思う姿、本来の姿、究極の姿に落ち着くのです。そしてそれが、注文を引っ込めて、お任せしたときに見える世界―救いというものの内実、中身なのです。救いとは、問題が解決することでも、苦悩を脱出することでもありません。そうではなくて、苦しい悩みの状態をそのままに、「これがわたしの人生だ」と注文をつけずに受け取れるようになることなのです。
■今を大切に
それこそ、神が、イエスさまがわたしたちに与えられる救いでした。救いとは、いろいろ不満も注文もある自分の人生がそのままに、まさに自分の生きるべき人生なのだ、と気づかされることです。どんな人生を生きるようにされても、自分の人生に注文をつけず、これがわたしの人生だと受けとめ、置かれたその場所で花を咲かせようとすることです。
言い換えれば、「今」を大切にする、ということです。もちろんそれは、希望を失い、達観を決め込んで、ただ諦め、ただ空しさの中に日々を生きるということとは、まったく異なるものです。ともするとわたしたちは、ぶつぶつ自分の人生に不満を呟き、運命を呪い、注文をつけ、そのために今日という一日、今というこの時を、どんなにおろそかに空しく過ごしていることでしょう。そしてストレスを溜め込んでいることでしょうか。
今がよく見える。今を本当の意味で大切にする。過ぎたことを悔いず、明日のことを思い煩わず、不安といらだちに苛まれることなく、今日をしっかり生きられたら、それは、わたしにとっての人生が、あるがままの本来の姿で見えていることなのであり、それこそが、まことの救いなのではないでしょうか。
■重みのままに咲く
以前、川﨑正明さんという同窓の先輩からお聞きした話です。
東京にいた頃、ハンセン病療養所をしばらく訪問していたことがあります。たくさんの入所者の方の苦渋の体験を伺いましたが、特に宮城県出身のSさんのことを、今も思い出します。Sさんはハンセン病を患ったことで、とても深い悩みの中におられましたが、ある日、星野富弘さんの詩画集『鈴の鳴る道』の詩を読んで励まされた、と話してくれました。
「何のために
生きているのだろう
何を喜びとしたら
よいのだろう
これからどうなるのだろう
その時 私の横に
あなたが一枝の花を
置いてくれた
力をぬいて
重みのままに咲いている
美しい花だった」
Sさんは涙を流しながらこう語られました。
「詩の前半の言葉が自分の姿だった。最後の三行に心を打たれた。『力をぬいて、重みのままに咲いている花』。自然のままに、あるがままに生きるという意味の言葉が心の中に響いている」と。
Sさんのその涙を思い出しつつ、自分の人生を考えさせられました。今、わたしという、いのちのあるがままを生きることの意味を考えています。生死について、キリスト教の答えはただ一つ、「人間の生死は、神のみ手に中に収められている」ということです。そう、「神のなされることは皆その時にかなって美しい。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた」のです、と。
神に、イエス・キリストに出会うとき、わたしたちの悩みや不安は、今を大切にし、与えられた人生を受け入れ、そして永遠を思う心へと変えられます。時に理不尽にも思える人生がそのままに、これがわたしの人生だ、と思えるようになります。自分を咲かせる場所はここなのだ、ここしかないと受けとめられるのです。
今日、わたしたちに差し出されている救いとは、そういうものなのでしょう。感謝して、祈ります。