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9月21日 ≪聖霊降臨節第16主日礼拝≫『落胆しない』 コリントの信徒への手紙二 4章 1~ 6節 沖村 裕史 牧師

9月21日 ≪聖霊降臨節第16主日礼拝≫『落胆しない』 コリントの信徒への手紙二 4章 1~ 6節 沖村 裕史 牧師

 

■憐れみゆえに落胆しません

 パウロは冒頭1節にこう書き記します。

 「こういうわけで、わたしたちは、憐れみを受けた者としてこの務めをゆだねられているのです」

 パウロは、どんな憐れみを受けているのでしょうか。「憐れみを受ける」というと、不幸な境遇にいる人が誰かから憐れみを恵んでもらっていることと思われるかもしれません。しかしパウロがここで言っていることは、そういうことではありません。ここでパウロは、かつて自分が教会を迫害していたという事実について、憐れみを受けたと言っています。テモテへの第一の手紙1章13節にこうあります。

 「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした。しかし、信じていないとき知らずに行ったことなので、憐れみを受けました」

 パウロはイエス・キリストを信じる前は、教会を迫害する者でした。パウロが荒くれ者だった、というのではありません。むしろパウロは、イエスさまを救い主キリストと信じる前の自分について、「律法の義については非の打ちどころのない者」だったとさえ言っています。回心前のパウロは律法に忠実で、品行方正なユダヤ教徒でした。彼はキリスト教のことを、ユダヤ教の危険な異端だと見ていました。異端を斥けることは良いことだと信じ、多くのクリスチャンを捕らえ、拷問し、処刑しました。

 その事実について、パウロは、憐れみを受けた、罪が赦された、と言うのです。キリストの教会を迫害した者がキリストを宣べ伝える者になるという、普通ではあり得ないようなことが起きました。そのことをパウロは、ただ一方的に、何の値もなしに与えられた神の憐れみ、愛の神による赦しと呼ぶのです。

 そしてその憐みのゆえに、パウロは「落胆しません」と言います。

 「落胆しません」。いい言葉だ、うらやましいと思う人もおられるのではないでしょうか。なぜなら、わたしたちの人生が―神を信じていようが信じていまいが―落胆との戦いという面があるからです。

 子どものころから、たくさんのがっかりする体験をしてきました。友だちと遊んでいても、かくれんぼやメンコで負ければがっかりするし、がっかりして泣いてしまうこともありました。学校に行くようになると、運動でも勉強でも喜んだりがっかりしたりします。大人になればなったらで、例えば学校の先生にでもなれば、自分の生徒に大きな期待をかけ過ぎて、その分がっかりしたりします。親になれば、子どもに期待をかけて同じような思いをすることもあるでしょう。仕事に失敗して、がっかりした経験をされた方もあるでしょう。家族であれ、職場であれ、友人であれ、周りにいる人との付き合いにつまずいて、心底、がっくりくることもあるでしょう。がっかりした経験のない人というのは、ひとりもいません。誰もが体験することですがしかし、がっかりしたそのときに、そこからどのように立ち上がるかで、人の生き方がずいぶん違ってくるということに気づかされるようにもなります。

 パウロが「落胆しません」と言うときも、それは、自分は落胆した体験などないということではありません。パウロもがっかりする、落胆するような目にあっていました。

 では、何に対して落胆しませんと言っているのか。一つには、パウロが受けている苦難に対してです。そしてもう一つは、人々がパウロの福音に耳を貸そうとしないことに対してです。そのことに落胆しないと言います。

 パウロの宣教は基本的には、実り多いものだったと言えるでしょう。パウロは、フィリピやテサロニケ、コリントやエフェソなど、地中海世界の大都市に次々と教会を起ち上げ、新しい信徒を得ています。これは素晴らしい成功だと言えますが、それ以上に実は、多くの人々からの拒絶も経験しています。パウロの語ることをあざ笑ったり、あるいは、しばらくは耳を傾けてもやがては去って行ってしまった人もたくさんいました。しかしパウロは、その中でも福音伝道者として落胆しなかった、勇気を失わなかった、と言うのです。

 パウロは、自分がまっすぐに福音を伝えたことを強調するために、悪い模範、反面教師のことを列挙します。2節、

 「卑劣な隠れた行いを捨て、悪賢く歩まず、神の言葉を曲げず、真理を明らかにする」

 おそらくパウロはここで、自分のことを悪く言うライバルの宣教師たちのことを念頭に置いています。前にも言いましたが、パウロは献金を横領している、といった中傷を受けていました。パウロという人は、とても強い人であったとは思いますが、自分に対する批判には人一倍傷つきやすい、そういう繊細さを持った人だったとも思います。パウロはたまに過剰と言えるほどに自分を弁護するようなところがありますが、それは繊細さの裏返しであったようにも思われます。パウロは自分の良心においても、行いにおいても、後ろ指さされるようなやましいことは何もない、自分は誠実にまっすぐに神の福音を伝えているのだ、とここでも改めて強調しています。

 

■空気という覆い

 しかし、そんなパウロの誠実で必死の呼びかけにもかかわらず、なぜ多くの人たちは福音に耳を傾けようとはしないのでしょうか。それは、パウロの語る福音に覆いが掛かっている、より正確には、覆いが掛けられてしまっているからだ、とパウロは言います。3節から4節、

 「わたしたちの福音に覆いが掛かっているとするなら、それは、滅びの道をたどる人々に対して覆われているのです。この世の神が、信じようとはしないこの人々の心の目をくらまし、神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光が見えないようにしたのです」

 では、だれが覆いを掛けているのか。パウロは「この世の神が」と言います。これを直訳すると、「この時代の神」ということになります。この時代の神とは、もちろん唯一の神、創造主なる神のことではありません。むしろ、神に敵対する霊的な勢力の頭、サタンとか悪魔と呼ばれる存在のことでしょう。サタンというのがどうもイメージしづらいという方は、「時代の空気」「この時代の精神」というふうに捉えてもよいかも知れません。

 わたしたちは見えない空気に支配されています。わたしたちは空気を読まなければいけません。空気を読むことを求められます。その空気を読み違えると、周りから浮いてしまい、仲間外れになります。ですから必死に空気を読もうとします。でも、この「空気」とは一体何なのでしょうか。空気は見えませんし、とらえどころがありません。しかし、それが存在しないかといえば、そうではないのです。確かに、その場を支配する空気というものがあり、わたしたちはその空気に流され、時には意識してそれに積極的に従おうとします。

 例えば「福音」です。福音の「福」とは、幸福の「福」です。わたしたちに幸福な喜びをもたらす言葉です。そういう言葉を聞きたいと思うとき、わたしたちはしばしば、自分が期待する幸せ、幸福、喜びにこだわり、それにぴったり合う言葉だけを、「ああ、これこそ福音だ」と聞いています。福音を伝える側も同じような誘惑に陥りがちで、人々が聞きたいと思っている言葉はこういう言葉だろうな、それなら、それに合わせてこういうふうに語ったらいいな、といった誘惑がいつもあります。

 経済的な豊かさ、自立すること、人より優れていること、快適であること、効率的・簡単なこと、等々。そうすると、神の言葉が曲がるのです。悪賢くなるのです。真理が明らかでなくなるのです。何よりも福音を宣べ伝える者が、卑劣な隠れたことをするというのは、本当の福音の言葉をそっとどこかで曲げて、人の気に入るようなものにしてしまうということです。それが、「わたしたちの福音に覆いが掛かっている」という言葉の意味です。

 パウロが「この世の神」と呼んだ存在も、そういうものです。それは目に見えませんが、なんとなく福音に耳を傾けることを拒ませるような、そういう空気なのです。その空気に覆われてしまった人には、福音の光が見えない、あるいは届かない、とパウロは言います。空気という名の覆いに覆われてしまった人は、それに抗うことができなくなっていきます。

 小島誠志という牧師が書いた「空気を読まない生き方」という一文があります。

 「わが国は、ファシズムの戦前から、敗戦を契機にして戦後は急激に民主主義に転じたという。…ファシズムに抗しての民主主義とは少数者の声が聞かれることだと思う。ファシズムの下で踏みにじられてきた少数者の声、叫び。

 日本において民主主義はそういうふうには受け取られてこなかったと思う。むしろ民主主義は多くの人間の声が作用する社会だと受け取られてきたように見える。『多数決』である。最大多数の最大幸福というわけである。その原理が蔓延した結果、少数者の声は聞かれなくなった。

 KYという言葉が…すっかり日本社会に定着してしまった。『空気が読めない』という言葉の略だという。会社であれ地域であれ学校であれ、その場の雰囲気を理解できずに行動したり発言したりする人間を批判する主旨で用いられている言葉である。…

 福音書の中に、悪霊につかれた男がキリストに出会った時のことが記されている。キリストに出会った時、男の中の悪霊が叫ぶのである。自分たちを追放するなら、あそこにいる2千匹の豚の中へ追放してくれ、と。キリストが2千匹の豚の中へ悪霊を追放する。すると2千匹の豚は一勢に駆け出し、岸壁から湖の中に飛び込み溺死した、と記されている。

 悪霊の正体が描かれている。悪霊は群れになるのである。…自分の分別判断ができないで、人々の動向に従うのである。人間が滅びるのは一緒に走って一緒に滅びる。

 悪霊を追い出してもらった男は『服を着、正気になってイエスの足元に座って』いたと記されている。救い主に向き合うひとりの人間になって、人は初めて『正気』なのだ、ということを忘れてはならない」

 そんな思いを込めて、パウロは2節、「神の御前で自分自身をすべての人の良心にゆだねます」。

 

■見て、知って、造りかえられる

 そう、イエス・キリストと出会い、その姿を見るとき、その覆いが取り去られるのです。

 パウロは4節で、「神の似姿であるキリストの栄光に関する福音の光」と言っています。「似姿」という言葉の原語は「アイコン」です。神のアイコンであるキリスト、その栄光を見るときに、覆いは取り去られます。この「アイコン」という言葉は、3章の終わりにも出ていました。その18節に、わたしたちクリスチャンは「主と同じ姿」に造りかえられていくという言葉がありますが、この「姿」という言葉の原語も「アイコン」です。キリストは神のアイコンであり、わたしたちもそれと同じアイコンへと姿を造りかえられていく、これこそが福音、キリスト教の福音です。

 では、そのアイコンとはどういう意味でしょうか。アイコンという言葉は今や日本語にもなっていますが、その正確な意味というのは結構難しいものがあります。それを思い切って定義するなら、シンボルといってもよいでしょうか。たとえば、パソコンの画面に出てくる小さな画像のことをアイコンと呼びますが、そのアイコンを押すことで、あるソフトウェアあるいは機能が呼び起こされます。それと同じように、「神」という人間には見ることも触ることもできない超越的な存在を、イエスさまを見ることで知るようになる、神の姿と人格が浮かび上がってくる、それが、イエスさまが神のアイコンであるということの意味です。だから5節、

 「わたしたちは、自分自身を宣べ伝えるのではなく、主であるイエス・キリストを宣べ伝えています。わたしたち自身は、イエスのためにあなたがたに仕える僕なのです」

 パウロは切々と訴えます。わたしたちはイエス・キリストを見ることで、神を知るようになります。そうしてわたしたちを覆うこの世の空気は取り去られ、わたしたちは神を見る、神を知るようになり、新しく造りかえられるのです。そのためにこそ、わたしたちは、キリストの福音を告げ知らせ、僕、奴隷のようにあなたたちに仕えているのです、と。

 

■光あれ

 パウロはそのことを繰り返すようにして、最後6節でドラマティックに語っています。

 「『闇から光が輝き出よ』と命じられた神は、わたしたちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えてくださいました」

 パウロはここで、創世記1章を念頭に置いています。創世記によれば、「光あれ」と神が言われると、光がありました。同じように、神がわたしたちの心の中に光あれと言われると、わたしたちの心に光が射し、わたしたちの心は照らされ、心の目が開かれ、物事がはっきりと見えるようになります。

 しかし、神がわたしたちの心に光あれと言われるというのは、実際にはどういうことなのでしょうか。わたしたちの心の中に、突然「光あれ」という神の声が響くということでは、どうもなさそうです。むしろ、この「光あれ」と神が言われるということは、わたしたちがイエス・キリストの福音を聞くことの、比喩的な表現であると思われます。わたしたちが福音を聞き、そのメッセージに心を開くとき、わたしたちの心に光が射すのです。あなたは神からいのち与えられたかけがえのない存在、あなたはあるがままで神に愛されているという福音は、その意味で光のようなものです。わたしたちの暗い心を照らしてくれる光なのです。

 パウロは、自らの福音伝道は人々の心に光をもたらすものだ、と語ります。人々の心は、この世の神による覆いに覆われてしまっています。この覆いによって、人々はイエス・キリストの福音の光を見ることから妨げられてしまっています。しかし、イエス・キリストの福音がまっすぐに語られ、人々がその声に真摯に耳を傾けるとき、覆いは取り除かれます。パウロの務めとは、このように人々の心の覆いを取り除き、神のアイコン、神のイメージであるキリストの光で、人々の心を照らすことでした。

 そしてパウロは、このキリストの福音を、言葉だけではなくその行動で、その生き方そのもので示そうとしました。そのようにしてわたしたちが今ここにあるのも、イエス・キリスト、そしてパウロのおかげなのです。そのことを感謝しつつ、祈りましょう。