福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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9月24日 ≪聖霊降臨節第18主日礼拝≫『わたしたちの土台』コリントの信徒への手紙一 3章10~17節 沖村 裕史 牧師

9月24日 ≪聖霊降臨節第18主日礼拝≫『わたしたちの土台』コリントの信徒への手紙一 3章10~17節 沖村 裕史 牧師

 

■教会の土台は人生の土台

 「わたしは、神からいただいた恵みによって、熟練した建築家のように土台を据えました」

 パウロが、熟練した建築家として建物の土台を据えた、その建物とは何でしょうか。直前9節に「あなたがたは神の畑、神の建物なのです」とありました。あなたがた―コリントの教会の人々が「神の建物」です。

 その建物には土台があります。建築したことのある人は、土台づくりがいかに大変なことかを知っています。建築の依頼主は、土台にどれほどお金がかかるのかを聞いて驚きます。土台がしっかりしていないと、家が傾いてしまいます。土台について、イエスさまも山上の説教の最後に語っておられました(マタイ7:24-27)。雨が降り、川があふれ、風が吹いて家を襲うとき、土台が岩の上にあるか、砂の上にあるかで、被害の差が明白になります。土台の手抜き工事くらい困ることはありません。しかし、この肝心の土台は、完成すれば建物の下に隠れ、人目につかなくなります。大切なものほど人目につかないのだ、ということを土台は教えてくれます。その土台をわたしが据えたのだ、とパウロは言います。

 パウロが「あなたがたは神の建物である」と言う時に、そこで考えられている建物とは、もちろん建築物としての会堂のことではなく、神の民として生きている人々、教会の群れのことです。その教会の群れが神の建物であり、その群れのメンバーである信仰者一人ひとりが、その建物を形作る部分です。その部分であるわたしたち一人ひとりが土台の上にしっかりと立っていなければ、この建物は成り立ちません。教会の土台は、そこに連なるわたしたち信仰者の土台でもある、ということです。パウロが熟練した建築家のように据えた教会の土台が、わたしたちの人生の土台にもなるのです。

 では、教会の土台であり、わたしたちの人生の土台でもある、パウロが据えた土台とは、いったい何なのでしょうか。

 

■家を建てるわたしたち

 パウロは今、自分のことを「熟練した建築家」と呼んでいます。「熟練した」というのは「知恵ある」という意味の言葉です。ずいぶんと大胆な言い方です。しかしこれは、自分の働きを誇っているのではありません。パウロの働き、土台を据えたのは、「神からいただいた恵み」によるものでした。自分の知恵や才覚で土台を拵(こしら)えたわけではありません。11節に「イエス・キリストという既に据えられている土台」とあります。教会の土台であり、同時にわたしたちの人生の土台として据えられているのは、イエス・キリストでした。それを宣べ伝えたということです。

 ところが、続く10節の後半、自分の据えたその土台の上に他の人が家を建てている、とパウロは言います。それは、コリント教会の土台を据えたパウロが去った後、いろいろな人が来て教会を指導し、その土台の上に教会を築いていった、そのことを指しています。

 わたしたち信仰者一人ひとりの人生も同じです。わたしたちは、洗礼を授けられて、イエス・キリストという人生の土台を据えられますが、その土台の上に、教会、牧師、兄弟姉妹、友人、家族など様々な人との出会いや交わりを通して、それぞれに異なった家が建てられ、わたしたちの人生が築かれていきます。据えられた土台の上にどんな家が建つのか、人生が築かれるのかは、わたしたちと、また、いろいろな人たちとの出会い、交わり次第です。

 同じことが教会についても言えます。神の建物である教会を建てるのは、パウロとかアポロといった指導者だけではありません。そこに連なる信徒一人ひとりがそれぞれの働きによって、教会という建物を建てていきます。いわば、わたしたちは、一人ひとりの人生においても、また教会においても、どのような家を建てるかを委ねられている、建築家のようなものです。

 だからこそ、10節の終わりにパウロは、「ただ、おのおの、どのように建てるかに注意すべきです」と、コリント教会の人々にそのことを意識させようとします。あなたたちは皆、家を建てる建築家のようなものだ。建築家たるもの、自分がどのように家を建てているかによくよく注意しなさい。そう言うのはもちろん、わたしたちが建て方を間違ってしまうことがあるからです。教会を建てるときに、それぞれの人生を建ち上げていくときにも、建て方を間違えてしまうことがあるのです。

 

■どの土台の上に建てるか

 では、どう建て方を間違えるのか。パウロは二つのことに言及します。

 その第一、最も大切なことは、どの土台の上に建てるのかということだと言います。11節「イエス・キリストという既に据えられている土台を無視して、だれもほかの土台を据えることはできません」。イエス・キリストという土台が既に据えられているのに、それを無視して、別の土台の上に建てるようなことがあってはならない、と言います。イエス・キリスト以外の土台を据えるとは、具体的にはどういうことなのでしょうか。

 もちろん、教会はキリストを信じる者の群れなのですから、例えば、お釈迦様の上に建ててしまうなどということは、いくらなんでもないでしょう。おそらく、パウロが据えたイエス・キリストとは違う、別のイエス・キリストを土台にしてしまうことだ、と考えられます。イエス・キリストを信じると言っていても、そこで見つめられているキリストが、パウロが宣べ伝えていたキリストとは、全く違ったものになってしまう、ということがあったのです。

 パウロが宣べ伝えていたキリストとは、2章2節に語られている、「イエス・キリスト、それも十字架につけられたキリスト」であったはずです。ところが、パウロが去った後、別のキリストが入り込んできたのです。それは、十字架抜きのキリスト―人間が模範となり、理想としてそれを追い求め、その教えを実践していくことで自らを高め、より良い人間となり、栄光を獲得しようとする、そんな偉人、ヒーローとしてのキリストであったと思われます。例えば、革命家としてのキリスト、治癒師―ヒーラーとしてのキリスト、小さく弱くされた者に寄り添う社会活動家としてのキリスト、愛の倫理を教える教師としてのキリスト、放浪の伝道者としてキリスト等々です。数え上げれば切りがありません。

 それは、分かりやすく受け入れやすいキリストです。そういうキリストがわたしたちの周囲にいるだけでなく、わたしたち自身がしばしば、キリストをそのような方として受けとめ、そのキリストを土台にして自分の人生を、また教会を建てようとしてしまうことがあるのです。

 しかしそれは、「パウロが熟練した建築家のように据えた土台」ではありません。パウロが据えた土台は、十字架につけられたキリストです。キリストが十字架につけられたのは、わたしたちの罪の赦しのためでした。わたしたちの罪が、もしも道徳的な教えによって自分で反省し改善し、向上していくことによって解決するようなものだったなら、キリストの十字架など必要なかったでしょう。しかしわたしたちの罪は、十字架によらなければ赦されないほど、深刻なものでした。だから神は、イエス・キリストの十字架の死を通して、限りない神の愛を示し、確かな救いの恵みをわたしたちに与えてくださったのでした。十字架のキリストに示されたその福音を信じて、神の愛と救いに我が身を委ねる。十字架につけられたキリストが土台であるというのはそういうことでした。

 

■どんな素材を用いて建てるか

 「どのように建てるか」、パウロが注意を促していることが、もう一つありました。どのような素材を用いて建てるか、です。

 12節に「この土台の上に、だれかが金、銀、宝石、木、草、わらで家を建てる場合」とあります。十字架につけられたキリストという正しい土台の上に建てるとしても、何によって建てるかで建物の姿はまったく変わってきます。ここに六つの素材が並べられていますが、前半の三つと後半の三つに分けることができます。「金、銀、宝石」と「木、草、わら」です。

 そして続いて「おのおのの仕事は明るみに出されます。…かの日が火と共に現れ、その火はおのおのの仕事がどんなものであるかを吟味するからです」と言われます。「かの日」とは、神がこの世のすべてを救いと滅びとに審かれる、終わりの日のこと、また「吟味する火」も、神による審きの火のことです。建てられた建物はその素材によって、その火に包まれても「残る」のか、それとも「燃え尽きる」のかが決まってしまうのだということです。

 ただここで注意いただきたいのは、どの素材であれば「残る」のか「燃え尽きる」のか、パウロが一言も触れていないことです。つまり、人間の目から見て、これは立派だ、すばらしいと思われ、評価されるだろう素材、例えば「金、銀、宝石」だからといって、神の審判に耐えられるとは限らないということです。いわゆる、功成(こうな)り名遂(なと)げた人生が、神の目に値高いわけではないということです。

 逆に、「木、草、わら」のような、社会の片隅で貧しく目立たない人生を送った人が、神の審判において残ることにとなるかもしれないのです。教会を建て上げていく上でも、たくさんの献金をしたり、優れた能力を持った人がすばらしい働きをすることは、人の目に見える部分を立派にするかもしれませんが、神の目から見て、本当に教会を建て上げていく素材はむしろ、病気や老いで寝たきりの人であったり、日々教会のことを覚えて人知れず祈る、執り成しの祈りだったりするのではないか、そう思わされます。

 なぜなら、終わりの日の神の吟味に本当に耐える素材を見分けるためのポイントは、神が既に据えてくださったあの土台、十字架につけられたイエス・キリストという土台と、その素材がしっかりかみ合うかどうかではないか、と思えるからです。土台とその上に建てられていく建物とがしっかりかみ合い、マッチしていることが大切です。十字架につけられたキリスト、つまり神がその独り子を与えてくださるほどにわたしたちを愛してくださった、その驚くべき愛の土台としっかりかみ合い、結び合う素材によって、自分の人生を、また教会を建て上げていくように、パウロはそう励まし、教えているのではないでしょうか。

 

■火の中をくぐり抜けて来た者のように

 わたしたちは果たして、わたしの人生を、またわたしたちの教会を、キリストの愛の土台にふさわしい、本当に残る、確かな素材で建て上げることができているでしょうか。わたしたちはいつも間違えてばかりいます。神の審きによって燃え尽きてしまうようなものでしか建てることができていません。建てるどころか、破壊するようなことばかりしているのではないかとさえ、思うことがあります。

 しかし、そんなわたしたちの心にまっすぐに深く響いてくる言葉が、ここに語られています。14節から15節です。「だれかがその土台の上に建てた仕事が残れば、その人は報いを受けますが、燃え尽きてしまえば、損害を受けます。ただ、その人は、火の中をくぐり抜けて来た者のように、救われます」。わたしたちの建てる建物は、建て方が悪ければ、素材が悪ければ、審きの火によって燃え尽きてしまいます。跡形もなくなってしまいます。しかしわたしたちが、たとえ、その火の中から、火事場から救い出された人のようであったとしても、救われるとパウロは言います。この審きの火は、わたしたちを焼き滅ぼす地獄の火ではない、ということです。わたしたちが、自分の人生で、また教会を建て上げるときに、建て方を間違え、神の審きに耐えないようなものしか建てることができなくても、焼き滅ぼされてしまうのではなくて、救いにあずかることができるのだ、と言います。

 なぜか。土台がしっかりしているからです。十字架につけられたキリストという土台の上にいるからです。イエス・キリストがわたしたちのすべての罪を背負って十字架にかかって死んでくださった、その恵みの中にいるからです。十字架につけられたキリストという土台の上にある限り、わたしたちは、終わりの日の審きの火をくぐりぬけて、復活されたキリストの新しいいのち、永遠のいのちにあずかることができるのです。わたしたちが建てる人生の建物が、また教会が、どんなに欠けの多い、問題に満ちた、燃え尽きるしかないものであっても、十字架につけられたキリストという土台の上に建てられている限り、主の救いは揺るがないのです。

 

■共にあるという土台

 だから、何も恐れることはありません。16節から17節、パウロは問いかけます。「神の霊があなたがたの内に住んでいる」、あなたがたは「聖なるもの」、神によって十字架につけられ、復活されたイエス・キリストという揺るぎない土台に据えられた「神の神殿」だ、そのことを知らないのかと問いかけます。

 この「内に住んでいる」という言葉は「共にある」とも訳されます。母がこどもと共にある、家族が共にそこにあるように、神があなたと共にある、神の霊(息)があなたの中に共にある、ということです。パウロは最後に励ますようにして、教会にもいろいろな問題があるだろうし、メンバー一人ひとりにも神から与えられている賜物は様々で、それぞれに違ってもいるだろう、それでも、教会が「あるということ」の中に、一人ひとりが「あるということ」の中に、神の永遠の風、霊が「共にある」のだ、と言います。

 そして最後に、「あなたがたはその神殿なのです」という言葉で、今日の言葉を閉じます。肉として生きるわたしたちですが、そのわたしたちの内に神の霊が共にあるということ、神によって生かされている力がどんな状況のときにも力強く働いているということです。とすれば、失敗したら滅ぼされてしまうとビクビクしながら生きる必要はありません。むしろ、キリストという愛の土台の上に、み心にかなう家を建てるために、喜びと希望をもって励んで歩んでいくことができるはずです。感謝して、祈ります。