≪説 教≫
■受難への道
「一行がガリラヤに集まったとき」とは、イエスさま一行がガリラヤに戻って来られたとき、ということです。領主ヘロデの迫害を逃れ、ガリラヤ湖をひと回りぐるりと巡り、最北の地フィリポ・カイサリアにまで行かれたイエスさまの一行が、今、ガリラヤに戻って来られました。イエスさまの命を狙うヘロデは、いまなお健在で、殺意も消えていません。そのような状況の中、一行が再びガリラヤに集結したのは、なぜだったのか。
この後、ヨルダン川沿いに南下して、受難が待ち受けるエルサレムにお入りになる、新たな旅を始めるためでした。そのときの様子を、マルコは「一行はそこを去って、ガリラヤを通って行った」(9:30)、ガリラヤを通り抜けてその先へ向かって行かれたと記し、ルカは「イエスは、天に上げられる時期が近づくと、エルサレムに向かう決意を固められた」(9:51)と、ここから十字架への歩みが始まったことをはっきりと描いています。受難と復活の出来事をすでに知っている福音書記者たちにとっては、当然の描写とも言えます。
しかし、弟子たちには受け入れがたいことでした。あの山上の説教の折に、祈りは必ず聞かれると断言され(7:7-11)、死人さえ甦えらせることのできる方として登場されたイエスさまです(9:18-26)。ほんの少し前、弟子たちは山の上で白く輝く栄光のイエスさまの姿を目撃し、てんかんの子どもを癒すという驚くべき業を目の当たりにし、さらには「からし種一粒ほどの信仰があれば」山をも動かすことができる、何でもできると教えてくださったばかりです。そのイエスさまが、エルサレムで殺されることになっている、と繰り返されます。
それは、全面的な敗北宣言ではないのか。「からし種一粒ほどの信仰があれば」何でもできるというあの言葉と、この敗北宣言―二つの言葉を、どう理解すればよいのか。弟子たちは「非常に悲しんだ」と記されています。その深い悲しみに包まれている中、24節以下、神殿税にまつわる話が始まります。
■神殿税
「一行がカファルナウムに来たとき、神殿税を集める者たちがペトロのところに来て…」
「ペトロのところに来て」というのですから、そこはペトロの家だったのでしょう。その家で、熱に苦しみ寝込んでいたペトロのしゅうとめをイエスさまが癒され、彼女からもてなしを受けられたこともありました(8:14以下)。今も、イエスさまは、そのペトロの家におられます。
そこに神殿税の取り立て人たちがやって来ました。イエスさまの一行はこの時までガリラヤ周辺を巡って、放浪の旅を続けていましたから、カファルナウムに戻って来たところに彼らがやって来たのは、単なる偶然だったのか、それともその時を待ち構えていたのか。
彼らは、応対するために外に出てきたペトロに訊ねます。
「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」
「神殿税」という言葉は、原文では、単に「二ドラクメ」です。一ドラクメは労働者一日分の賃金ですから、二ドラクメは二日分の労賃に相当します。
当時、ユダヤの20歳以上の男子は、毎年、二ドラクメを神殿税として納める定めでした。その起源は、遠くモーセの時代にさかのぼります。出エジプト記30章11節以下によれば、イスラエルの民に属する20歳以上の男子は、会見の幕屋―つまり聖所の費用に当てるために、半シェケルを神に捧げることが義務付けられていました。これは本来、「生命(いのち)の贖(あがな)い」としての捧げものでしたから、金持ちも貧しい者も同じいのち、同じ額を納めることになっていました。これが神殿税の起源です。
納期がやって来ると、村の世話役が税を集めて回ります。これは、神殿を中心とする信仰共同体の一員であることの証しであると共に、人々が神の祝福のうちに生きるしるしと見なされていましたから、もしそれを納めなければ、その年、その人にどんな災難が降りかかるか分からない。彼らはそう信じていました。納めない人は当然、不安を抱えて生活したでしょうし、取り立てをする人も、「あなたの罪は赦されないし、その罰がくだるのを覚悟しなさい」と脅していたかもしれません。
■神の子ども
その取立人がやって来て、「あなたたちの先生は神殿税を納めないのか」と、ペトロに訊ねたのです。
当時、人々は神殿祭儀を中心とする信仰に生きていました。律法に定められた掟に従って、毎年神殿税を納め、過越祭や仮庵祭には神殿に参り、生け贄を献げ、神に祝福と平安を祈りました。
しかしそこに、まことの信仰と救いはあるのか。イエスさまは、「わたしは人間の手で造ったこの神殿を打ち倒し、三日あれば、手で造らない別の神殿を建ててみせる」(マルコ14:58)、「神殿よりも偉大なものがここにある。もし、『わたしが求めるのは憐れみであって、いけにえではない』という言葉の意味を知っていれば、あなたたちは罪もない人たちをとがめなかったであろう」(マタイ12:6-7)と言い切られ、「こう書いてある。『わたしの家は、祈りの家と呼ばれるべきである。』ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にしている」といって神殿から商人を追い出され(21:12)、さらには神殿の崩壊を予告されました(24:2)。イエスさまは、神殿祭儀を中心とする形骸化した信仰を痛烈に批判しておられたのです。
しかし人々は、もし神殿税を納めなければわざわいを招き、世間から何を言われるか分からない、そうした恐れから神殿税を納めていました。二ドラクマ、二日分の労賃です。安くはない金額です。しかし仮にそのお金を惜しんだら、神様との間にいざこざが起こるかもしれない。ひどい目に遭わせられたら困るし、世間の目もあるから仕方ない。人々は、自由な信仰心からではなく、わざわいへの恐れと世間の目に囚われて、神殿税を納めていました。
昔々の話というのではありません。以前仕えていた地方の教会でのこと。町内の一斉清掃が終わり帰ろうとしていると、数人のご婦人方に呼び止められました。何を言われるか、見当はついていました。町内会の組長辞退への批判です。みんな組長は好きでやっているわけじゃない、沖村さん、持ち回りでやっていただくのが筋ですよ、と言われます。わたしはお答えしました。特定の宗教法人である神社のお祭りのための献金集めや、町内会費の何割かがその神社に何の確認もなく支払われていることに納得がいきません。現在の町内会を混乱させるつもりもありません。ご迷惑をかけることになるのなら町内会から脱会します。ただし、神社や祭り関係以外の通常の活動、草刈り、清掃等はこれまで通り協力しますから。やんわりと申し出たのですが、目を丸くして言い返されました。
「神社って言っても、昔からやってきた祭りのためじゃない。みんな楽しみにしてるんだから」
「もう少しさ、キリスト教って寛容なんじゃない?」
わたしの態度でこの町では、キリストの教えは非寛容ということになってしまうのか。恐ろしさと悔しさで体が熱くなります。みんな愛想よく笑っています。何人かの人はさっさと終わってほしいとでも言うかのように、黙って下ばかりを見つめていました。
ペトロのところにも、人々がやって来て、「神殿を批判されているあなたの先生はもしや、わたしたちと同じように、一年の無事と祝福を保証するための神殿税を納めることをしないのではないか」と問いただしたのです。
その時、ペトロは深い悲しみと不安に包まれていました。イエスさまから、神殿をつかさどる「長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され」と言われていたからです。ほんの少し前にも同じことを繰り返し聞かされていました。そこに神殿税の話です。「はい」と答えるしかなかったのかもしれません。そんなペトロに、イエスさまはこう言われました。
「子供たちは納めなくてよいわけだ」
ここでイエスさまは、「子は納めなくてよいわけだ」とは言わず、「子供たちは…」と複数形で語っておられます。それは、イエスさまのことだけではなく、そこに居たペトロも含めて、「子供たち」と語っておられるのです。「わたしたちは神様の子どもだから、無病息災や家内安全のために納めるものなら納めなくてよい。あなたたちはすでに神様によって守られているのだから」と言われたのです。だから、あなたは恐れることはない、恐れから自由にされている、と。
ペトロにとって、大きな慰め、励ましの言葉だったに違いありません。その上で、さらにこう言われます。
「湖に行って釣りをしなさい。最初に釣れた魚を取って口を開けると、銀貨が一枚見つかるはずだ。それを取って、わたしとあなたの分として納めなさい」
銀貨一枚は四ドラクマに相当します。神殿税は二ドラクマですから、自分とペトロの二人分の神殿税に当たります。イエスさまはきっと、微笑みを浮かべながら、喜んでペトロの分までお金を用意してくださって、「シモン、あなたもわたしと同じ神様の子どもなのだよ」と言ってくださるのです。
■つまずかせない
それにしても、わたしたちは神の子どもだから神殿税を払う必要はないと言われたイエスさまが、釣れた魚の口の中に見つかる銀貨でその神殿税を払いなさいと言われるのは、なぜなのか。
「彼らをつまずかせない」ためだと言われます。
「つまずかせる」とは、「罪をおかさせること」(5:29,30)であり、「人の信仰を失わせること」(24:10)です。パウロがローマの信徒への手紙14章で、こう言っています。
自由に任せて、勝手なことをしてはいけない。つまずく人がいるならば、その人をつまずかせるようなことをしてはいけない。何を食べてもかまわないというような時にも、食べたら人がつまずいて、神を知ることの妨げになるかもしれない。もしそうならば、それを食べるのをやめよう。
物分かりが悪いから彼らはつまずいている。頭が固いから、本当の自由を知らないから、彼らはつまずいているのだ。彼らは古臭い人間だなどと言って、馬鹿にするようなことがあってはならない。わたしたちに与えられている自由は、人をつまずかせないための自由なのだから。
宗教改革者ルターの言うところの「キリスト者の自由」ということです。
人の足元から、できるだけつまずきの石を取り除き、彼らが立つことができ、歩くことができるようにすることを、イエスさまはペトロに求められるのです。
さきほどの町内会の続きです。わたしは最初、自分の考えを受け止めてくれないこの町は非寛容で、わたしを取り囲んだ女性たちはみんな、古くからの仕来りに囚われ、世間の目ばかりを気にしている不自由な人たちだ、と一方的に考えていました。しかし、神社に関係することを除いて、とりあえず町内会の組長を引き受けることにし、各家庭への訪問を重ねるうちに、どうもそうではないことに気づくようになりました。
そういう人たちはどこにでもいるのです。彼らや彼女たちは一見温厚ですがしかし、相手が自分たちと同じような行動をとらないとなると、いきなり不機嫌になり、自分の期待どおりに相手が動くよう要求します。こちらが期待に外れて動こうものなら、自分勝手、わがままと批判し、それがどれだけ周囲に迷惑をかけているか、筋道立てて説明してくれます。
でも、このように相手の行動を支配することぐらい、自分勝手な自己中心はありません。他人が自分の思うように生きなければいけない、と期待し要求することぐらい、傲慢なことはありません。自分は変わらず、他人に変わることを要求するその姿は、まさに「長老、祭司長、律法学者たち」そのものです。彼らこそが、イエスさまを十字架につけ殺すことになりました。
そしてそれは、わたし自身の中にもあるものです。口では、寛容なことをそつなく語りながら、ファリサイ派や律法学者のように、心の中では自分の思い通りにいかない人々を裁いています。だれにも言いませんが、期待通りに応えてくれない人を、密かにずっと恨み続けていたりもします。
わたしたち自身の中に、寛容な自分と、非寛容な自分がいます。人との関わりの中で、自分が変えられることを恐れない勇気のある自分と、対話によって自分が崩されるのを恐れる臆病な自分がいます。
そんなわたしたちに、イエスさまは、広い心を、それも一対一の場面で、親しく、優しく、励ますようにして教えてくださっているのです。
「つまずかせないようにしなさい」と。
フーテンの寅さんのことを思い出します。
「わたくし、生まれも育ちも葛飾柴又です。姓は車、名は寅次郎。人呼んでフーテンの寅と発します」
渡世人として、啖呵売(たんかばい)の香具師(やし)—テキヤを家業とする寅さんは、祭りから祭りへ、日本全国どこへでも、人の集まるところを巡って旅をします。その先々で、この「仁義」から、様々な出会いと別れが、笑いと涙の物語が始まります。
寅さんは、どんな人に対しても、挨拶を欠かしません。何はなくともまずは挨拶、袖触れ合うのも多生の縁と、声をかけるのです。相手を見て、挨拶しなかったり、ということはありません。世間的に偉そうな人にも、近所のおばあちゃんにも、いつも同じ態度で接します。
しかし人はついつい、相手を見て態度を変えてしまいます。格別、自分では好き嫌いを意識していなくても、つい態度に出てしまいます。まして苦手意識を持った人に対しては、知らず知らずのうちに顔を背けてしまいがち。それが人間というものです。
しかし、寅さんは違います。
「よう、備後屋。あいかわらず馬鹿か」
(「男はつらいよ 寅次郎わが道をゆく」での場面です)
「お前でも、暑いか」
(「男はつらいよ 寅次郎ハイビスカスの花」での言葉です)
帝釈天の参道に並ぶご近所衆に挨拶代わりの悪態や軽口。しかし、かけられた人は誰もが、苦笑しながらも、笑顔で挨拶を返します。
今日、わたしたちが遣わされているこの世界は、違う立場の人に対して非寛容である傾向を、いよいよ強めているように思われてなりません。原理主義の台頭、自国中心主義的な主張、自己責任を第一とする「自助、共助、公助」というスローガン、果ては、コロナウィルス対策のための自警団の登場など。
今、イエスさまは、原理原則を主張するのではなく、相手を立て、ユーモアとゆとりをもって対応するようにと、真の自由へとわたしたちを招き、導こうとしてくださいます。わたしたちも、非寛容なこの世界にあっていよいよ、このイエスさまの招きと導きに応え、イエスさまのもとに結集し、イエスさまと共に、軽やかに、自由に歩んでいきたい、心からそう願う次第です。
祈りします。愛といのちの主よ。わたしたちは自由です。死からも、罪からさえも自由です。あなたが御子キリストを十字架につけ、復活させてくださったからです。そして、それを信じる信仰を与えてくださったからです。人々をつまずかせ、傲慢に裁く自由に生きるのではなく、愛をもって仕える自由に生かしてください。そのことを大きな喜びとすることができますように。主の御名によって。アーメン