福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

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9月5日 ≪聖霊降臨節第16主日礼拝≫ 『取って分かち合いなさい―聖餐(9)』 出エジプト記16章1~21節 沖村裕史 牧師

9月5日 ≪聖霊降臨節第16主日礼拝≫ 『取って分かち合いなさい―聖餐(9)』 出エジプト記16章1~21節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏   装いせよ、おお魂よ (M.バイヤー)
讃美歌   17 (2,4節)
招 詞   ヨハネによる福音書6章37節
信仰告白  使徒信条
讃美歌   71 (1,3,5,7節)
祈 祷
聖 書   出エジプト記16章1~21節 (旧121p.)
讃美歌   467 (1,3節)
説 教   「取って分かち合いなさい―聖餐(9)」 沖村 裕史
祈 祷
献 金   65-1
主の祈り
報 告
讃美歌   402 (1,3節)
祝 祷
後 奏   今、装いせよ (W.グルントマン)

 

≪説 教≫

■不平

 イスラエルの民は今、荒れ野の砂漠にいます。父なる神がエジプトに数々の災いをもたらし、最後には、葦の海で水を左右に分けて、向こう岸へ渡してくださいました。イスラエルの民はこうしてエジプトの支配から脱出し、自由になりました。しかし、それで終わりというのではありません。

 神が約束してくださった乳と蜜の流れる地を目指す、新しい旅が始まっていました。ただ、イスラエルの人々は、その約束の地がどこにあるのか知りません。そこへ向かう道も分かりません。神は、昼は雲の柱、夜は火の柱によって進むべき道を示してくださいました。しかしその道は、食べ物も水も得ることのできない荒れ野の道です。

 直前15章には、荒れ野を歩み始めた途端に水がなくなり、民が苦しみ、不平を漏らす場面が出てきます。ようやく水のある所に着いたと思いきや、その水が苦く、塩辛くて飲むことができません。しかしその時にも、神がその水を甘く、真水に変えてくださって、いのちを繋ぐことができました。

 荒れ野にはオアシスがあります。1節にあるエリムがそうです。15章の終わりに、そこには12の泉があり、70本のなつめやしが茂っていたと書かれています。ほっと一息つける、安息の場所。しかし、そこにいつまでも留まっている訳にはいきません。旅を続けなければなりません。彼らはエリムを出発し、再び過酷な荒れ野へと歩み出していきました。その歩みの中、イスラエルの民は飢え、イラつき、争いが起ります。

 彼らは、先導するモーセとアロンに不平を言い募ります。3節、

 「我々はエジプトの国で、主の手にかかって、死んだ方がましだった。あのときは肉のたくさん入った鍋の前に座り、パンを腹いっぱい食べられたのに。あなたたちは我々をこの荒れ野に連れ出し、この全会衆を飢え死にさせようとしている」

 人間、危機に直面すると普段は隠されている本音が現れるものです。ここに、人々が心の中に抱えていた思いが赤裸々に現れます。不信です。

 モーセとアロンが自分たちをエジプトから連れ出したのは、荒れ野で死なせるためだったのではないか。彼らは、飢えの苦しみの中で不安と恐れにかられ、せっかく与えられた救い、奴隷からの解放を感謝し、喜ぶことができなくなっています。飢えの苦しみに心を奪われて、示された恵みを恵みとして受け止めることができなくなっていました。

 それは、この救いを与えてくださっているはずの神に対する不信でもあります。8節後半に、モーセが「あなたたちは我々に向かってではなく、実は、主に向かって不平を述べているのだ」と言っている通りです。彼らは、神が与えてくださっている恵みを恵みと思わず、かえって迷惑なことと感じています。もっと言えば、彼らは主なる神の愛を疑っています。神がわたしたちを愛していてくださっている、救ってくださることを、信じられなくなっていました。

 

■飢え

 飢えの苦しみから不信仰に陥る人々を、愚かだ、情けないと思われるかも知れません。しかしそれは、飢えを経験したことのない人の表層的な批判に過ぎないのではないでしょうか。

 ジェレミー・シーブルックの『世界の貧困』(2005年、青土社)という優れた本があります。そこに、こんなことが書かれています。

 「『村の家族が貧乏なのは子供が多すぎるからだ、と人口問題の専門家は批判する。母親は腹立たしげに12人の子供を小屋の外に並べ、彼に向かって言う。「この子たちを見てちょうだい。いったい、どの子とどの子がいなければよかったっていうの」』…空腹を感じたことのない者に、絶え間ない飢餓のことを理解させるのはほとんど不可能である」

 こう語った後に、飢えに苦しむひとりの女性の声を紹介します。バングラデッシュ南部、

 「ベンガル湾に面したバリサール近郊の村で、三人の子供を持つ土地なしの女性ファリダ・ビビは暮らしている。彼女の唯一の収入源は、季節労働の賃金である。

 『朝は水でうすめたご飯を少し、昼は働いている農園の人たちにパンをもらうの。夕飯はご飯と野菜。お金がもらえない季節には、ロティスに、少しでも味をつけるために唐辛子と塩をかけて食べるしかないのよ。

 いつも食べ物のことばかり考えてるわ。朝が怖いの。だって、お腹がすいて目を覚まして、子供たちが泣いているのを聞かなければならないから。子供たちになにかしゃぶらせようと思って、人が食べたあと捨てたサトウキビを拾ったこともあるし、木の葉や根っこだって煮て食べるわ。土地もないし、市場で何かを買うお金もないから、市場のそばには行かない。手に入れられないものを見ているのは、拷問だからね。

 飢えは、生き物みたいに体の中を動くの。最初は落ち着かない気分だけど、そのうち疲れた感じがしてくる。動き回ってエネルギーを無駄にはしない。眠るのがただひとつの逃げ道よ。世の中への興味もなくなる。飢えが体の肉を食べるの。子供に食べさせることだけで頭がいっぱいよ。ほんの少しのお米か野菜をもらうために、近所の人たちのところで働いてます。食べていないと体が小さくなって、食欲もなくなる。そうなると、食べ物のことはもう夢ではなくなって、怖くなるの。これまでどうやって食べていたのか、わからなくなる。食べ物のことはどうでもよくなって。自分の体もどうでもいいと思うようになるのよ。

 ぼろきれをしゃぶったこともある。娘は町へ女中に出したわ。十歳よ。これで娘の食べ物の心配をしなくてすむ。家に帰ってくるとき、娘は雇い主の家の食卓から何か持ってくるから、その日はお祭りみたいよ』」

 同じ飢えに苦しんでいる人々が、2019年の時点で、世界に約6億9千万人いて、その数は減るどころか、五年前から6千万人も増えている、と報告されています(2020年版「世界の食料安全保障と栄養の現状」報告書)。先進国と呼ばれるこの日本でも、2015年度の調査によれば、日本の世帯の13.6%、七世帯に一世帯の割合で、食ベ物に困窮していると答えている人たちがいます。豊かになったはずの日本で、様々な開発が進められているはずのこの世界から、飢えがなくならず増えているのは、なぜか。シーブルックはこう答えます。

 「貧困に関するさまざまな考えが、いかに限りない経済成長を、そして際限のない欲求を前提としているか。…

 飢餓と飢饉の脅威は、貧困の最も強力なシンボルである。世界のどこかで周期的に起こっている飢餓の映像は、人々の関心を、テレビの昼メロやコカ・コーラから最も遠く隔たったところへと向けさせる。それは富の創造を至上命令とするシステムに最大のダメージを与える告発である。世界には、全人口が毎日3500カロリーを摂取できるのに十分な食糧がある。食糧不足が問題なのではなく、栄養不足の人たちが市場で食糧を入手、調達することができないことが問題なのである。2003年についていえば、少なくとも八億の人々が南アフリカおよび東アフリカで大規模な飢饉にさらされたのは、分配の公正さが欠如していたせいだった」

 

■取って分かち合いなさい

 今、飢えに苦しむイスラエルの民に、主なる神が「天からのパン」(詩編1105:40)であるマナを与え、彼らの飢えを満たしてくださいました。神は、ぐちぐちと不平ばかりを言う、恩知らずな人々の世話をしてくださるのです。飢えている者を気遣ってくださいます。

 このマナの物語は、わたしたちを養ってくださる神の素晴らしい物語であると同時に、人の世話をする人々についての物語でもあります。

 神はイスラエルの民に、こうお命じになりました、互いに分かち合い、必要なものだけを集め、貪欲(どんよく)を控えて、一日の飢えをしのぐために十分なマナを取るように、と。彼らが必要とするものは、贅沢にではありませんが、しかし十分に満たされました。誰もが必要に応じて、平等に与えられました。食べ物を握り締めて、貯め込もうとする人もいましたが、貯め込むことで、逆に食べ物が無駄になってしまうことに、誰もが気づかされました。

 食べ物が、この世を旅するわたしたちを支える、驚くべき、あふれるほどの神からの贈り物であることに気づかされるとき、食べ物は聖なるものとなります。わたしたちがそれを握り締めて、自分のためだけに貯め込むとき、わたしたちは、他の人たちを貧しくし、飢えさせるだけでなく、それを無駄にしてしまうのです。

 さきほどの『世界の貧困』の中で、シーブルックは「貧しくもなく、また富みもせず、ただなくてはならぬ食物でわたしを養ってください」(3:8)という箴言の言葉を引用した後、こう記します。

 「アジアやアフリカの多くの文化に共通する民話には、金持ちになろうという知恵に疑問をさしはさむものがある。例えば、こうである。

 漁師が木陰で昼寝しているところに旅人が通りかかった。旅人は眠っている男を起こし、なぜ魚を捕まえないのかと尋ねた。『家族の夕食に、もう二匹捕まえたよ』。『もっと大きい網で、もっと長い時間漁をすれば、十匹は捕まえられるのに』と見知らぬ男は言った。『でも、二匹しか要らないのに、十匹も捕まえてどうするんだ』。『売ればいいだろう。毎日同じようにすれば、舟を買うお金が貯まるよ』。『それで、どうするんだ』。『もっとたくさん、魚を捕まえるのさ。人を雇って、もっと魚を捕らせることもできる。金持ちになれるよ』。『金を持って、どうするんだ』。『楽しい毎日が過ごせるさ。くつろいで、楽しく木陰で寝ることができるだろう』。『今やっているみたいにかい?』と漁師は聞いた」

 際限のない経済成長を基本原理とし、「もっと多く」を求めることをよしとする貪欲(どんよく)なグローバリゼーション(世界的規模の経済システム)の中で、世界は豊かになるどころか、貧富の格差はますます広がり、貧しく飢え渇く人々が増え続けています。シーブルックは、貧しい人々が望んでいるのは、より多くの金銭や品物ではなく、安全で安定した暮らしができることだ、「貧困の反対は富ではなく、充足だ」と言います。

 ウィリアム・ウィリモンもまた、著書『日曜日の晩餐』第6章で、こう言っています。

 「飢饉の中で、もし、人がひとかけらのパンに出くわし、そのパンを取り、パンに感謝を捧げ、それを食べるとすれば、それこそが食事です。

 飢饉の中で、もし、人がひとかけらのパンに出くわし、パンを取り、パンに感謝を捧げ、その半分を何も持っていない人と分かち合うとすれば、それこそがサクラメント―聖餐です」

 イエスさまは、「わたしの兄弟であるこの最も小さい者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(マタイ25:40)と言われました。イエスさまはわたしたちを養いながら、わたしたちにも他の人を養うようにと求められます。わたしたちの力不足、臆病さ、貪欲、恐れにもかかわらず、イエスさまはわたしたちに、「羊を養いなさい」と言われます(ヨハネ21:15-17)。イエスさまは、食べ物でいっぱいの食卓、自分だけの満足からわたしたちを引き離して、「彼らに食べ物を与えなさい」と言って、飢えた者へ、わたしたちの向きを変えさせようとされます。

 メソジスト教会の創始者ジョン・ウェスレーも、わたしたちのそんな独り善がり、自己満足に対して厳しい言葉を投げかけます。1789年の説教です。

 「神に愛されているあなたがたの兄弟の多くの者には食べる物がありません。彼らには着る服がありません。彼らには枕する所がありません。そう、彼らはなぜ、こんなにも苦しんでいるのでしょう?それは、あなたがたの主と彼らが、彼らの欲するものを与えるためにあなたがたの手に委ねているものを、あなたがたが卑劣にも、不当にも、そして残忍にも、それらのものをつかんで離さないからです!飢えに苦しむ、あの貧しいキリストの仲間をごらんなさい…あなたがたは、肉、飲み物、そして衣服など、この世のものをたくさん持っているのに、神の御名によって、あなたがたは一体何をしているのです?…なぜ、あなたがたは飢えている者たちに、あなたがたのパンを分かち合わないのですか?」

 イエスさまは、救いの杯を取り上げ、「これを取り、あなたがたの間で分かち合いなさい」(ルカ22:17)と言われます。そして事実、イエスさまが言われたようにやってみると、不思議なことに、五つのパンと二匹の魚のときと同じように、それで十分なのです。「取って分かち合う」ことで、すべての人が満たされるのです。

 

■もてなし

 ウィリモンは、そのような主の食卓としての「聖餐」をわたしたちに勧めています。

 「飢えている者を招くときには、もてなすことが重要です。…主の晩餐の中での、厳しい顔をした聖職者、軍隊のような案内係、古めかしい言葉、小さなグラスに入れられた惨めなワイン、しみったれたパンの欠片―立方体で、ペレット状の、または水で薄めたようなもの―に優雅さなどありません。人々はパンを求めます。そのとき、わたしたちは彼らに硬いペレットを与えます。そんな教会の聖餐式を評価しようとするときには、『夕食の食卓でゲストをどのように迎えるのがよいだろうか』と自問自答してみるとよいでしょう。あなたがたが食卓でもてなすことが、主の食卓にも当てはまるはずです。時にわたしたちは、聖餐の中で恵みについて触れますが、わたしたちの冷たく堅くロボットのような組み立てライン、非人格的な行為は、飢えた人々に対する排他性、隔離、そして無神経さを示しています。

 マザー・テレサが言うように、わたしたちが誰かにパンを手渡すとき、わたしたちはその人に愛を与えているのです。誰かにパンのかけらを手渡すという聖餐でのシンプルな行為はとても大切なのに、あまり顧みられません。ある人が別の人にパンを手渡すとき、そこに何かしら神聖なことが起こります。内陣の列にパンを置き、人々がそこにやって来て、カフェテリア・スタイルで自分の手でパンに与ることは、その瞬間の秘儀を蔑(ないがし)ろにするものです。聖餐のパンは、奉仕者によって誰かの手の中に置かれ、その人の目を見て、できるなら、その人のクリスチャンメームや名前で呼びかけながら、その人の手に渡されるべきです。『ジェーン、キリストの体があなたに与えられました』と。その瞬間は、完全で、人格的で、感性豊かなものであるべきです。

 イエスは、「天から与えられなければ、人は何も受けることができない」(ヨハネ3:27)と言われました。イエスが愛について語ったことは、パンにも当てはまり、逆もまたしかりです。もし、聖餐式で残り物がでた時は、欠席を余儀なくされていても、あなたもその「主の食卓」に招かれているのだという徴として、病人や寝たきりの会員のところに、それらを持って行くべきです。少なくとも、飢えに満ちた世界への神からの贈り物としての食べ物に対する敬意をもって、残ったパンとワインを取り扱いましょう。残り物は、そのすべてを食べ終わるまで、もう一度会衆の中で廻され、渡されてもよいでしょう。家に持ち帰って、他の誰かに与えられてもよいかもしれません。人々が座って見ている間、司式者によって無駄にされ、また飲み食いされてはなりません」

 わたしたちすべての者が、聖餐式で、主の愛を取って分かち合うようにと招かれています。感謝して祈ります。