福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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9月8日 ≪聖霊降臨節第17主日礼拝≫『共に食べ、共に生きる』 コリントの信徒への手紙一 11章 23~34節 沖村 裕史 牧師

9月8日 ≪聖霊降臨節第17主日礼拝≫『共に食べ、共に生きる』 コリントの信徒への手紙一 11章 23~34節 沖村 裕史 牧師

 

■晩餐の危機

 イエスさまは、会堂で、また湖の岸辺や丘で人々に語りかけられました。それだけでなく、弟子たちや徴税人や罪人たちと共に食事をされました。特に、十字架―死の前夜、エルサレムの宿の二階で、弟子たちと「最後の食事」を共にされました。そこにいたのは、イエスさまを裏切ったユダ、イエスさまを三度も知らないと言ったペトロ、イエスさまを見捨てて逃げまどった弟子たち。すべて罪人でした。そうなることを承知の上で、イエスさまは、弟子たちと共に食事をされました。

 イエスさまの死後、弟子たちは集まって、そのときのことを想い起しつつ語り合い、そして共に食事をしました。教会はやがて、信徒たちが一つの場所に集まって、賛美し、祈り、み言葉に耳を傾け、信仰を告白するようになりましたが、20節に「一緒に集まって…主の晩餐を食べる」とあるように、その頂点こそ「主の晩餐」でした。

 ところが、主の晩餐としてのその共同の食事が無残なあり様になっていました。コリント教会の有力者たちが、その共同の食事を兄弟姉妹と分け合うことをせず、あたかも、自分たちの個人的な食事であるかのように振舞っていたからです。しかし教会の共同の食事は、食事を共に分け合い、分かち合うべきもので、それは、主の体としての教会の一致と平和のしるし、何よりも愛の証しの場であるべきでした。コリントの人々は、キリストのからだである教会を私物化しているだけでなく、意識してか無意識かは別にして、この世の貧富、地位の高低、権力の大小といったあらゆる格差と差別を、一致と愛のしるしたる「主の晩餐」の中に持ち込み、その意義を根こそぎ台なしにしているのではないか。

 パウロは22節、「[あなたがたは]神の教会を見くびり、貧しい人々に恥をかかせようというのですか」と厳しく叱責しています。

 

■引き渡された

 この問題を解決するため、パウロは今、イエスさまと弟子たちとの、最後の晩餐のことを人々に思い起こさせようとしています。23節から26節です。

 23節の「受けた」「伝えた」という言葉からもわかるように、主の晩餐についての言葉は、教会の中に早くから伝えられていました。パウロは、主の晩餐と呼ばれる共同の食事を、自分の体験から学んだのでも、誰か権威ある人から受け継いだのでもありません。「主から受けた」―この言葉は、主ご自身が自らの死と新しい契約のしるしとして弟子たちにパンと杯を分け与えられたことが、罪人や貧しい人々と共にされた数々の食事とともに、教会の人々の間に語り伝えられていたことを示しています。パウロの時代にまだ福音書はありませんが、イエス・キリストの死と復活の物語は、信仰の中心、核になるものとして、大切に語り継がれていたのです。

 パウロは、コリントの人々もよく知っているはずの主イエスの死―十字架の意味を思い起こすようにと、「すなわち、主イエスは、引き渡される夜…」と語り始めます。

 ここに「引き渡された」とあるように、御子イエスは父なる神によって、わたしたちのために十字架へと引き渡されたのでした。そして、イエスさまご自身も自ら進んで、その残酷な使命を背負われました。イエスさまの生涯は、人に与え続ける生涯でしたが、その人生の極みとして、進んで自らのいのちをも与えてくださったのです。自分を喜ばせるのではなく、人のために生きる人生―それがイエスさまの人生でした。その極みとしての死、十字架でした。

 聖餐の中で、パンと杯をいただくことは、このイエスさまの死を覚え、告げ知らせるものです。ところが、コリントの教会の主の晩餐では、人々は自分のことばかり考え、他人のことはお構いなしというあり様でした。イエスさまから与えられた大きな恵みを考えれば、コリントの人々も自分のことばかりではなく、イエスさまに倣って、人に与えること、人と共に分かち合うことを考えるべきではないのか。そう問いかけるパウロは、「主から受けた」言葉を語り直しつつ「記念として」という言葉を繰り返します。

 

■記念として

 「思い起こす」「想起する」と訳すことのできる、印象深いこの言葉を通して、わたしたち教会は「わたしの記念としてこのように行いなさい」と教えられてきました。パウロは、パンと杯を共にすることを通して、コリントの教会に、イエス・キリストの死—贖(あがな)いのみ業を、過去の出来事としてではなく、自分自身のこととして想い起こさせようとしています。

 「記念」という言葉は、出エジプトの「過越」の出来事を連想させます。エジプトを旅立たんとするイスラエルは、犠牲となった子羊の血によって守られつつ、その日、エジプトの抑圧と奴隷としての束縛から解放されました。イスラエルはその後も、その記念すべき日に、神がご自分の民を解放してくださったことを想い起すことで、その神が今も、自分たちを救ってくださっていることを確信し、感謝しました。同じように主の晩餐もまた、神がイエス・キリストの犠牲の死を通して、このわたしたちに今も解放を、罪の赦しを、救いをもたらしてくださっていることを想い起す機会となるものでした。

 また「記念」という言葉は、今日の聖餐式では、主の体と血であるパンと杯によって、実際に主イエスが今ここにおられること―つまり主の「現在」を意味する言葉だと理解されていますが、この手紙で語るパウロの言葉をそのように理解することはいささか的はずれかもしれません。制定の言葉の最後、26節を原文の語順通りに訳せば、「だから、あなたがたは、このパンを食べこの杯を飲むごとに、主の死を告げ知らせるのです。主が来られる[その]ときまで」となります。主はもはやここにはおられません。それは決定的な不在、今ここにおられるはずなどないという意味ではありませんが、パウロが語る主の晩餐の意義は、主イエスの死―十字架による贖いと救いの真実を記念し、そのことを想い起しつつ、「再び主が来られる」そのことを、確信をもって待ち望むことでした。

 

■新しい契約

 その主の晩餐によってキリストの体と血を分かち合う教会は、主の死がわたしたちのためであることを想い起すと共に、25節に「この杯は、わたしの血によって立てられる新しい契約である。飲む度に、わたしの記念としてこのように行いなさい」とあるように、主の死が、神による「新しい契約」の始まりであることを知らなければなりません。

 クリスチャンとは、この新しい契約にあずかる者です。新しい契約のメンバーは、みな神の家族です。主の晩餐にあずかるすべての人は、互いに兄弟姉妹なのです。前回、申し上げたように、自分の本当の家族がお腹を空かせているのに、その人たちのことは全くお構いなしに、自分たちだけガツガツ食べるような人がいるでしょうか。

 コリントの一部の豊かな人たちが、他の兄弟姉妹のことを考えずに、自分たちだけでご馳走を食べることは、自分たちが新しい契約にあずかっていること、信じる者はみな本当の兄弟姉妹であるという大切な真理を、その行動によって足蹴(あしげ)にするようなものです。

 パウロは今、イエスさまご自身による主の晩餐の制定、とりわけわたしたちのために受けられた苦難と死とを、コリントの人たちに想い起させることで、この大切な真理をよくよく考えるようにと促しているのです。

 

■ふさわしくないままに

 その上で、パウロは厳かに宣言します。27節から29節です。

 この言葉はわたしたちも聖餐の中で何度も聞いてきた言葉ですが、ここでもコリントの教会の状況を踏まえて、この言葉の意味を考えたいと思います。

 「ふさわしくないままの人たち」とは、誰のことでしょう。それはもちろん、空腹の人がいるのに、自分は満腹になって酔っぱらっているような人たちのことです。貧しい人たちに彼らの貧しさをことさらに思い知らせ、彼らに恥をかかせているような人たちです。そのような人たちは、小さく弱くされた人、貧しい人たちのために生き、そして死なれたイエスさまを侮辱しているのです。「主のからだと血に対して罪を犯す」とは、そんなイエスさまの尊い死、計り知れない神の愛を台なしにする、心ない行いのことでした。

 この「ふさわしくないままで」は、徹底的に懺悔や悔悛をして、良心に一点の曇りもないような状態でなければ、聖餐を受ける資格がないと言っているのではありませんでした。そんなことを言われたら、誰も恐ろしくて、聖餐にはあずかれないでしょう。そうではなくて、困窮し飢えている兄弟姉妹のことを無視したり、心の中で馬鹿にしたりすることで、教会に分裂を生じさせるのなら、そのような人こそが「主のからだと血に対して罪を犯している」のです。

 だから28節、「だれでも、自分をよく確かめたうえで、そのパンを食べ、その杯から飲むべきです」。ゴシップ記事の記者たちが暴き立てるように、自分の心の奥を調べ、自らの罪をことさらに暴き立てなさいというのではなく、他の兄弟姉妹に対する自分の態度を振り返りなさいということです。

 パウロはさらに続けます。29節、「主の体のことをわきまえずに飲み食いする者は、自分自身に対する裁きを飲み食いしているのです」。「主の体」とは、聖餐式のパンのことではなく、キリストのからだである教会のことです。教会の兄弟姉妹のことです。教会の兄弟姉妹のことを顧みることなく、自分だけ好きなだけ飲み食いするような人たちは、自らに裁きを招いているのだ、と厳しく警告します。

 いえ、これは単なる警告ではありませんでした。30節、「そのため、あなたがたの間に弱い者や病人がたくさんおり、多くの者が死んだのです」。パウロが具体的に何を指してこう書いているのか、はっきりとは分かりません。しかし、コリントの人たちにはきっと、パウロが書いていることが何なのか、すぐに分かったでしょう。おそらくコリントの教会で、多くの人のいのちに関わる不幸な出来事があったのでしょう。コリントの人々は、それをただの偶然、運が悪かったのだ、と思っていたのかもしれません。しかしパウロは、それこそが、神の裁きを招く、あなたたちが犯した罪の結果だ、と断じます。わたしたちも心しなければなりません。

 

■愛の証し

 パウロが今ここで問題としていることは、主の記念として祝うべき「主の晩餐」の神学論議ではなく、それを支え、生かす、信仰のいのちに関わることでした。形式ではなく、その中身のことです。

 それは、わたしたちの間に、ほんとうの兄弟愛が生きているか、否かにかかっていることです。自分の利益を主張し、自分の欲望だけを求めて、貧しい兄弟姉妹の困窮を無視し、兄弟姉妹を閉め出す者は、その兄弟姉妹のために死なれた主ご自身に対して罪を犯すことになる。だから33節、「食事のために集まるときには、互いに待ち合いなさい」「共に食べ、共に生きなさい」とパウロは教え、諭すのです。まさに、愛は人の徳をたて(8:1)、愛は不作法をしません(13:5)。

 わたしたちに求められていることは、主の恵みを「受ける」ことから、主にわが身を「捧げる」信仰へと進む「証し」の生活を建てることだ、と言えるでしょう。「証し」とは、心の中で信じたことがわたしたちの生き様となって表れ、動き出すことです。頭の中だけでの考えや口先の言葉だけでは、わたしたちは何も証しすることはできません。十字架につけられた「主の死」にあずかり、主との「交わり」に招き入れられた人が、じっとしておれなくなり、気がついてみると「愛」によって前へ押し出されていたという証しが、そこに生まれなければなりません。そのときにこそ、主の記念として行う主の晩餐は、キリストの犠牲を覚えるだけでなく、わたしたちの目を希望の未来へと向けさせ、隣人への愛の奉仕へと促しつづける力となるのではないでしょうか。

 

■愛の証し人

 最後に、イエスさまの復活の出来事を「証し」するルカによる福音書24章に触れて、今日のメッセージを閉じさせていただきます。

 24章に書き記されていることのすべてが、たった一日の間に起こった出来事でした。悲しみに打ちひしがれるマリアたちの前でイエスさまが復活されたのは、その日の朝のことでした。その同じ日、憔悴と絶望をひきずるようにして二人の弟子たちがエマオへ帰ろうとしていたその時、イエスさまが共に歩んでくださって、夕暮れになるとパンを共にしてくださいました。思いがけず復活のイエスさまと出会い、喜んだ二人の弟子は、その日の内にエルサレムに取って返します。イエスさまが復活されて、その姿を現してくださったという出来事をありのままに他の弟子たちに話をしているところに再び、イエスさまが現われてくださって、焼魚を頬張り、一緒に食事をしてくださいました。

 その食事の席でのこと、イエスさまが弟子たちに語りかけてくださった言葉、それが「あなたがたはこれらのことの証人となる」という言葉でした。人々が目撃し、体験した出来事は実に様々でした。一人ひとりにイエスさまは出会ってくださいます。それも生きているそれぞれの場所で、それぞれのあり様で出会ってくださいます。わたしたちが証し人となる場面は、実に多様で豊かです。聖書は、その出会いの豊かさをこそ、わたしたちに証ししています。

 このことは、一つとして同じものとてない、それぞれの個性と人生を持つわたしたちにとって、とても示唆的です。なぜなら、主の体である教会がもつ多様性は本来、対立と分裂、競争と優劣ではなく、豊かさと一致の恵みをもたらすものだからです。

 松尾静明(せいめい)というヒロシマの詩人が教えてくださった、子どもの詩を思い起こします。

  「マサはエイゴが八十五点だそうだ。すごい。」

  「…」

  「ヨウコは、エイヨウシになるんだって。すごい。」

  「あんたは、なんでもすごいと言うのね。マサは〇国人なんよ。ヨウコはボシカテイなんよ。」

  「そうなんかぁ、すごいやないか。」

 眼の前に起こること、今そこで出会う人のことを、こどもは何の偏見も先入観もなしに、あるがままに見つめ、受け入れ、感動しています。そこでは、大人であれば、あのコリントの人々であれば差別の理由となる国籍や境遇の違いでさえ、ここでは驚きと尊敬の理由となっています。

 わたしたちも、こどものように目撃し体験した出来事を、違いや正しさで判断するのではなく、あるがままに受け入れ、喜びとすることのできる「愛の証し人」となりたいものです。