福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

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8月8日 ≪聖霊降臨節第12主日礼拝≫ 『あなたは幸いだ』 マタイによる福音書16章13~20節 沖村裕史 牧師

8月8日 ≪聖霊降臨節第12主日礼拝≫ 『あなたは幸いだ』 マタイによる福音書16章13~20節 沖村裕史 牧師

≪式次第≫

前 奏    主よ、平和のうちに (A.ムントシック)
讃美歌    13 (1,3,5節)
招 詞    イザヤ書63章8~9節
信仰告白    使徒信条
讃美歌    99 (1,3節)
祈 祷
聖 書    マタイによる福音書16章13~20節 (新31p.)
讃美歌    448 (1,3節)
説 教    「あなたは幸いだ」沖村 裕史
祈 祷
献 金    64
主の祈り
報 告
讃美歌    538 (2,4節)
祝 祷
後 奏    トッカータ (D.ブクステフーデ)

≪説教≫

■転機

 誰の人生にも、転機が訪れます。入学、卒業、そして就職。すでに社会で働いている方にも転職、転勤、そして定年があります。結婚、出産、愛する者の死もまた避けがたい転機となるでしょう。その転機を順調に迎える方、あるいは挫折を経験する方もあるでしょう。それがどのようなものであれ、転機を迎えて、自分の人生を振り返り、自分の人生に何を求め、何を期待しているか、何のために学び、働いているか、そのことを考えてみることは大切なことです。まさに今、考えているという方も、また、これから考えなければならないと思っている方もおられることでしょう。あるいは、そんなことは、若い時に全部済んでしまったという方もあるかもしれません。

 どんな転機であれ、そのとき、わたしたちが考えることは、人生の成功とか、自分の幸せということではないでしょうか。カール・ヒルティという人が、人間が幸福になる条件をいくつか挙げていますが、そこで繰り返し取り上げられるのは、結婚と仕事です。人生の成功はやはり、一人の男と一人の女の出会い・結婚、愛であり、そして生涯かけて働く、働き甲斐のある仕事であるということでしょうか。

 しかし、林芙美子の言葉に「花の命は短くて苦しき事のみ多かりき」とあるように、わたしたち人間の命は短く、また儚(はかな)いものです。ある人が、この言葉に続けて、「それさえない人もある」と書いていました。短い、短い花の盛り、それさえない人がいる。この言葉に胸を突き刺されたまま、今朝のイエスさまの言葉を読み直して、気づかされました。

 結婚と生涯の自分の仕事を人生の成功、幸福とする。それはそれでよいでしょう。しかしイエスさまには、それとは違った人生があるということに、です。この世には見えない、隠されている人生の成功や幸福があるのです。

 この世の、不毛の大地に生きて、自分なりに求め、愛し、働いても、報いられない。しかしそこでこそ、イエスさまは、貧しい人は幸いだ、悲しんでいる人は幸いだ、心の清い人は幸いだ、あわれみ深い人は幸いだ、と言われます(マタイ5:3以下)。イエスさまは、この世の普通では見えない、隠されている幸福、「…それさえない人々」の幸福、成功の道を教えておられるのです。

 そして、あたかもその総まとめのようにして、17節、「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」と言われます。読み落としがちな一句ですが、イエスさまを、キリスト、生ける神の子と告白する、この幸福、祝福を、決して読み落としてはならないでしょう。

 

愛の問いかけ

 そして今、イエスさまもまた、自分の生涯を二分するような転機に立っておられました。

 イエスさまはこれまで、天国の福音を語り、病を癒され、パンと魚の奇跡をもって多くの人々にお仕えになりました。当然ですが、イエスさまの評判は高まり、噂を聞いて集まる人の数も日ごとに増えていきました。「ガリラヤの春」と呼ばれる時期のことです。

 しかし今、イエスさまは一転、その多くの人々と別れ、ごく少数の弟子たちだけをつれて、ガリラヤよりもさらに北に40キロ、ヘルモン山の麓にあるフィリポ・カイサリア地方へと向かわれます。

 そして、その北の果てなる地で、弟子たちにこうお尋ねになりました。

 「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」

 弟子たちは世間の声を告げます。未だ評価を定めかねていた世間には、「洗礼者ヨハネだ」「エリヤの再来だ」「エレミヤだ」等々、様々な声がありました。しかし、イエスさまが本当に聞きたいことは別にありました。

 「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか」

 この問いの冒頭に「あなたがたは」という言葉が置かれています。強調の表現です。世間一般ではなく、弟子としての応答を、イエスさまは求めておられます。弟子とは、「あなたがた」と直接呼びかけられているペトロたちのことであり、今ここに集まっておられるお一人ひとり、この「わたし」、そして「あなた」のことです。

 神は、わたしたちをひとりの人間として重んじてくださいます。どんなに小さなひとりであっても、どんなに愚かなひとりであっても、どんなにみじめなひとりであったとしても、信仰の応答をすることができる一個の人格として、尊重し、大切にしてくださいます。そんな神のわたしたちへの愛が、この問いかけとなっています。

 「他でもない、あなたはわたしを何者だと言うのか」

 この問いかけは、とても大切なことを示唆しています。それは、神はわたしたちを「ひとっからげに」愛そうとされる方ではないということです。わたしたち「一人ひとり」を愛してくださるお方です。わたしたち一人ひとりの現実、具体的な状況に愛のみ手を伸ばし、触れてくださるお方なのです。

 時に「平等に愛しない」と言われることがあります。依怙贔屓(えこひいき)せず、みんなを大切にしなさいということなのですが、しかし、平等に愛することなど果たしてできるのでしょうか。いえ、そもそもそれを愛と呼んでよいのでしょうか。

 わたしたちは一人として同じ者はいませんし、同じ状況を生きている者などどこにもいません。十人いれば十人が全く違う人格と人生をもって、生きています。全く異なる、その人格と状況を無視して人を愛することなどできませんし、そんな愛には何の意味もありません。悲しんでいる、苦しんでいる、今のわたしのことを理解しようともせず、愛しているよと囁(ささや)かれても、それは空しく響くだけです。

 以前、お話をしたことがあるかもしれません。ひとりの少年の話です。小さな頃に買ってもらって、ずっと大切にしていたぬいぐるみがありました。両親が共働きだった彼はいわゆる「鍵っ子」です。小学校から帰ると、その日にあったことをぬいぐるみに語りかけます。ぬいぐるみは一緒に喜び、一緒に悲しんでくれました。彼にとって、そのぬいぐるみは、数少ない、大切な、本当の友でした。ある日、学校から帰ると、そのぬいぐるみがありません。どうしたのだろう。「母さん、知らない?」「ああ、ぼろぼろで汚くなっていたから、捨てたわよ。」「えっ…?!どうして!どうして‼」彼は泣き続けました。「いつまでも…。しようがないわね。また、新しいの買って来てあげるから。もう泣かないの!」いつまでも、ぬいぐみに話しかけている我が子のことを母親なりに心配をしていたのかもしれません。しかし、母には汚くてぼろぼろなものでも、彼にとって、ぬいぐるみは大切で、かけがえのないものでした。

 聖書は繰り返し、繰り返し語ります。神は、そしてイエスさまは、そんなふうに、いえ、それ以上の愛をもって、わたしたちがどんなに汚くて、どんなにボロボロであっても、わたしたち一人ひとりを、いのちのままに、あるがままに愛してくださっている、と。

 そんな愛のイエスさまが、「あなたはわたしを何者だと言うのか」と問いかけられます。いたずらに弟子たちを試そうというのではありません。それは、イエスさまの愛、福音へと彼らを招くためのものです。この問いかけはもちろん、今ここにいるわたしたち一人ひとりにも向けられています。その問いかけに、弟子たちは、そしてわたしたちはペトロの告白に続いて、こう答えることでしょう。

 「ペトロと同じです。ペトロがわたしたちを代表して答えていてくれています。あなたはメシア-キリストです。かつて生きていただけでなく、今もここに生きている神の子です。あなたこそ、まことの救い主。あなた以外に救いはありません」と。

 

■あなたは幸いだ

 この告白を、イエスさまは本当に喜ばれました。

 「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ」

 こう祝福された後、続けて「あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ」と言われます。ペトロは、ただイエスさまとの出会い、交わり、対話によって、ただ天の父の聖霊によって、告白し、賛美したのでした。そして、さらに続けてこう言われます。

 「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない」

 「岩」は、ギリシア語の女性名詞「ペトラ」です。「ペトロ」はその男性名詞ですから、「岩」という意味でもあります。そのペトロに向かって、イエスさまは、「この岩の上にわたしの教会を建てる」と言われました。

 事実、このペトロが後に、キリスト教会の基となり、「柱」(ガラテヤ2:9)となるのですが、古くから、イエスさまが教会を建てると言われたのは、「ペトロの上」なのか、ペトロのこの「信仰告白の上」なのか、議論が交わされてきました。カトリック教会では、「ペトロの上」に教会を建てる、と理解します。最初の教会はペトロだ、そういう受けとめ方です。ローマ法王はそのペトロの後継者であり、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける」と言われた、その鍵を持っている、とします。それに対して、プロテスタント教会の多くは、「あなたはメシア、生ける神の子です」という、この「信仰告白の上」に教会が建てられる、と受けとめます。

 そのいずれであれ、わたしたちは今、「あなたは神の子キリストです」と告白した「ペトロ」の上にわたしの教会を建てる、とイエスさまが言われている、そのことに思いを深めたいと思います。

 ペトロはこの直後、イエスさまが、「エルサレムに行って、長老、祭司長、律法学者たちから多くの苦しみを受けて殺され、三日目に復活することになっている」と言われたとき、わきへお連れして、「とんでもないことです、そんなことがあってはなりません」といさめました。するとイエスさまは、ペトロに「サタンよ、引き下がれ、わたしの邪魔をする者だ」とお叱りになりました。それだけではありません。最後の最後、十字架を前にしたとき、ペトロは、「あなたこそ救い主キリスト、生ける神の子です」と告白した同じ口をもって、イエスさまのことを三度も「知らない」と言い、裏切りました。

 その破れあるペトロ、弱さを持つペトロが、今、精一杯に答えた信仰告白のその上に、イエスさまの教会が建てられる、と言われるのです。そしてこのわたしたち一人ひとりもまた、実に小さな者です。弱さを持ち、破れがあります。そのわたしたちが精一杯、「イエスこそ、真の主、救い主キリストだ」と信仰告白する、その上に教会は建つ、とイエスさまは宣言されるのです。そして17節にあるように、その告白へとわたしたちを導き、招くのは、わたしたち「人間」ではなく、「天の父」なる神です。

 ペトロが何度失敗しても、イエスさまは、ペトロの立ち直りのために祈ってくださいます。立ち直ったそのペトロが「あなたは神の子キリストです」と告白する、その告白の上に教会は建っているのです。

 そのことを、パウロは、コリントの信徒への手紙一3章10節以下で、教会の土台はイエス・キリストだ、と言っています。ペトロが岩のような、堅固な信仰を持っていたので、その上に教会が建てられたというのではありません。パウロは、教会の土台はイエス・キリストと語るに先立って、神は、無きに等しい者をあえて選ばれて教会を形作られた、だから、教会が語ることは、イエス・キリスト、それも、無に等しいわたしたちのために十字架につけられたキリストのことだけだ、と語ります。

 そうです。神が教会を形作られるとき、弱さや欠けあるわたしたちをこそ、用いてくださるのです。弱さや欠けの中で、何度も躓き、ついには裏切るペトロに、「あなたは幸いだ」と声をかけてくださっているのです。なんという祝福の言葉、救いの約束でしょうか。その祝福と救いの約束が、今、「あなたこそ生きる神の子キリストです」と告白する、わたしたちにも与えられているのです。

 

■天の国の鍵

 そんなイエスさまの祝福の言葉を心に留めつつ、続く19節、「わたしはあなたに天の国の鍵を授ける。あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」という言葉を読み進めて、「あれ?これと同じ言葉が他にもあったような」、そう思われた方があるかもしれません。四つの福音書の中で、もう一か所だけ「教会」という言葉が使われているマタイ18章15節以下の言葉です。

 「兄弟があなたに対して罪を犯したなら、行って二人だけのところで忠告しなさい。言うことを聞き入れたら、兄弟を得たことになる。聞き入れなければ、ほかに一人か二人、一緒に連れて行きなさい。すべてのことが、二人または三人の証人の口によって確定されるようになるためである。それでも聞き入れなければ、教会に申し出なさい。教会の言うことも聞き入れないなら、その人を異邦人か徴税人と同様に見なしなさい。はっきり言っておく。あなたがたが地上でつなぐことは、天上でもつながれ、あなたがたが地上で解くことは、天上でも解かれる

 トゥルナイゼンという牧師がこう語っています。イエスは異邦人と徴税人に繰り返し、憐れみを、赦しを差し出した。教会が真剣に祈っても聞き入れられないときは、イエスに委ねよう。イエスはその兄弟のために祈り、その兄弟を憐れみ、赦しを差し出される方だから、と。

 教会では、どんなことがあっても、この人は駄目だと言わないで、祈る。どうしても聞き入れられないときは、イエスさまにお委ねしよう、というのです。何度失敗しても、弱さをさらけだしても、イエスさまはペトロのため、わたしたちのために祈ってくださいます。そのことを感謝して受けとめたとき、ペトロのように「イエスさまこそ、まことの救い主キリスト」と告白せざるを得ません。教会は、そんなペトロ、わたしたちの信仰の告白の上に建てられます。ですから、教会の土台はイエス・キリストなのです。

 そして、あなたの兄弟が罪を犯したら、その兄弟のために真剣に祈る。だめなら、二人また三人で真剣に祈る。20節に「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである」とあるように、イエスさまも一緒に祈ってくださる。それでもだめなら、教会に委ねよう。教会は、その兄弟が立ち直るよう、あきらめないで祈る群れだ。それでも聞き入れられないなら、自分たちで判断せず、イエスさまにお委ねしよう、というのです。

 「あなたが地上でつなぐことは、天上でもつながれる。あなたが地上で解くことは、天上でも解かれる」と言われます。これは、ペトロの、また教会の権能や権威を指す言葉ではありません。すべての人を愛し、赦し、慰め、立ち直ることを願ってやまないイエス・キリストの上に建てられた、わたしたち教会の姿を示し、励ますものです。

 そして「天の国の鍵を授ける」とまで言われます。

 死に打ち勝つ、見えない永遠の国、永遠のいのちの世界を内側から開く鍵を、このペトロを土台とする教会へ授けよう、と約束されたのです。「花の命は短くて苦しき事のみ多かりき」「それさえない人もある」と嘆くわたしたちですが、そのわたしたちが、ペトロの告白を受け継ぎ、イエスさまを生ける神の子キリストと告白し、バプテスマを受けて、天の国の鍵を与えられている教会に加えられました。わたしたちの人生において、これほどすばらしい祝福は外にありません。今も、新しく生ける神の子と告白し、賛美するところに、わたしたちの教会の祝福があるのです。これにまさる、福音、良き知らせはありません。愛する兄弟姉妹方と一緒に、これから後も、この福音を、イエス・キリストの愛と恵みの内を、共に歩んで参りたいと心から願う次第です。