■裁きにさらされて
3節から4節、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません。わたしは、自分で自分を裁くことすらしません。自分には何もやましいところはないが、それでわたしが義とされているわけではありません。わたしを裁くのは主なのです」
わたしたちが恐れているのは、人間の裁きです。
人はどう思うだろうか。人はどう言うだろうか。批判されはしないだろうか。結局、人間がいつも頭を悩ませているのは、そのことです。人の一生は、人の裁きとの闘いだ、と言ってもいいほどです。闘って、闘って、疲れ果ててしまいます。
このときのパウロも、コリント教会の人々から裁かれていました。それは「問題ではない」どころか、パウロにとって大きな悩みでした。教会の人々が自分のことを裁いている。いえ、パウロだけでなく、互いに裁き合っている。そのことに心を痛めつつ、この手紙を書いています。
それにしても、パウロがコリント教会の人々から裁かれるとは、いったいどういうことなのでしょうか。パウロはコリントに初めてキリストの福音を伝えた、いわばこの教会の創設者です。そのパウロのことをこの教会の人々が裁くなどということが、どうして起っているのでしょうか。
この教会は確かに、パウロが最初に福音の種を撒いて生まれたのですが、パウロが去った後、いろいろな指導者がやって来て指導しました。その中から、パウロの教えに批判的なグループが生まれました。彼らからパウロは様々に批判され、中傷を受けました。一番ひどいのは、パウロは自分のことをキリストに遣わされた使徒だと言っているが、そもそもイエスさまの直弟子だったわけではない。そればかりか教会を迫害していた人ではないか。そんなパウロが使徒などと言うのは実におかしなことだ、とまで言われていたようです。だからでしょう。パウロも自らのことを、「わたしは、神の教会を迫害したのですから、使徒たちの中でもいちばん小さな者であり、使徒と呼ばれる値打ちのない者です」(15:9)と告白しています。
力ある指導者であればある程、批判もまた手厳しくなるのは、この世の常です。パウロはそのような批判、裁きにさらされ続けました。
■裁きの中にある
そんな裁きの中にあってしかし、「わたしにとっては、あなたがたから裁かれようと、人間の法廷で裁かれようと、少しも問題ではありません」とパウロは言います。
さすがはパウロだ。そういう強い信念を持って生きていたのだ。そこにパウロの使徒たるゆえんがある。どんな批判を受けてもたじろがない、不屈の指導者としてのパウロの姿がここにはある。
パウロのこの言葉をそう受け取るとすれば、それは誤りです。
パウロが「あなたがたから裁かれる」と言うとき、彼が念頭に置いているのは、自分を批判し、敵対している人たちのことだけではありません。コリント教会には、パウロを批判し敵対する人たちもいましたが、また彼を慕い、師と仰いでいる人たちもいました。「パウロ派」と呼ばれる人々です。その他に、アポロ派、ケファ派、さらにはキリスト派というのまであって、それらのグループ、党派が、それぞれに勝手なことを言い、仲たがいし、互いに対立し合っていた、と1章に語られています。
仮に、自分を批判している人たちのことだけを念頭に置いて、「あなたがたから裁かれる」と言っているのだとすれば、パウロ自身がこの対立の構図の中に巻き込まれていることになります。アポロ派やケファ派やキリスト派の人々は自分を裁いているけれども、パウロ派の人々は理解してくれている、味方になってくれている、ありがたいことだ、ということになります。
しかし、パウロが言っていることはそういうことではありません。「あなたがたから裁かれようと」と言っている、その「あなたがた」の中には、自分を慕い、自分の名のもとにグループを作っている人たちのことも含まれています。パウロ派と呼ばれる人たちもまた、裁いている。パウロはそのことに心痛め、問題としているのです。
■裁いてはいけない
問題は、裁くということです。
「裁く」ということは「批判する」とイコールではありません。裁くとは法廷用語です。判断すること、判決を下すこと、白黒をつけることです。その意味で、パウロを支持する人も、また批判する人も、同じように彼を裁いているのです。その結論が、白か黒か、違うだけのことです。パウロに対して白と判断する人たちがパウロ派を作り、アポロに対して白と判断する人たちがアポロ派を作る。そのようにして党派が生まれ、そこに争いが生まれるのです。
パウロは、そうしたコリント教会内の党派争いの現実を見据えながら、今、この手紙を書いています。その上で、パウロはきっぱりとこう言います。
自分は人から裁かれようと、人間の法廷に立たされようと何ら気にしない、と。人に何と言われようと、自分には自信がある、というのではありません。パウロは言います。自分で自分自身を裁くこともしない、と。何もやましいことなどないけれども、それで自分が正しいというわけではない、と。
箴言に、「人間の道は自分の目に正しく見える。主は心の中を測られる」(21:2)という一句があります。
人の目には、自分の行動は正しく見えるものです。冷静に十分に考えてみれば、ああ、自分の間違えていることがよくわかる、とはなかなかになりません。むしろ考えれば考えるほど、言い訳が出てきます。弁解が出てきます。自分を正当化することになります。だからこそパウロは、自ら省みて疚(やま)しいことがないとしても、それで自分が正しい、義とされているわけではない、と言います。
しかし、それだけではありません。もっと決定的なことがあります。4節、
「わたしを裁くのは主なのです」
自分を裁くのは人ではない。自分でもない。イエス・キリストだ、神だ、とパウロは言います。主に裁かれる、ただ主だけが裁くことができる。それがパウロの確信であり、拠り所です。5節、
「ですから、主が来られるまでは、先走って何も裁いてはいけません」
「裁く」とは「判決を下す」ことです。ここでの判決は悪い意味です。人間は、人に対して判決を下すとき、悪く、厳しい判決を下します。その存在を一蹴するかのように、「ダメだ」と言ってしまいます。この世界を傷つけているもの、暗くしているもの、混乱させているものこそ、そんな「裁き」です。互いに他者を裁き合っている。それが、わたしたちの世界の暗さの正体です。
だから「先走って」裁いてはいけない、と言います。
意見を言うことは良いことです。批判しても良いのです。反対したって構いません。しかし、判決を下してしまってはいけません。裁くのは、ただ主のみ、だからです。人の存在への、最後的で決定的な裁きをなさるのは、ただイエス・キリストだけ、神だけです。
■おほめにあずかる
「主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てをも明らかにされます」
主は闇の中に隠されている秘密を明るみに出し、人の心の企てを明らかにする、と言います。わたしたちを震撼(しんかん)させる言葉です。だれもが慄(おのの)かずにはおれません。
人の目は厳しくても、しかし人の目を逃れることができないわけではありません。弁解することだって、言い繕(つくろ)うことだって、うまくやればできます。わたしたちの胸の一番奥にあるものが人に知られている、とは思いません。わたしたちの最も深いところにある企てが知られている、と思ってもいません。もしそれが明るみに出されたなら、恥ずかしくて生きていけなくなるに違いありません。
しかし、主は闇の中に隠されている秘密を明らかにされる、と言います。心の中にある企てがすべて白日のもとにさらされる、ということです。何と恐ろしい言葉でしょう。何と衝撃的な言葉でしょう。
ところがこの後に、思いもかけない言葉が続きます。
「そのとき、おのおのは神からおほめにあずかります」
そのとき、おのおのは神から厳しい裁きを受けるだろう、というのであれば、よくわかります。しかしそうではなくて、「おほめにあずかる」というのです。
昔、殺人事件があって、長く騷がれた後、容疑者が逮捕されました。テレビの報道番組の一つが容疑者の家を訪ね、インタヴューを試みます。玄関先に母親が出てきます。「息子さんが逮捕されましたが…」という残酷な質問に、母親は答えました。その言葉が忘れられません。
「息子がそんなことをしたなどとは、絶対に信じておりません。あの子はそんな子ではありません」
母親はおそらく、だれよりも我が子の悪いところを知っているはずです。そう思います。しかし母親は、だれよりも我が子の良いところも知っているのです。母親だけが知っている良い部分を、お腹を痛めた生みの親である彼女は、忘れることができません。人が何と言おうとも、です。
ましてや神は、すべての者の造り主、まことの生みの親です。イザヤ書44章21節に、こう記されています。口語訳です。
「ヤコブよ、イスラエルよ、これらの事を心にとめよ。あなたはわがしもべだから。わたしはあなたを造った、あなたはわがしもべだ。イスラエルよ、わたしはあなたを忘れない」
「わたしはあなたを造った。…わたしはあなたを忘れない」。造られたわたしたちがどのような者であろうとも、神にとっては忘れられない存在なのだ、そう言われます。わたしたちは、神が心を込めて造ってくださった、いわば神の作品、かけがえのない作品なのです。
とすれば、その作品がもしも、だれかから傷つけられたらどうでしょう。例えば、あなたが、わたしが誰かから笑われたり、からかわれたりしたら、わたしたち以上に、天の作者である神は傷つかれることでしょう。
ましてや裁かれたら、どうでしょうか。裁くということは、先ほども申しあげたように、人の存在への、最後的で決定的な否定、全人格を否定することです。神が造った、神の作品という一点において、神はそのことを決してお赦しにはならないでしょう。
わたしが、自分で自分を傷つけるとします。自分の体は、自分で自由にさげすんでもかまわない、と投げやりになります。しかし、父なる神は違います。そこには、わたしが自分を痛めつけるたびに、やめてくれ!と、のたうつ神がおられるのです。
■裁かれるのは主
人間は、人の罪悪を見出したとき、まるでその人間の正体をつかんだかのように思います。醜い部分を見つけたとき、その人間の本質を知ったかのように興奮します。しかし、主が人間の隠された闇の秘密を知るということは、そういうことではありません。人間の醜さ、罪悪のその奥に隠されている良いものを、主は見られるのです。人間の汚濁のその向こうにある、わずかな良い志を見落とされはしないのです。そこのところで、評価してくださいます。
むろん、神がわたしたちを総体として見れば、とても正しいとは言えないでしょう。捨てられるべき罪人にすぎません。しかし、イエス・キリストはあの十字架において、その人間を贖(あがな)ってくださったではありませんか。苦しみの道を、その人間のために歩んでくださったのです。主は、わたしたちの中の否定されるべきものを、もはやご覧になりません。汚れた雑巾のようなわたしたちの中の、わずかの良い志を見ていてくださるのです。汚れた手の為す小さな業を、主は決して見失われません。
この罪人が、おほめにあずかる日を待っているのです。この罪人が、主の裁いてくださる日を待ち望みつつ、与えられた一日一日、小さな業を、喜んで積み重ねているのです。
今年度も半年が過ぎました。わたしたちの教会の、下半期の歩みが始まろうとしている今、前方を見れば、果たすべき課題の大きさと、なしうる業の小ささを思わないではいられません。けれども、わたしたちは知っています。
いよいよイエスさまが逮捕されて十字架へと引き渡されていく夜、ペトロはイエスなど知らないと三度も否定し、裏切り、取り返しのつかないことをしてしまいました。その時のことです。
「主は振り向いてペトロを見つめられた」(ルカ22:33)
そのまなざしは、ベトロにとって叱責と裁き、糾弾と断罪のまなざし以外の何物でもなかったでしょう。しかし復活のイエス・キリストがペトロこと「ケファに現れ、その後十二人に現れた」(15:5)のです。ペトロは裏切りという取り返しのつかないことをしてしまいました。しかしイエスさまはペトロに出会われたのです。裁くためではなく赦しのために!そのまなざしは愛と恵み、憐れみと慈しみのまなざしでした。
主なる神こそ、終わりの日にわたしたちを裁かれるお方でした。そのお方がこの世に遣わされ、十字架からよみがえられた御子キリストが今も、このわたしたちにも出会い、愛のまなざしで見つめてくださるのです。ある方が「自分の平凡な人生を振り返ってみると、マサカの連続であった」と言われていました。この世は絶望のマサカに満ちています。しかしそこに希望のマサカがあるのです。このマサカの愛に支えられ、希望の人生が始まるのです。わたしたちのために、わたしたちの罪を背負って、十字架にかかって死んでくださった御子がまことの裁き主であることに、わたしたちの喜びと希望があります。だから、わたしたちの日々の労苦は、何一つ無駄にはなりません。この確信を胸に、新しい週を皆さんと共に歩んでまいりたい、そう願います。