福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

TEL.093-951-7199

12月10日 ≪降誕前第3・待降節第2主日礼拝≫『共に赦された者として』 コリントの信徒への手紙一 5章 9~13節 沖村 裕史 牧師

12月10日 ≪降誕前第3・待降節第2主日礼拝≫『共に赦された者として』 コリントの信徒への手紙一 5章 9~13節 沖村 裕史 牧師

 

■みだらな者と交際してはいけない

 パウロは以前の手紙で、「みだらな者と交際してはいけない」と書き送っていたようです。この5章には、コリント教会で起っていた「みだらな行い」、性的な不道徳の罪について語られていますが、パウロは前に書き送った手紙でも、その問題に触れ、そういうことをしている者と交際してはいけない、と教え諭していたようです。

 「その意味は」と10節に続きます。前の手紙に書いた「みだらな者と交際してはいけない」という教えの意味を、今、改めて語ろうとしています。それは、前の手紙に書いたことを誤解し、また曲解している人々がいたからです。どんな誤解、曲解だったのか。

 「その意味は、この世のみだらな者とか強欲な者、また、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つきあってはならない、ということではありません。もし、そうだとしたら、あなたがたは世の中から出て行かねばならないでしょう」

 みだらな者や強欲な者、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちと一切つき合ってはならないとパウロが言っている、という誤解です。わたしはそんなことを言っていない、とパウロは言います。そんなことを言えば、わたしたちの誰も、この世で生きていくことなどできなくなってしまう。この世は、みだらな者や強欲な者、人の物を奪う者や偶像を礼拝する者たちで満ち満ちている。そういう者と一切交際しないとすれば、この世を捨てて修道院のような所で隠遁生活を送るしかなくなってしまうではないか、ということです。

 この世を離れて禁欲的な生活をすることを信仰的だとする人がいますが、パウロはそうではありません。パウロはこの世にあって福音を宣べ伝えることを良しとします。だから、このような者とは一切つき合うなと言っているのではない。パウロの真意は11節です。

 「わたしが書いたのは、兄弟と呼ばれる人で、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいれば、つきあうな、そのような人とは一緒に食事もするな、ということだったのです」

 問題は「兄弟と呼ばれる人」です。兄弟とは、主にある兄弟姉妹、教会に共に連なっている教会員のことです。その中に、みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者がいるなら、その人とはつきあってはいけない、一緒に食事をしてもいけない、とパウロは言います。

 

■過越祭を祝う群れ

 教会の外にいる人々には、つきあうな、一緒に食事もするななどとは言わない。しかし、教会の内にいる人にはそう言う。一体、どういうことでしょうか。今、パウロが語ろうとしている真意とは何でしょうか。注目いただきたいのは、直前の7節から8節の言葉です。そこにこう書かれていました。

 「いつも新しい練り粉のままでいられるように、古いパン種をきれいに取り除きなさい。現に、あなたがたはパン種の入っていない者なのです。キリストが、わたしたちの過越の小羊として屠られたからです。だから、古いパン種や悪意と邪悪のパン種を用いないで、パン種の入っていない、純粋で真実のパンで過越祭を祝おうではありませんか」

 パウロは、キリストがわたしたちの過越の小羊としてすでに屠られたのだから、わたしたちも過越祭を祝おうと言います。教会は、過越祭を祝う群れです。過越祭は本来、イスラエルの民の最大の祭りで、エジプトで奴隷とされ苦しめられていたイスラエルを、神が解放し、救い出してくださった、そのことを喜び祝う祭でした。パウロは、わたしたち教会もその過越祭を祝おうと呼びかけます。教会にとっての過越祭とは、神の独り子イエス・キリストの十字架の死によって、神がわたしたちの罪を贖い、罪の支配から解放し、新しく生きる者としてくださった、その救いの出来事を喜び祝うことです。ユダヤ人の過越祭では、過越の小羊が屠られ、その肉を共に食べる過越の食事がその中心でした。教会の過越祭の中心にも食事がありました。それが聖餐です。
 
 わたしたちは、主の十字架によって罪の赦しの恵みが自分に与えられていることを信じて洗礼を受け、聖餐によってその信仰をより確かなものとされ、喜びと希望をもって日々の人生を歩みます。わたしたちはこのことを忘れてはなりません。そしてパウロもまた、このことを踏まえた上で、教会の内部と外部の区別を語っているのです。

 

■罪の赦しの恵みを知っているか

 とすれば、内と外、兄弟姉妹とそうでない人々、教会と世間との違いとは、キリストの十字架による罪の赦しの恵みを知っているかどうか、その恵みによって生きているかどうか、ということです。ここにパウロの真意を解く鍵があります。

 パウロが今、教会で起っている罪を真剣に問い、その悔い改めを求めるために、そういうことをしている人とはつきあうな、一緒に食事もするなと厳しいことを言えるのは、教会の内部と外部とを、教会とその外の人々とを、はっきりと区別しているからです。

 それは、教会に連なる者であるあなたたちは、もうすでに主による罪の赦しの恵みを知っていて、その恵みをいつも喜びつつ生きる者だからこそ、あなたたちは、互いに罪赦された者として、互いへの愛をもって、互いの罪を真剣に問い、互いに悔い改めを求めることができるはずだ、あなたたちはそういう群れではないのかということです。

 12節にある、外部の人々を裁くことはわたしたちの務めではない、内部の人々をこそ裁くのだという言葉は、外部の人に対してはやさしい顔をするが、一旦信者になり、教会員になり、内部の人になったら、今度はびしびしと厳しい規律で締め上げる、ということではありません。内部の人、信仰者とは、洗礼を受けて主につながる者となり、主の十字架によって決定的に罪赦されているという大きな喜びに生きる者のことです。だからこそ、その人たちには罪を指摘し、悔い改めを求めることができるのです。確信をもって、主による赦しの恵みに立ち返ることができるからです。

 しかし外部の人々、教会に連なっていない、主による罪の赦しの恵みを信じ受け入れていない人々には、そのように罪を指摘することはできません。彼らは立ち返るべき赦しの恵みをまだ知らないからです。赦しの恵みを知らない人に対して、あくまでもその罪を断罪していくとすれば、それは相手を滅びへと追い詰めだけのことです。それは、わたしたちの分を越えたこと、人がしてはいけないこと、神だけがおできになることです。13節の「外部の人々は神がお裁きになる」とは、そのことです。外部の人の罪がどうでもよいのではなく、それは神にお任せするしかないのです。

 

■わたしたちへの問い

 パウロが教会の中の罪を厳しく指摘するのは、彼が厳しい人だったからではありません。パウロは、教会が御子キリストの十字架による罪の赦しの恵みに生きる群れである、ということを真剣に受け止めていたのです。そのことを心から喜んでいたのです。であればこそ、教会では罪が問われ、悔い改めが起り、その赦しに生きることができるはずだ、それこそが共に罪赦された者としての群れ、教会ではないかと言うのです。

 厳しいことを言っていたら誰も教会に来なくなると恐れ、互いの罪を指摘し、悔い改めを求めることをせずに、罪をうやむやにしてしまおうとするのは、パウロに言わせれば、本当のところで御子キリストによる赦しに生きていないからです。罪の赦しの恵みが口では語られていても、それは、ただのお題目。御子キリストによる罪の赦しによって生かされているのなら、自分たちの間にある罪をもっと大胆に、真剣に問うことができるはずです。逆に、それがただの建前になっている所では、表面上はやさしく罪を見逃し、曖昧にしていながら、陰では悪口を言い、冷たく批判し、公の場ではとても言えないような、びっくりするような心ない言葉が飛び交うということが起るのです。

 では、わたしたちは教会の中で、人の罪を遠慮なくどんどん指摘し、それを責めていった方がよいのでしょうか。パウロが語っていることは、そんな単純な話ではありません。むしろ、ここからわたしたちが学ぶべきは、人の罪を指摘し、その罪を問うことの難しさです。

 わたしたちが人の罪を指摘し、責めようとする時、それはしばしば、自分の怒りによることだったり、仕返しをして恨みをはらすためだったり、人を責めることによって自分の正しさを主張するためだったりします。自分の罪が赦されたことを感謝し、人の罪も同じ赦しの下にあることを信じ、だからこそ相手と共に主の赦しにあずかろうというのとは、全く違う思いです。

 パウロがここでコリント教会の罪を厳しく指摘しているのは、罪を犯した人に対する怒りや、自分の正しさを主張するためではなくて、その人が悔い改めて、御子キリストの十字架による罪の赦しの恵みを想い起し、兄弟姉妹としての関係が回復されることを願ってのことでした。パウロは、教会が御子キリストの罪の赦しの恵みを本当に喜び祝い、共にその恵みに生きる群れとなることを願っているのです。

 

■良い交わりへの招き

 そんなパウロの願いを心に留めつつ、少し長くなりますが最後に、ローマの信徒への手紙7章7節のパウロの言葉について、お話をさせていただきます。パウロの罪に対する考え方、その内容を知ることで、今日のパウロの真意をより深く理解することができる、そう思うからです。

 「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。たとえば、律法が『むさぼるな』と言わなかったら、わたしはむさぼりを知らなかったでしょう」(ローマ7:7)

 パウロは、「むさぼるな」という第十の戒めに、律法全体、十戒全体を代表させています。罪の本質は貪りにある、貪欲こそがすべての罪の根源だ、ということです。そのことを聖書が様々な例によって示しています。

 人間の最初の罪は、創世記3章。アダムとエバが神から「食べてはいけない」と言われていた禁断の木の実を食べてしまいました。それは「お腹が空いたのでつい手を出してしまった」というのではありません。人間が神の下で、神に従って生きることを窮屈なこと、不自由なことと思い、そこから自由になろうとした、自分が主人になって自分の思いによって生きようとした、ということです。偶像礼拝の罪です。最初の人間の最初の罪の本質に、この「貪り」がありました。

 その貪りは神にだけ向かうのではありません。他の人間、共に生きるべき兄弟に対しても向けられます。創世記3章のすぐ後4章に語られたのは「カインとアベル」の物語でした。兄カインが弟アベルヘの嫉妬から弟を殺してしまいました。「嫉妬」とは、人の持っている良いもの、人に与えられている神の祝福や賜物を妬み、それを奪おうとする思いです。嫉妬もまた、人に対する貪りです。貪りから殺人の罪が生れました。

 またサムエル記下11章には、ダビデ王の罪が語られます。自分の忠実な部下だった将軍ウリヤの妻バト・シェバに欲望を抱き、ウリヤをわざと戦死させて、自分の妻にしてしまいました。問題は、隣人の妻への貪りの罪によって、隣人の、また自分自身の家庭、夫婦の関係が破壊されていることです。「姦淫」とはこの隣人の妻に対する貪りの罪でした。ダビデはその貪りによって姦淫と同時に殺人の罪も犯したのです。

 列王記上21章に語られる出来事も、貪りによって生じた罪の例です。アハブ王とその妃イゼベルが、ナボトという人のぶどう畑を奪います。アハブは王です。その畑がなければ飢え死にするというのではありません。彼がその畑を欲したのは、宮殿のすぐ隣にある土地を菜園にしたかったからに過ぎません。自分勝手な欲望のために彼は偽りの証人を立て、訴えさせ、悪く言い、死刑にしました。ここでも貪りによって殺人の罪が犯され、第九の戒め「偽証」の罪が犯されます。「偽証」にも「貪り」がありました。

 今、見てきた例の中に、「殺してはならない、姦淫してはならない、盜んではならない、偽証してはならない」という、十戒が隣人との関係について戒めている全ての罪が出てきています。そしてその戒めに、今日のパウロの言葉、「みだらな者、強欲な者、偶像を礼拝する者、人を悪く言う者、酒におぼれる者、人の物を奪う者」という罪のリストがぴたりと重なります。

 パウロが挙げた「むさぼるな」という戒めによって、わたしたちは心の中にある貪りの思いと戦い、隣人の家を、隣人の妻や夫を、あらゆる隣人のものを、その人のものとして尊重し、それがその人のものであることを喜ぶよう促されています。言い換えれば、隣人への祝福へと、隣人との本当に良い交わりへと招かれているのです。しかし貪りの思いがあるところでは、本当に良い人間関係は生まれません。貪りの思いから解放されることこそが、隣人との真実な交わり、本当に良い関係の鍵なのです。

 では、その貪りからの解放は、何によって与えられるのでしょうか。

 ただ「貪ってはならない」という戒めが与えられることで、貪りから解放されるわけではないことを、わたしたちは知っています。ローマの信徒への手紙でパウロが言っているように、「貪るな」という律法によって、わたしたちはむしろ貪りの罪を知るのです。「貪るな」と言われれば言われるほど、神と隣人とに対するわたしたちの貪りは膨れ上がります。貪ってはいけない、貪るまいとするわたしたちの努力など、わたしたちの心の奥深くにある貪りの思いの前では、吹けば飛ぶようなものです。だから、パウロは続く15節に「わたしは、自分のしていることが分かりません」と記し、24節、「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」と苦しみました。

 それにもかかわらず、25節でパウロは「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします」と告白しています。「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう」という嘆きが、突然、神への感謝に転換します。ここに貪りからの解放への扉が開かれます。

その扉は、わたしたちが何かをすることによって開かれるのではありません。「わたしたちの主イエス・キリストを通して」、神が開いてくださる、イエス・キリストによって成し遂げられた救いの恵みによって、貪りからの解放への扉が開かれるのだ、と言います。

 救われるはずもないこのわたしが救われた。この驚くべき救いの恵みによって、わたしたちは、自分のいのちがキリストと共に、神の内に隠されていることに気づかされます。そう気づかされるとき、わたしたちは地上のあれこれを獲得しなければ生きていけないという思い、貪欲から解放されます。本当に恵み深い愛をもって、御子キリストのいのちを犠牲にしてわたしたちの罪を赦し、生かしてくださっている神を知り、信じることによって、あらゆる罪の根源、貪欲から解放されて生きることができるようになるのです。

 そのために、御子イエス・キリストがわたしたちの救いのためにこの世に与えられました。アドヴェントの季節、この驚くべき恵みに感謝し、またその恵みにすべてを委ねて、悔い改めと隣人との良い交わりへの道を共に歩んで参りたい、そう願う次第です。