■躓き
冒頭14節、「そのころ、ヨハネの弟子たちがイエスのところに来て、『わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか』と言った」。
マタイは「そのころ」と語り始めています。この言葉を、口語訳は「そのとき」、新改訳は「するとまた」と訳しています。イエスさまに招かれた人たち―マタイを初めとする、大勢の徴税人や罪人たちとイエスさまが共に食卓に着き、食べたり飲んだりしていました。その様子を見て、ファリサイ派の人々は驚き、躓(つまづ)きました。罪汚れた人と一緒に食卓を囲むことは、その汚れを我が身に受けることです。ファリサイ派の人々は、弟子たちに問い糾(ただ)しました、「なぜ、あなたたちの先生は徴税人や罪人と一緒に食事をするのか」。ファリサイ派の人々が問題としたのは、「罪人と一緒に食事をする」ことでした。律法に定められた清浄規定―罪汚れたものと清いものとを厳密に分離するよう定めた掟―を守っていないということでした。
「そのころ」とは、そのやり取りのすぐ後ということです。
洗礼者ヨハネの弟子たちもまた躓きました。そしてやんわりと抗議します。
「わたしたちとファリサイ派の人々はよく断食しているのに、なぜ、あなたの弟子たちは断食しないのですか」。
「あなたの弟子たちは」とありますが、これは「イエスよ、あなたは」ということです。また「よく断食しているのに」という言葉は、「いま、断食している」「断食の最中である」と訳せる言葉です。ユダヤの人々は、自分や他人の生活を省み、自らの罪を悲しみ、週に一度ないし二度、断食を行うよう定められていました。ヨハネの弟子たちも、そんな断食をしていたのでしょう。ところが、イエスさまの家からは、実に楽しそうな宴会のざわめきが、ときには歌声までも聞こえてきます。
彼らが躓いたのは、イエスさまが罪人たちと一緒に食事をしていたからではありません。問題は「断食」でした。
旧約聖書では、断食は最初、悲しみのしるしでした。みんなで一緒にごちそうを食べることが祝いや喜びのしるしであるとすれば、断食は深い悲しみと哀悼のしるしでした。イスラエル最初の王となったサウルが死んだとき、イスラエルの民は、7日間の断食をしています(Iサム31:13)。断食の時には、粗(あら)布(ぬの)を身に纏(まと)い、灰を被(がぶ)りました。それが後に、古代イスラエル暦の第七の月の十日、贖(あがな)いの日に、犠牲(いけにえ)を献げて自らの罪を告白し、断食と祈りの時を守ることが、イスラエルの人々にとって最も大切な儀礼のひとつとなります。バビロン捕囚以降のことと考えられています。国を失い、遠く異国の地に奴隷として連れ去られるという苦難を受けることになったのは、自分たちの罪の故、その罪を悔い改めなければならない。断食は、その「悔い改め」のしるし、となりました。
自分の罪を覚え、神の前にそれを懺悔(ざんげ)し、悔い改める、そのことを、食事を断つという行為によって、空腹の苦しみを自分に課し、その苦しみに耐えることによって表しました。それは祈りとも結びつきました。ただ食事を断って空腹に耐えるだけでなく、その間、神に定められた祈りを捧げました。悔い改めの祈りです。断食は、ユダヤの人々の信仰の大切な要素、悔い改めの信仰を表わすしるしとなりました。
ところが、イエスさまと弟子たちはその断食をいたしません。ヨハネの弟子たちの批判はそのことに向けられます、「なぜ、断食をしないのか」「なぜ、悔い改めないのか」。
■喜びの悔い改め
イエスさまも断食そのものを否定はされません。山上の説教でも、「断食をするときには」(6:16~)と断食について教えておられていますし、何より、イエスさまご自身が、この世での働きに先立って荒野で四十日四十夜の断食をされています(4:2~)。
ではなぜ、彼らのように断食をされなかったのでしょうか。イエスさまはこうお答えになります。
「花婿が一緒にいる間、婚礼の客は悲しむことができるだろうか」。
結婚の宴(うたげ)という喜びの席に招かれて、断食する愚かな客はいない、ということです。当時、花嫁が婚礼の部屋に到着すると、葡萄酒を伴った祝祷をもって結婚を祝う宴が始められました。その宴は、初婚であれば七日間、再婚であっても三日間続けられることになっていました。招かれた「婚礼の客」の務めは、新郎・新婦と宴を共にする間、大いにその席を盛り上げることです。ユダヤの規定にも、その義務を果たすために、宴の時をはずして断食をするようにと定められているほどです。
「まさに今は喜びの時であり、断食はその喜びの時にふさわしくない」。
イエスさまはそう言われるのです。「今は喜びの時だ」と言われます。「悔い改めなさい。天の国は近づいた」(4:17)と宣言された福音―喜びの知らせと同じ響きを持つ言葉です。「今は喜びの時」「今こそ救いの時」、「今がその時だ」と言われます。
イエスさまにとって、まことの悔い改めは、悲しみではなく、むしろ喜びをもたらすものでした。断食の悲しみによって、救いの喜びが生み出されることはありません。ペトロ、重い皮膚病の人、中風の人、徴税人マタイたちがそうであったように、あまりにも大きな神の愛と恵み、それゆえに、自分が本当に罪深いということが分かるのです。
わたしたちの罪深さは深刻です。「あなたはあんなひどいことをした」「こんなこともやったじゃないか」と言われて、本当にひどいことをやりましたと言えるほど、人は素直ではありません。そんなに簡単なものではありません。「謝ったら赦してあげる」と言われて、赦されたことも、赦したこともない、それがわたしたちの現実です。
驚くほどの大きな愛と恵みに包まれたとき、あるいは、思いがけない祝福と奇跡が示されたとき、いいえ、「もうあなたの罪は赦されている」と「悔い改めに先立つ赦し」が与えられたからこそ、ペトロもまた「わたしは本当に罪深い者です。イエスさま、わたしから離れてください」と、まことの悔い改めをすることができたのではないでしょうか。悲しみをたたえた、暗い顔で自分の罪を悔い改めるから、赦され、救われるのではありません。まず赦され、救われるからこそ、喜びと感謝をもって心から悔い改めることができるのです。
藤木正三という人がこんなことを言っています。
「自分を改めるということは、何らかの意味で痛苦(痛み苦しみ)を伴うものです。神を信じるとは、神に変革を迫られることでもありますから、痛苦を我が身に招くことでもあります。信仰は、痛苦を持って生きるしるしとし、またその証をたてるものです。痛苦のない信仰、それを偶像崇拝と言います。偶像崇拝とは、単に像を拝むということではなく、痛苦を避けつつ信じようとする自己執着のことです。ですから、痛苦に身を浸している信仰は、たとい木、石の像を拝もうとも、偶像礼拝と言うべきではありません」(『灰色の断層』)と。
悔い改めの信仰をもって、木石に刻んだ像を拝むのであれば、それを偶像礼拝と言って批判すべきではない、とはまさに然り、その通りです。しかし、「信仰は、痛苦を持って生きるしるしとし、またその証をたてもの」というのは、いかがでしょうか。そうではありません。
イエスさまが示されるまことの悔い改めは、わたしたちがこれまで教えて来られたような、苦痛に顔をゆがませるようにして、自分の心を神様の方に無理やり方向転換することではありません。自分の力と思いで生きるのでもなく、ただ神様に見出され、驚くほどのその愛の中に生かされていることに気づかされて、感謝と喜びにあふれるようにして自分を委ねることです。自分が生きている自力の人生ではなく、生かされて生きている人生として、人生を受け取り直すことです。
ヨハネの弟子たちの悔い改めは、断食という苦行に代表される、自らに苦しみを課してそれによって神に祈り、罪の赦しを願い、従っていくというものでした。簡単に言えば、自らの努力と精進に生きる信仰です。それに対して、イエスさまが徴税人や罪人たち、弟子たちと一緒に食べたり飲んだりするという宴の喜びの中にこそ、生かされ生きるまことの信仰の姿がある、それこそが悔い改めの姿である、イエスさまはそう言われたのでした。
■決定的な新しさ
ここに、決定的な新しさがありました。
それは、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々には、想像もつかない道でした。イエスさまは、その道を説き、その道を示され、その道を実現するために、この世に来られたのでした。イエスさまのみ言葉とみ業、そのひとつひとつが、ヨハネの弟子たちやファリサイ派の人々の「古い」考えをはるかに超える、あまりにも斬新で「新しい」道でした。だから、彼らは躓いたのでした。
イエスさまは、躓く彼らにこう語りかけられます。
「だれも、織りたての布から布切れを取って、古い服に継ぎを当てたりはしない。新しい布切れが服を引き裂き、破れはいっそうひどくなるからだ。新しいぶどう酒を古い革袋に入れる者はいない。そんなことをすれば、革袋は破れ、ぶどう酒は流れ出て、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れるものだ。そうすれば、両方とも長もちする。」
イエスさまは、ご自身が示された道のことを「新しい布切れ」「新しいぶどう酒」に譬(たと)えられます。
ご存じのように、新しい布をそのまま古い服に継ぎ当てして洗濯をすると、新しい布の縮み具合が大きく、古く弱くなっている布地は簡単に引き裂かれます。ぶどう酒の場合もそうです。新しいぶどう酒を、古く堅くなった革袋に入れれば、新しい葡萄酒の活発な発酵によって、古い革袋は引き裂かれてしまいます。そうなれば、ぶどう酒も革袋も両方がダメになってしまいます。それほどに、新しい布切れや新しいぶどう酒は「強い」のです。
それと同じ様に、いえそれ以上に、イエスさまの示された救いの道は、今までの考え方を根本的に覆してしまうほどの強烈なインパクトを持って、迫り来るものでした。
イエスさまが語られた「天の国(神の国)」という考えがなかったわけではありません。しかしユダヤの人々にとって、「神の国」は、唯一の神が今ここを支配しておられるということを意味するだけのものでした。昔も今も、そして将来も、神が支配される。ただ、神の国が世界のすべての国々、すべての人々に顕(あらわ)されるのは、ずっと先のこと、終わりの時のこと、そう信じていました。しかし今、イエスさまは言われます、「悔い改めよ、天の国は近づいた」と。今ここに、神による、新しい救いの時がもうすでに始まっている、「もうあなたは赦されている」「今こそ救いの時」、そう宣言されたのでした。
■花婿が共にいるので
その新しさは、今、この時代に、聖書を読み、福音書に示されたイエスさまの教えと姿に触れているわたしたちにとっても、まったく新しく斬新で、自分たちのこれまでの生き方を180度変える、まさに「回心」を迫ってくる、「新しさ」です。
わたしたちの人生は楽しく、平安である場合もありますけれども、思いがけない悲しみに打ちひしがれる場合もあります。説明のつかない、運が悪かったとしか言いようのない出来事に出会うこともしばしばです。
そういう、良いも悪いもすべて含めて、人生全体を、神様の愛に見つけられている、神様のみ手の中の人生と受け止めて生きる、その生の在り様の変化、それが、まことの悔い改めであり、救われた者の姿です。
人生において大事なのは、苦悩のないことではありません。悩みを安心して苦しむことです。苦しくても安心して、辛くても安心して、痛くても安心して生きることができるとすれば、これに勝ることがあるでしょうか。わたしたちが心して求めるべきは、生き甲斐とか、幸福とか、豊かさとか、楽しさとか、そのようなものではなくて、安心して苦しむ、言い換えれば、ただ喜びを湛(たた)えて生きることなのです。そして、そういう喜びは、神の愛のみ手に気づかされ、自分の人生をその愛の中にあるものとして受け取り直した者に賜る恵みであり、またその恵みに生きる者のしるしなのです。
それこそ、ほんとうに新しい人生です。それは、ただわたしの内から湧いてくるというよりも、イエスさまがおられるところに、いつでもある新しい喜びです。イエスさまは「花婿が一緒にいる」と約束してくださいました。婚礼の食事と一般の食事の大きな違いは、ご馳走の豪華さではなく、その食事の席に花嫁と花婿がいるかどうかです。それが食事の喜びの源泉であり、仮に食事が質素であっても、新郎新婦がいてくれさえすれば、立派な喜びの祝宴になります。同じ様に、イエスさまがわたしたちの間におられるならば、それは、いつどこででも、喜びの祝宴です。
「しかし、花婿が奪い取られる時が来る。そのとき、彼らは断食することになる」とイエスさまは言われました。その「花婿が奪い取られる時」とは十字架の時のことですが、それでもわたしたちは知っています。花婿は奪い取られたままではなく、三日の後に復活し、天に上げられ、二千年前のペンテコステの日に約束された聖霊を降し、より確かなかたちで、今もここにわたしたちと共にあることを。
イエスさまが言われる「新しいぶどう酒は新しい革袋に」とは、まさにこのイエスさまと共に生きる中にこそ、本当の新しさがある、という意味です。ちょうど、新しい革袋に新しいぶどう酒を注ぎこむようにして、わたしたちもイエスさまと共に、新しい歩みを喜びをもって歩んでいきたい、そう願います。
お祈りします。愛の主よ。喜びではなく、悲しみを選んでしまい、御子の恵みではなく、自分の正義感に、厳しさに心を惹かれてしまうわたしたちです。どんな人とも、あなたの愛のなかに共に立ち続けることを選ぶのではなくて、人を裁き、また世にすねて生きる生き方を選んでしまうわたしたちです。喜びの中へと招き入れてください。そこに立たせてください。苦しいこと、つらいことがあり、涙を流す日々が続いても、あなたと共にあり、あなたに受け入れられている喜びに生きることができますように。主のみ名によって。アーメン