福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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★10月3日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『愛というメニュー』ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節 沖村裕史 牧師

★10月3日 ≪土曜礼拝―SATURDAY WORSHIP≫ 『愛というメニュー』ガラテヤの信徒への手紙5章2~6節 沖村裕史 牧師

■選ぶためには
 時々自分のことを、優柔不断な性格だと思うことがあります。
 たとえば、ファミリーレストランでメニューを選ぶときのことです。おいしそうな写真のメニューがずらりと並び、目移りして、なかなか一つに決められません。「たまにはうなぎもいいな、でもこのカレーもおいしそうだな」などとページをパタパタめくっているうちに、非情なウエイトレスさんがするすると近寄ってきて、こう言い放ちます。「お決まりですか」。そうなるともう、頭は真っ白です。思わずあらぬメューを口走り、彼女が去ってから、しみじみと後悔をします。
 思うに、決断できないときというのは、多くの選択肢の中から一つを選択する「根拠」「目的」がないときです。根拠さえあれば、目的さえはっきりしていれば、選ぶのも簡単になります。「最近疲れ気味だから、なるべく栄養価の高いものにしよう」とか、「今は金がないから、いちばん安いので我慢しよう」など、迷いも少なくなります。素敵な根拠、素敵な目的をうまく見つけることが、素敵な選択をするコツだ、と言えるでしょう。
 もっとも、これがメニュー選びなんてことなら、悩もうが間違おうが、別にどうということはありません。しかし人生には、優柔不断などと言ってはおられないような、大切な分かれ道が無数にあり、そんなときには迷わず結論を出せる根拠、目的をもっていることが大きな力になるはずです。そしてその根拠も、目的も、素敵なものであればあるほど、良い選びができるに違いありません。おそらく、古今の聖人と称される人は、何かするときに、最も素敵な根拠や目的によって、最も優先順位の高いことを、ごく自然に選べる人たちのことなのかもしれません。
 「おやじのいうとおり安定した大会社に入るか、自分の夢を大事にして絵を描き続けるか」「けんか別れをしたあの人とこれっきり会わないか、仲直りの電話をかけるか」「会社帰りに居酒屋につきあうか、早く帰って妻とゆっくり食事をするか」「手にした空き缶を道端にポイ捨てするか、もち帰るか」
 人生観をはじめ、人間関係から環境問題に至るまで、大きな決断、小さな決断をするために、いちばん大切なことを、いちばん大切にできるような、素敵な根拠、素敵な目的が必要です。人生というレストランで、いつでもそんな根拠を、目的をもって、自分もみんなも喜べるごちそうを「自由」に選び取れたら、最高に気持ちいいはずです。

■欲望という自由
 見出しに「キリスト者の自由」とあるこの手紙のテーマも、そんな素敵な根拠、素敵な目的を持った「自由」について、です。
 「自由」。「自由」と言われて、皆さんはどんなことをイメージしますか。どういうことを自由だと思われますか。
 きっと、多くの人は、自分の欲するがままに、自分の望むがままに振る舞い生きること、それが自由だと思われるのではないでしょうか。欲する、望むという言葉通り、自分の欲望のままに生きるときに自由だと感じ、そうできないときは不自由だと思われるでしょう。
 聖書の中にも、そう思っていた人が出てきます。ルカによる福音書の15章に登場する人も、その一人です。
 「ある人に二人の息子がいた。弟の方が父親に…」と語り始められます。
 昔の家は、父親を中心に、家族みんなが一つ屋根の下に暮らし、一緒に仕事をし、それぞれの役割を果たしながら生きていました。弟はそれを不自由だと思っていたのでしょう。彼は自由を求めました。父親の下を離れて、自分の思うがまま生きたいと願いました。そこで、父親が死んだ後に相続することになるはずの遺産の生前贈与を要求します、父親は、息子のその願いを聞き入れ、二人の息子それぞれに財産を分け与えました。
 さて、彼は自由になることができたでしょうか。
 できませんでした。こう書かれています。
 「何日もたたないうちに、下の息子は全部を金に換えて、遠い国に旅立ち、そこで放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった。何もかも使い果たしたとき、その地方にひどい飢饉が起こって、彼は食べるにも困り始めた。それで、その地方に住むある人のところに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって豚の世話をさせた。彼は豚の食べるいなご豆を食べてでも腹を満たしたかったが、食べ物をくれる人はだれもいなかった。」
 食べる物も、住む場所も、何ひとつ、彼の自由にはならなくなりました。
 一体、どこで間違ったのでしょうか。
 「放蕩の限りを尽くして、財産を無駄使いしてしまった」からです。無駄遣いしなければよかったのに、と思われるかもしれません。しかしそうはいきません。彼の求めた「自由」が、欲しいままに、欲望のままに生きることだったからです。彼の「自由」は、欲望の「奴隷」になることでした。
 人間の欲望には限りがありません。イギリスのある詩人が「人間の欲望は、渇いた時に海の水を飲むようなものだ」と言っています。渇きを潤そうとして塩辛い海水を飲めば飲むほど、渇きは収まるどころがますます強くなります。飲めば飲むほど渇き、体内から水分が排出され、ついには死に至ります。それが、欲望のままに生きるということでした。

■たったひとつのメニュー
 本当の自由とは何なのでしょうか。わたしたちが自由を求めるのは、なぜでしょうか。
 渇くようにして自由を求めた、みなさんの思春期を想い起してみてください。もちろん誰にも欲望はあります。けれど、わたしたちが本当に求めているのは、自分が自分らしくあること、自分らしく生きることではなかったでしょうか。そうです。自由とは本来、自分が自分らしく、もっと言えば、人間が人間らしくあることなのです。欲望のままに生きること、欲望の奴隷になってしまうことが、人間らしい姿であるはずはありません。
 人間らしい姿とは、根源的ないのちの姿、かけがえのないありのままの姿である、と聖書は言います。とすれば、自由な人間とは、欲望によって、またこの世の価値基準によってではなく、ただ与えられた「いのちのかけがえのなさ」によって、ものごとを判断し、決断できる人のことです。際限ない欲望やこの世の様々な基準によって縛られるのではなく、神から与えられたかけがえのないいのちを基準に、「このことはしよう」「あのことはすまい」と考え、イエスとノーをはっきり口に出して言うことのできる人のことです。不自由とは、ファミレスでたくさんの欲望=メニューに振り回されて迷うわたしのように、イエスとノーとがはっきり言えない状態のことです。
 わたしたちが本当に自由に生きようとするとき、欲望やこの世の基準によって生きることは、本来、ありえないことだとさえ言えるでしょう。なぜなら、それは自分で決断しているのではなく、ただ、この世の基準や欲望にずるずると誘われ、引きずられ、まさに「縛られる」ことだからです。そこに自由などありません。
 だからこそ、6節、「キリスト・イエスに結ばれていれば、割礼の有無は問題ではなく、愛の実践を伴う信仰こそ大切(なの)です」とパウロは言います。
 大切なことは、「愛の実践を伴う信仰」―「ただ愛によって働き、生きること」です。律法に基づいた割礼は、自分を選ばれた人間と見なし、人を裁き、差別し、排除する「しるし」でした。しかし、キリストに結ばれ、わたしたちのいのちゆえに与えられている自由は、わたしたちが、神に愛されている、かけがえのない存在であるということを、いつも思い起こさせます。その自由は、隣人の自由を尊重し、互いに神に造られた喜びにあずかろうとし、人を愛へと押し出します。
 この世の基準に縛られるとき、愛ですら、手前勝手な、惜しみなく奪う愛に早変わりしてしまうでしょう。ただ愛というだけであれば、その中には、自分勝手な独りよがりの愛も含まれるでしょう。自分にとって都合のよい、自分の欲望を満たしてくれる人を愛するだけの愛になってしまうでしょう。
 しかし、神の御子イエス・キリストに結ばれることでこの世のものから自由にされて、神の愛を信じるとき、わたしたちもまた、人を本当の意味で愛することができるようになれるのでしょう。
 わたしたちの自由が、誰から与えられ、何を目指す自由なのか、そのことを見失うことのないようにしましょう。わたしたちの自由は、このいのちゆえに、神の愛ゆえに、すべての人に等しく与えられたものです。そして、それこそが、わたしたちが本当の自由に生きるために選ぶべき、たった一つのメニュです。

お祈りします。主なる神よ、日々押し迫る、この世のしがらみ、出来事の中で、苦しみ、悩むわたしたちに、あなたから与えられている、まことの愛と自由に気づかせてください。その福音を告げるあなたのみ言葉、それだけが、わたしたちの救い、わたしたちの望みです。新しい週も、あなたの愛と自由だけを頼りに、歩ませてくださいますように。主の御名によって、アーメン。