福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

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10月4日 ≪聖霊降臨節第19主日礼拝≫ 『愛に触れ、見て、味わう―聖餐(2)』ルカによる福音書24章28~35節 沖村裕史 牧師

10月4日 ≪聖霊降臨節第19主日礼拝≫ 『愛に触れ、見て、味わう―聖餐(2)』ルカによる福音書24章28~35節 沖村裕史 牧師

■記憶を辿り直す
 8月30日の信徒研修会で学んだ、ウィリアム・ウィリモンの “Sunday Dinner” 『日曜日の晩餐』第1章は、こんな言葉で結ばれていました。

 「わたしたちの名によって、二人、三人と集まる者のところに、わたしたちは、彼らのただ中にいる。」(マタイ18:20)
 そうです、わたしたちがキリストにおいて兄弟姉妹と共に集まるとき、パンが裂かれ、祝福されるとき、パンとワインが与えられるとき、わたしたちは、主がわたしたちのただ中にいてくださることを、喜びをもって想い起すのです。あのエマオでの、日曜日の夕方の晩餐の時の最初の弟子たちのように、わたしたちの「目は開かれ」、そしてわたしたちは見るのです(ルカ24:31)。

 今朝の御言葉は、そのエマオでの出来事です。
 クレオパは、エマオに向かう道すがら、金曜日からの出来事を友人と語り合いながら、ヨタヨタと歩いていました。 暗い顔をして歩いていました。なぜなら、自分たちを救ってくれると期待していたイエスが、金曜日に惨殺され、しかもその遺体が消えてしまったからです。彼は、自分の見てきた「一切の出来事」から、彼なりの物語を、人生を作り上げて、悲しみに暮れていました。きっと、この自作の悲劇を何度も道連れに話しながら、エマオまで歩いてきていたのでしょう。実に惨めな昼下がりでした。ところがこのクレオパの行く道に、復活されたイエスがいきなり立ち現れ、 クレオパ自作の物語を聞こうと近づかれます。すると、クレオパは待ってましたとばかりに語り出します。
 「イエスさまが十字架にかかり、もう希望も何もありゃしない。それから三日たった今日、今度はイエスさまのご遺体がなくなったと、女たちが騒いでいる。しかも驚いたことに、天使が現れ、『イエスは生きている』と言ったというんだ。しかしあんた、本当かどうか分かりゃしない。それに…」。
 これを聞いていたイエスは、クレオパの物語を遮るようにして、イエスご自身の物語を、金曜からの物語を、クレオパとは違う別の角度から説明し始められます。
 イエスの語られる物語、それはクレオパのものと決定的に違っていました。大のおとなのクレオパたちが、「一緒に泊まってもっと話してください」と無理矢理引き止めるほどでした。そして、クレオパのそれと違い、イエスの記憶、物語は、神の栄光までも現わす壮大な物語でした。この三日間の出来事を、当時からさらに千年以上も昔の、モーセにまで関連づけてお話になりました。クレオパもイエスも、金曜日から日曜日までのエルサレムでの出来事は知っていました。二人とも、同じ三日間を同じ場所で体験していました。しかし、その同じ現場から語られた物語ははっきりと違っていました。
 クレオパはこの違いに強烈なショックを受けたに違いありません。その証拠に、イエスの新しい物語を聞かされたクレオパは、イエスを見失った後にこうつぶやいています。
 「道で話しておられるとき、また聖書を説明してくださったとき、わたしたちの心は燃えていたではないか」。
 今まで、ちっぽけな自作の物語に浸っていた人間が、神が示された新しい物語に触れ、心が燃えるほどに息を吹き返したのでした。クレオパはイエスの記憶、その物語を通して、初めて自分の人生に異質な物語が隠されていることを知りました。神の視点から見た「一切の出来事」を悟りました。クレオパの個人的な三日間の体験が、神の救いの歴史の中にはっきりと位置づけられたのです。例えて言えば、クレオパの「私小説」が、神の「大河ドラマ」の中に組み入れられたようなものです。個人的な悲しい思い出を綴ったわたしたちの記憶が、復活の出来事を通して示される「神の救いの歴史」という、イスラエルの、神の民の物語に書き込まれました。クレオパはイエスと出会い、自分の知っている「一切の出来事」を、個人の視点からではなく、聖書全体、神の救いの歴史全体から俯瞰することができたのです。このようにして、個人の閉鎖的な物語が壮大な神の物語の中に組み入れられるとき、人の「暗い顔」は消えてしまいます。そして「心が燃え」始めます。

■クレオパのようにあなたも
 誰にも、悲しい「金曜日」からの三日間の思い出があるものです。わたしたちはそれぞれに自分だけの物語を作って生きてきました。そして、その「自分が主人公の悲劇」を思い出しては、今日も確かにため息をついています。その意味でわたしたちはみな、クレオパのようです。エマオに向かって歩きながら、みんな暗い顔で生きています。夕方、街角に立ってみてください。無表情で家路に急ぐ女や男を観察してください。みんなそれぞれ、自分だけの物語に浸って、夕日を浴びて無口に歩いてはいないでしょうか。ああ、みんな、いったいどんな自分だけの物語を抱え、重い足をひきずるように歩いているのでしょうか。
 街角で家路に急ぐそんな時、イエスさまがわたしたちへ近づいてきます。わたしたちも「金曜日」からの自分なりの詳しい解説はいったん横において、そろそろイエスが語られる物語―「福音」に一緒に耳を傾けたいものです。わたしたちの物語を、せめて一日でもいい、横においてみましょう。そして沈黙しましょう。その代わりに、神が記憶してくださった神の物語に耳を傾けてみましょう。自分の身に起こっていたことを、神がどのように理解し、新たな物語を作っておられるのかを聞いてみましょう。もしも、この地上の文脈だけで理解していたわたしたちの人生が、神の国の文脈で理解されるようになったらしめたものです。聖書の物語の中に、わたしたち自身の姿を見出すようになったら、チャンスです。その時、わたしたちはたぶん、心が燃えます。無表情の暗い顔が、熱いいのちを発し始めることでしょう。
 クレオパ。イエスに巡り会い、自らの物語を捨て、神の物語を受け入れた人。そして自分だけの物語に別れを告げ、初めて心が燃え始めた人。その姿は、自分の記憶、思い出、人生に苦しみ、夕陽を浴びて家路に急ぐ、現代のわたしたちと何ひとつ変わりません。そんなわたしたちに、今ここで、イエスは出会い、福音の物語を語り掛けてくださるのです。

■愛のシンボル
 とはいえ、誰もが、このイエス・キリストとの出会いに気づくわけではありません。
 悩みを持つ人が「話を聞いてほしい」と、しばしば教会を訪れます。「暗い顔」をした人は、それぞれ地上の「一切の出来事」を自分の「物語」に作り変えて、延々と語り始めます。悲しみが始まった、それぞれの「金曜日」からの物語を、わたしにしんみりと朗読してくれます。そこにはその人なりに考えた世界が展開されていきます。それを聞きながら、わたしはためらいがちに答えます。「そう考えているのはあなただけじゃないの?もっと違う受けとめ方ができないかな。わたしはその出来事をこう見るけれど…」。そして付け加えてみます。「あなたの苦しみは、神から救われるための試練かもしれません。神の大きな救いの計画の中に、あなたの苦しみはすでに組み込まれています。その計画の中で、今回の苦しみを新たに、長期的に見直せないでしょうか」。こう言っても、ほとんどの人は受け入れてはくれません。たいていは、「あなたは、わたしのことが全然分かっていない!」そう言われ、泣かれたり、暴れられたりします。当たり前です。自分でも、そう言われたら暴れるかもしれません。そこでわたしはあきらめ、再び暗い物語を聞かされ続けることになります。
 しかし本当に稀ですが、わたしのひと言でスーッと変化していく人もいます。わたしが物語を告げ始めると、見る見る表情が変化する人がいます。クレオパのように暗い顔が消え、心が燃え始める人がいます。その人たちは自分の物語を、何かのきっかけで壮大な物語の中に組み入れることに成功したのでしょう。
 そのきっかけとは何でしょうか。シンボル、愛というシンボルとの出会いであるとウィリモンは言います。『日曜日の晩餐』「第2章 彼はパンを取り、それを祝福した」を、こう語り始めます。

 寒い、灰色の一月のある日、オフィスの窓の外をじっと見つめているとき、自分が結婚指輪を指の周りでぐるぐると動かしていることに気づきました。…それは、単なる一片の金属に過ぎません。外から見ている者にとっては、それが金でできているということ以上の価値など、どこにもありません。けれども、この孤独な寒い日に、たった一人、窓の外を見つめているわたしにとって、それは、ある人がわたしに抱いていた温もりのある、絶えることのない、明白な、目に見える、愛のシンボルです。それに値段などつけられません。
 何の関わりもない、外から見ている者にとっては、わたしたちが主の晩餐で分かち合うパンとワインは、ただそれだけのもの、まさにパンとワインに過ぎません。しかし、弟子たちにとって、その質素で日常のものが、絶えることのない、明白な、目に見える、神の愛のシンボルなのです。何の関わりもない、外から見ている者にとっては、イエスという男は、一世紀のユダヤの典型的な若い大工に見えるでしょう。しかし、弟子にとって、この男は、神の愛の、目に見えるシンボルです。…
 神はそのことをご存知です。聖書の中で神は、律法の言葉、預言者、イエスの説教、パウロの手紙を通して、「わたしはあなたを愛している」と言うだけではありません。神の愛は、しるしと、しるしとしての行いを通して示されます。「あなたがたは、布にくるまって飼い葉桶の中に寝ている乳飲み子を見つけるであろう。これがあなたがたへのしるしである」(ルカ2:12)。ベツレヘムの赤ん坊は、神が神の民を救うために働いてくださっている、というしるしです。
 愛はシンボルを通して示されます。結婚式では、一人の男と一人の女によって愛の言葉が語られます。…そして「結婚指輪は、内なる霊的な恵みの、外なる目に見えるしるしです」という宣言と共に、鐘が打ち鳴らされます。その指輪は、この男と女が結んだ契約、彼らの生活の中の最も深く、言い表すことの最も難しいものを示す、目に見える、明白なシンボルです。
 …たった一つのシンボルが、シンボルを持たない会話では言い表すことのできない現実の扉を押し開きます。シンボルについて語る以外に、一つのシンボルが何を表現しているのかを語る方法はありません。あなたが見たばかりの美しい絵について、一度もそれを見たことがない誰かに説明しようとしてみてください。あなたが昨日の夜、映画を見たときに感じたことを、それを見たことのない他の誰かに感じさせようとしてみてください。それは難しいのです。
 不幸にも、抽象的で、言語的な、言葉志向の文化の中で、わたしたちはしばしば、シンボリックな(象徴的な)ものの力を見過ごしにしてしまいます。プロテスタントは、「聖餐のパンとワインは、キリストの単なるシンボルに過ぎない」と語ります。単なるシンボルに過ぎないのでしょうか。この言い方は、シンボリックなもの以上のものがある、と言っているように思われます。…
 パレードで、わたしたちの国旗が通り過ぎるのを見たときにあなたの喉元に感じるしこり、あなたの結婚指輪を失くしたときに感じる空恐ろしいほどの喪失感、あなたの教会の尖塔の上に立っている十字架、さらに言えば、ナチスの鉤十字やクー・クラックス・クラン(KKK)の焼けた十字架など、あなたはこれらを、ただのシンボルに過ぎない、と言うことができるでしょうか。
 象徴するものに対して、透き徹るほどにはっきりとそれらを指し示す、それがシンボルというものの本質です。シンボルは、象徴するものの現実を呼び起こし、それをわたしたちに開示し、わたしたちが感覚でもってそれを受け取ることができるようにします。
 イエスご自身こそ、人間に対する神の愛を表現し、明らかなものとする、最高の、目に見える、明白なシンボルなのです。

■主の晩餐に臨在
 ウィリモンは、そのシンボルこそ「聖礼典(サクラメント)」だと言います。

 神の愛をシンボリックに証しするすべてのものの中で、最も力強く、まざまざとそれを呼び起こしてくれるのは、聖礼典(サクラメント)という神からの贈り物です。…聖礼典は、ご自身を与えてくださる神の愛の、目に見える、身体的な(物質的な)業です。…キリストはこう言われます、「パンを取りなさい。葡萄酒を取りなさい。これは、わたしの体であり、わたしの血、あなたを養うもの、あなたのいのちです」と。ご自身を与えられる愛です。…それこそ、愛の贈り物です。

 ウィリモンは、その上で「真の臨在」―聖餐について語ります。

 …キリストは、時と場所について言えば、今、ここにおられるのですが、何よりも大切なことは、主が、ひとりの人として、ひとりの友として、わたしたちに臨在しておられる〔今、ここに共におられる〕のだということです。
 真の臨在は、個人的、人格的な臨在です。わたしの友人がわたしと一緒にいる時、それはわたしにとって、彼がこの場所、この瞬間に臨在している〔共にいる〕ということ以上の意味を持っています。彼は、わたしのために、ここにいるのです。彼は、愛する者、愛される者として、ここにいるのです。
 時に、わたしの友人は、時間と空間を越えるやり方で、わたしと共にいます。例えば、友人が電話をくれるとき、彼はこの空間にはいませんが、彼はわたしのために、真実、いる者となっています。わたしが、散らかった引き出しをかき回して、ずっと昔のある冬のキャンピング旅行のときの、わたしと友人の古い写真を見つけると、突然、友人は、この時にも、この場所にもいないにもかかわらず、今、この場所に、親しくいてくれます。
 個人的、人格的な臨在は、時間と場所を越える、深く感動的な人との出会い、交わりをもたらします。…神はあらゆる時と場所にあまねく臨在(存在)している、とわたしたちは信じていますが、そのときに大切なことは、特定の、個々の神の臨在についての経験を、普遍的な臨在の中に取り込んでしまわないようにすることです。…わたしたちは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神の愛の中にいるのです。わたしたちは、ナザレスのイエスの、特定の、個々の臨在の中にいるのです。わたしたちは、いわゆる霊によってではなく、聖餐によって出会わされるのです。…

 今ここにも、イエス・キリストの愛がわたしたちのために、パンとブドウ酒として差し出されています。主の御体と御血を直に手に取り、この目に見て、この口で味わうことの幸いを皆様とご一緒に噛みしめたいと思います。

お祈りします。主イエス・キリストの父なる神、わたしたちはあなたの姿を、あなたの愛を見失ってしまう、愚かな者です。全く的外れのところで、あなたを捜し求めてしまいます。しかしあなたは、わたしたちが捜し求める前から、ずっと一緒に歩んでいてくださいました。あなたの愛を語りかけてくださっています。よみがえられて、わたしたちを背負うようにして歩んでくださいます。どうか、わたしたちがそのことに気づくことができますように。そのようにして、今日からの新しい一週間を歩むことができますように。この祈り、主のみ名によって祈り願います。アーメン