■世界の片隅
クリスマスとは、神がおいでになる、ことです。
クリスマスを前もって知っている人は、誰ひとりいませんでした。クリスマスは、神がご計画になり、神が実行されたものだからです。人は、誰もみな、不意打ちで慌てるばかりでした。こんな方法で神がおいでになると、一体誰が予想していたでしょうか。
それも、世界の片隅に、です。
さきほどお読みいただいた2章1節以下に、シリア、ユダヤのベツレヘムとあります。国際紛争が絶えず、そのため多くの人が難民として逃げまどい、目を覆い、耳をふさぎたくなるような争いと殺戮のシーンがニュースとして流されている中東地域です。しかし当時は、強大なローマ帝国に征服された小さな属国のひとつに過ぎませんでした。そのまた片田舎で、わたしたちのために神の救いが与えられるなど、考えられないことでした。
神がおいでになられたのは、誰も知らない、そんな世界の片隅でした。
■少女のところ
ただひとり、秘かに心を痛めていた人がいました。
ナザレの町に暮らすマリアです。マリアはヨセフの許嫁でした。当時、女性が婚約したのは14歳前後だと言われます。今日とは状況が違うとはいえ、まだ少女です。成熟した、分別ある、落ち着いた大人の女性というのではありません。ガリラヤという都エルサレムから遠く離れた地方の、それもナザレという小さな村に住む、どこにでもいるような少女に過ぎませんでした。わたしたちがイメージするような「聖女」ではありません。マリアについて、ヨセフという大工の許嫁とであった少女ということ以外、聖書は何も語りません。
神がおいでになったのは、そんな片田舎の、ありふれた少女のところに、でした。
■深い悩み
そのマリアが自分の体の異変に気がつきます。どうしてそうなったのか、自分では分かりません。ただその頃、自分の周辺に奇妙なことが起こっていました。親類のザカリアの妻、年老いたエリザベトが、それまでずっと子どもができなかったのに、突然、身ごもったのです。しかもそれがきっかけで、ザカリアは口がきけなくなったと言います。
マリアはその噂を聞いていました。それは、おめでたいことには違いないけれども、何だか恐いことでした。しかし今、自分の身に起ころうとしていることは、それよりもっと恐ろしいことでした。エリザベトは、年老いたとはいっても夫のある身です。子どもができるということがないとは言えません。しかし自分はまだ婚約中で、その人と一緒に暮らしてもいません。彼女はひとり悩んだに違いありません。その悩みはどんなに深刻であったことでしょう。
しかし神がおいでになったのは、その深い悩みの只中に、でした。
■クリスマスの驚き
マリアは、今夜ここに、神の救いが与えられるなど、考えもしなかったことでしょう。
クリスマスを迎えることの難しさが、ここにあります。
わたしたちは、クリスマスの喜びを当り前のことのように思っています。しかし、決して当たり前のことではありません。それは驚くべきことです。
今、ここに生まれる赤ん坊によって救いがもたらされると、誰が信じるでしょうか。信仰を持たない人だけではありません。信仰に生きている人も、クリスマスを本当に確かなこととして、信じているでしょうか。
人間のすることに、何の難しさも、驚きもありません。人間の予想もしないこと、人間にはとてもできないことを、神がしてくださっているということ、それが驚きです。
マリアが一番驚いたのは、自分にはあり得ないことだからです。
34節に「どうして、そのようなことがありえましょうか。わたしは男の人を知りませんのに」と書かれています。
ルカは、マリアの話だけでなく、エリザベトのこともここに一緒に記しています。そこにも、どうしてこんなことがあり得るだろうか、とありました。事情は違っても、絶対にあり得ないことがあった、ということです。
神がおいでになったのは、あり得ないと言うほかないその驚きの中に、でした。
■絶望と無力さ
あり得ないこと、それは、人間の目から見れば、絶望的だ、全く無力だということです。
マリアは、自分をどうすることもできませんでした。自分の恥を隠す術もなければ、それをどう処理していいか、全く分かりません。マリアは、自分に何の手立ても持ちえない、全くの無力さを感じていた、に違いありません。
このような無力さを感じるのは、マリアだけではないでしょう。皆が皆、容易ならぬ問題を抱えているというわけではないでしょう。しかし、にっちもさっちも行かない困難な問題に出会ったこともなければ、出会うこともないと言い切れる人もいないでしょう。むしろ、何でもないことのうちにこそ、重大な問題が潜んでいるものです。
たとえば、家庭の問題で、職場の問題で、あるいは経済的な問題から、心中したり、自殺したりする人は後を絶ちません。毎年、二万近くの人が自らのいのちを絶っています。今年は特に、コロナウィルスの影響から、若い人の自殺者が増えていると言います。
そういう話を聞くと、なぜ、だれかに相談しなかったかとか、話だけでもしてくれたらと、人は言います。しかしその人は、そのことの只中では、だれに話をする勇気も持てなかったのでしょうし、そういう力もなかったに違いありません。仮に話を聞いたとして、どれほど、その人が悩んでいるままを感じとることができるでしょうか。親切なつもりはあっても、人間の力では知り得ないことがあります。ましてや、親切が足りないとしたら、どうでしょう。後になって、相談してくれたらよかったのにと言われても、その時にはとても分かってもらえそうもないことを知っていて、話さなかったのかも知れません。人間と人間とのことなのに、人間が全く無力だとしか言えないような事情があるのです。
そのような、どう考えても人間の力ではどうにもならない無力さ、絶望の只中にこそ、クリスマスはやってくる、神はおいでになったのです。
■神に委ねる
人間の力ではどうにもならないという無力感や絶望は、神から離れてしまっているためだ、そう言ってもよいかも知れません。
誰ひとり、自分の意志で生まれ、自分の死ぬその時を知っている者はおりません。わたしたちのいのちはただ与えられたとしか言いようのないものです。それと同じように、最後の最後には、神に持って行くほかはないのが、わたしたち人間のいのちであり、人生です。それなのに、そうしようとしないために、手も足も出せない、どうしようもなくなるのではないでしょうか。
神のところに持っていく、任せることができれば、事態は、全く変わるはずです。そうすることで、重荷でしかなかったものによって、神の恵みを知ったという人は、ここにもおられるでしょう。治らない病気、解決のつかない問題、そういうものから、神の恵みを知った人は、決して少なくありません。
以前にもご紹介したことのある、ニューヨークのリハビリテーションセンター前に掲げてある一つの言葉をご紹介します。
大事を成そうとして、
力を与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く、従順であるようにと
弱さを授かった。
より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた。
幸せになろうとして
富を求めたのに、
賢明であるようにと
貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして、
権力を求めたのに、
神の前にひざまずくようにと
弱さを授かった。
人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに、
あらゆることを喜べるように
命を授かった。
求めたものは一つとして
与えられなかったが、
願いはすべて聞き届けられた。
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず、
心の中の言い表せない祈りは
すべてかなえられた。
私はあらゆる人の中で
最も豊かに祝福されたのだ。
そこまで至らないと、真の解決が得られないのです。すべてを神にゆだねて、どのことも神が人間に恵みを与えてくださる手段であった、ということに気がつくまで、救いはありません。そうでなければ、人間の失敗は、結局は失敗に終わり、その結果を正す道もない場合だってあります。失敗は、心をかえて出直せばいいと言っても、それではどうにもならない失敗もあり得るのです。
マリアの身に起こったようなことは、わたしたちには起こらないかも知れません。しかし、どうしてそんなことが、と言うほかないような、説明のつかない恵みは、わたしたちにも加えられるのです。ただ、それを恵みとすることができるかどうかだけです。
神がおいでになるのは、神の恵みに委ねる人の中に、です。
ただ、すべきことをして、与えられるべきことを待つ、これが、クリスマスを待つ信仰です。マリアのように全く受け身になって、御心のままになさってください、と祈ることです。そして、全く新しい心で、クリスマスの不思議さを見ることです。
お祈りします。神よ、あなたの言葉は、恵みの言葉です。その恵みの言葉が、今、このわたしにも与えられていることを感謝いたします。どのような時にも、あなたが共にいてくださって、あなたが恵みをお与えくださっていることを、マリアとともに、どのような時にも、いえ、苦しみと悲しみの時にこそ、希望を失うことなく、あなたの僕として聞き、受け入れていくことができますように。主のみ名によって。アーメン