≪式次第≫
前 奏 み言葉をください (小山章三)
讃美歌 8 (2,4節)
招 詞 詩編148篇5~6節
信仰告白 使徒信条
讃美歌 58 (1,3節)
祈 祷
聖 書 ルカによる福音書12章13~21節 (新131p.)
讃美歌 483 (2,4節)
説 教 「飢えている―聖餐(8)」 沖村 裕史
祈 祷
献 金 65-2
主の祈り
報 告
讃美歌 225 (1,3節)
祝 祷
後 奏 パスピエ (G.P.テーレマン)
≪説 教≫
■飢えている人々
今日も「聖餐」についてご一緒に学びます。ウィリアム・ウィリモンは、『日曜日の晩餐』第6章「飢えている人々は幸いである」の冒頭に、こんなことを書いています。
ウィリモンが、聖餐について、ゼミの学生たちに関心を持ってもらうためのよい方法はないだろうかと、カトリックの同僚に助言を求めた時のことです。
「料理クラスを教えることから始めたらいかがでしょう」
これが彼のアドバイスでした。驚きました。それが聖餐と一体どんな関係があると言うのでしょうか。
「なぜって」、彼はこう説明してくれました、「まず初めに、飢えている人々に良い食べ物を与える喜びを彼らが学ばない限り、確信をもって彼らがユーカリスト(感謝の聖餐)を導くことなどできないでしょう」
そう、イエスさまは、飢えの苦しみと食事による癒しの可能性をよくご存知でした。だからこそ、イエスさまは教え、癒しを行われただけでなく、「わたしはいのちのパンです。わたしのところに来る者は飢えず、わたしを信じる者は決して渇きません」(ヨハネ6:35)と言って、人々を養われたのでした。
イエスさまは、この世の飢えている人々と向き合うことになるご自分の宣教を始めるにあたって、弟子たちにこう約束されました。
「貧しい人々は、幸いである、神の国はあなたがたのものである。今飢えている人々は、幸いである、あなたがたは満たされる」(ルカ6:20b-21a)
イエスさまが「貧しい人々」「飢えている人々」と言われるとき、それは言葉の通りの意味でした。ところがマタイは同じ言葉を、こう書き記します。
「心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる」(マタイ5:3,6)
マタイは「心の貧しい人々」や「義に飢え乾く人々」と、言葉を付け加えることによって、イエスの言葉を精神的なものにしてしまった、そんな誤った推測をする人がいます。マタイの言葉は、実際の貧困や飢え、渇きといった、この世の、肉体的な欠乏とは何の関係もないのではないか、と言うのです。
しかしそうした解釈は、ユダヤ教の人間観、そして貧困や飢えの本質を、正しく捉えていません。一世紀のユダヤ人で、肉体と精神とを分ける者など誰ひとりいないでしょう。人の肉体と人の魂は、ひとつの人格の一部なのです。肉体に影響を与えるものは魂にも影響を与え、その逆もまたしかりです。
このことは、わたしたち自身の経験からも分かることです。胃が飢えれば、心も飢えます。貧しいということは、単に心や頭の中だけのことではありません。慢性的な貧困によって心がすさみ、様々なトラブルが引き起こされることはよくご存じのとおりです。現代医療もまた、1947年のWHO(世界保健機構)憲章の前文にあるように、精神的な健康と身体的な健康との繋がりをはっきりと認めています。食べ物や衣服や住む場所の貧しさは、まさに「心の貧しさ」です。その意味で、神の義―神の正しさ―を求めるということは、突き詰めれば、神がご自分の民のために備えておられる賜物に「飢え乾く」ということなのです。
とすれば、イエスさまが語っておられることは、現実の飢えや実際の物質的な貧困ではなく、内面的で曖昧模糊とした精神的な状況のことであると主張することは、明らかな誤りです。それは、わたしたちの礼拝を神の御心と向き合うよりも、むしろ神の御心から遠ざけるもの、まさに御心を観念的なものにしてしまう態度に過ぎません。
神がわたしたちの礼拝に望まれるものは何でしょうか。それは、パンのような、物質的で基本的なものです。霊的な行いを伴わない霊的な言葉に意味などありません。愛の行いを伴わない愛は愛ではありません。現代の多くの人にとって、精神的という言葉が「現実的ではない」という意味になってしまったことは何と残念なことでしょう!
「飢えている人々は幸いである」というこの言葉は、貧困が至る所で現実となっている人々に向けて、語られたものです。飢饉と飢餓によって、苦しみと痛みの内に、ゆっくりと死がもたらされる。そのことは、かつても今も、いつもあり得ることです。人は「パンだけで生きるのではない」けれども、パンなしに生きることもできないということを誰よりもよく知っている人々が、「パンだけで生きるのではない」というこの言葉を聞いていたのです。
そして「貧しい人々は幸いである…飢えている人々は幸いである…」とイエスさまが大声を上げ、放たれた言葉は、体と魂が貧困に喘いでいるこの人々に、腹が突き出て骨と皮になるほどの欠乏によって飢えているこの人々に、向けられたものでした。
わたしたちがこの言葉を読んでいる時にも、世界のどこかで、誰かが目を閉じ、飢えのために死んでいます。
■食べ物の聖性
そして今、わたしたち人間の基本的な飢えと欠乏感が、単なる食糧不足の中にではなく、むしろ、わたしたちの「貪欲な飽食」の中にこそ見えてきます。
わたしたちはどんな食べ方をしているでしょうか。沿道での買い喰い、電子レンジの一分ご飯、即席の朝食、画面に眼が釘付けになったままでがつがつと食べるテレビ・ディナーの社会です。その食事は、実に無残なものです。
多くの人にとって、食事はたった一人だけの寂しいものになってしまいました。都市化され、科学技術の進んだ社会では、ほとんどの人は、食べ物を生産し、それを整え、準備するという基本的な行為から、切り離されてしまっています。そのため、食べ物が、神からの贈り物、多くの人々の手による共同での労働の賜物、良き大地からの実りであるということを、わたしたちは見失っています。かつてあった和やかな食卓は今や、個人の、ばらばらな、プラスチックで包装された食べ物による「マック食卓」とも呼ぶべき、悲しい食卓になり下がってしまいました。
今漸く、多くの人たちが「我々は食べる存在である」ということに気づき始めています。人間的な関係へのわたしたちの飢えは、食べ、飲む、その姿の中に、すでに現れています。日々のパン、薄っぺらな一時の関係、無意味な活動のために、執拗な競争にイラつきながら、毎日の単調な仕事に縛られているとすれば、わたしたちがそう生きているのと同じように、イラつき、競争にさらされ、無意味にわたしたちが食べているとしても、驚くにはあたりません。
食べ物が肉体的な空腹を満たすように、それは精神的な空虚さをも満たすことができるのではないかという誘惑によって、わたしたちは「過食」「飽食」に走ります。インスタントのご飯やインスタントのポテトを食べるように、わたしたちは個人的な欠けのすべてを即座に満たそうとします。わたしたちは、セックス、友人、様々な体験を、あたかも道々食べるスナック、飲み散らかして返品することもできない缶の中の飲み物でもあるかのように、消費しています。飽食は、わたしたちの心の中の、より深い矛盾、恐ろしいほどの空虚さを明らかにしているのです。
イエスさまは、そんなわたしたちの思い煩いに気付いておられました。「だから、言っておく。命のことで何を食べようか、体のことで何を着ようかと思い悩むな」(マタイ6:25以下、ルカ12:22以下)。食べ物と飲み物のことを心配し過ぎてはいけないというこの警告は、食ベ物を確保する必要などないということではなく、思い煩い続け、物質的な事柄だけで頭がいっぱいになることで、次第に心まで疲れ果ててしまうことに注意を向けさせようとするものです。
過度に食べ物のことを思い煩うことへのイエスさまの警告は、マタイでは、「あなたは神と富とに使えることはできない」という宣言のすぐ後に続いて記されています。そして、ルカは今、この警告を、将来のためにたくさんのものを蓄え、用意することに取りつかれた金持ちの農夫のたとえの後に置いています。
■愚か者
ある金持ちの農夫が、たくさんの富を蓄えた後で、自分自身に向かって、こう呟きました。
「魂よ、安心しなさい、あなたには自分のために積み上げたたくさんの食べ物があるのですから、楽にしなさい―食べ、飲んで、楽しみなさい」(改訳)
物質的な所有物をため込むことで、平安を得ようとする彼は、「愚か者」と呼ばれます。イエスさまは言われます。
「あらゆる貪欲に注意をしなさい」
食べ物で飢えを解決することができるのだから、それをわたしたちの目の前に積み上げることで、わたしたちの飢えのすべてを終わらせることができるという考えに惑わされることのないようにしなさい。お金さえあれば、多くの問題、大抵のことは解決することができるのだから、そういうやり方で、すべての問題を解決することができる、そう考えることのないよう注意をしなさい、と。
食べ物やお金がもともと「悪い」というのではありません。また、食べ物やお金の「量」の問題でもありません。何をどれくらい食べるのかということより、どのように食べるかのかが問題なのです。
ギリシア語で「貪欲」は、「あまりにたくさん持つこと」を意味します。文字通りには、自分のためにあまりにも多くのものを持っている、という意味です。消費、贅沢嗜好、快楽追及の時代にあって、例えば「広告」は、これを吸い、あれを飲み、これを顔や脇の下に塗りさえすれば、わたしたちが求める友を、平安を、若さを、健康を、不老長寿を得ることができるかのように、わたしたちを惑わせます。
そんな欲深い、自己満足の風潮の中で、わたしたちは、他の人の必要に何の関心も抱きません。わたしたちは、他の人のものでさえ、人に与えようとしません。わたしたちは、神からの贈り物である、食べ物や物質的な財産を、あたかも、それらがわたしたちの私有物であるかのように取り扱います。
しかしイエスさまはこう言われました。
あなたが十分なごちそうを持っているのなら、何も持っていない者―貧しい人たち、体の不自由な人たち、足の萎えた人たち、目の見えない人たちを招きなさい(ルカ14:13-14)、と。あなたが祈るときは、一年分の食糧ではなく、日々のパンのことを祈り求めなさい(マタイ6:11)、と。
金持ちの農夫は、「神のための富ではなく、自分自身のための宝」を積んでいる、と言われます。物に対する貪欲、際限のない欲望は、単なる大喰らいというよりも、もっと根深い病、罪のしるしそのものです。そのことで、わたしたちが神よりも、神が愛している人々よりも、自分自身を愛していることが明らかになります。
■最後の日のように
人は、たくさんの食べ物、財産があれば、長く生きていける、と思っています。しかし、それは夢、幻想です。そんな夢や幻想を打ち破るもの、それが「現実」です。聖書は、そしてそこで語られる神の言葉は、そんな人間の幻想を破る、現実そのものです。金もうけや出世することしか見えない人は、キリスト教は、聖書は、現実離れして、夢や天国のことばかり言っているとあざ笑い、非難をします。しかし、事実は全く逆なのです。
誰もが、健康で長生きできれば、と願います。そして現代は、それが可能になりつつあるような時代です。しかし、どんなに科学が発達しても、人は必ず死を迎えます。神は言います。
「愚か者よ、あなたのいのち・魂は、今夜、取り去られるだろう」(改訳)
死は、いのちは、自分のもののようでありながらしかし、決してそうではありません。いのちは神のものであることが告げ知らされます。聖書の神とは、わたしのいのちの創造者、わたしの生と死の主です。ヘブライ人の手紙もまた、「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(9:27)と語り、生のただ中で、死の現実と彼方の世界に目を向けさせようとしています。
死に備えよ、というわけです。たとえ、どんなに老後の蓄えがあっても、この備えがなければ、本当に良い人生の旅とは言えないということです。
C.S.ルイスは、この人生の旅について、「わたしたちの父なる神はみもとに帰る旅の途中に居心地のよい宿をいくつか設けてわたしたちの心を安らわせてくださいますが、それを故郷そのものと取り違えることは決して奨励なさいません」と言っています。この地上での生活を否定的に考えているのではなく、そこには「幸せな愛の瞬間、美しい風景、すばらしい交響楽、友人との団欒(だんらん)」があると、その喜び、楽しみについても語っています。しかし、そこを「故郷そのもの(天国)」と考えてはいけないと言うのです。
では、どのようにして、父なる神のみもとである「故郷」に向かって旅をすればいいのでしょうか。それは、「今夜、あなたのいのちは取り上げられる」と言われる一日を、「最後の日であるかのように生きる」ことです。旅の終わりがいつかは分かりません。今夜かも知れません。
しかし不思議なことに、一日を「最後の日」であるかのように考えるとき、人生を前向きで、丁寧に生きることができるようになります。他の人への思いにも変化が起こり、隣人に優しい気持ちを持てるようにもなってくるでしょう。与えられたこのいのちを、誰もがすべて、神の愛の中に生かされ生きていることに気づかされるからです。
実にそれこそ、聖餐式の中でわたしたちが体験することです。いのち与えられ、罪赦され、生かされる恵みに身も心も満たされていることを、深く味わい知ることになります。感謝です。
祈ります。いのちの主よ。御子イエスが備えてくださる食卓は、わたしたちの心の奥底にある飢えが満たされる、喜びの食卓です。コロナが収束し、その食卓に共にあずかる日が一日でも早く訪れますように。今夜、あなたに召されても、とこしえのいのちに生かされていることを心から感謝することができますように。このいのちを、かけがえのない財産、あなたからの賜物として繰り返し受け取り直すことができますように。主の御名によって。アーメン