黙 祷
讃 美 歌 10
招 詞 ローマの信徒への手紙6章8~9節
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
交読詩編 118篇13~29節
讃 美 歌 575
祈 祷 ≪各自、お祈りください≫
聖 書 マルコによる福音書16章1~8節
讃 美 歌 329
説 教 「ガリラヤでお目にかかれる」
祈 祷
献 金 65-2
主の祈り 93-5A
讃 美 歌 407
黙 祷
≪説教≫
■これでおしまい?
イースターに与えられたみ言葉は、マルコによる福音書16章の1節から8節です。マルコによる福音書はもともと、この8節で終わりでした。9節以降の「結び一」や「結び二」が括弧の中に入れられているのは、それが後世ここに書き加えられたものであることを示しています。逆を言えば、9節以下の結びが書き加えられ、またそれが多くの写本に残されたのは、「この八節で終わりでは、いかにも拙い」、そう考えた人が多くいたということでしょう。その8節、
「婦人たちは墓を出て逃げ去った。震え上がり、正気を失っていた。そして、だれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」。
「逃げた」でおしまい。震え上がり、正気を失って、恐怖にとらえられた婦人たちは、逃げ出したばかりか、だれにも何も言わなかったとあります。白い衣を着た若者の姿で現れた神の御使いが、ペトロや他の弟子たちにこう告げなさいと命じられていたことさえ忘れてしまうほどに、気が動転し、恐怖に捉われていたのだということでしょう。「イエスさまが復活された。おめでとう」などと言える状況ではありません。恐れ慄き、逃げ帰って、自分たちの部屋に飛び込み、どうしよう、どうしようと小さくなって震えている婦人たちの姿が目に浮かんできます。
これでおしまい? これはいったいどういうことなのか。素直に考えれば、マルコは、婦人たちの逃亡と恐れ―この事実をそれほどまでに大事なこととして受け止めていた、ということでしょう。そして読むわたしたちにもその事実をしっかりと受け止めるよう期待しているということでしょう。マタイ、ルカ、ヨハネのように、福音書の最後にいくつもの復活の出来事を書き加えるのでなく、ここで立ち止まって、この恐れと慄きをこそ、「福音」として深く、しっかりと味わうよう求めています。
■驚き、不安、そして恐れ
実際、マルコはここに、婦人たちの驚きと不安とが徐々に大きくなっていき、ついには逃げ出さざるを得ないほどの恐れにとらわれていく様子を、実に簡潔に、また巧みに描いています。
日曜日の朝、闇に光が差し込み始めたその時、女たちは最初の驚くべき出来事を目撃します。大きな石が脇へ転がっていました。「石は非常に大きかったのである」というぎこちない表現が、石の存在が女たちにとってどれほど圧倒的なものであったのかを伝えています。それは、死んでしまった人と生きている人とを隔てる、圧倒的な「死」という現実です。自分たちの力ではとうてい取り除くことなどできない大きな石―絶望的なほどの深淵がそこに横たわっているはずでした。それが取り除かれていた。驚きました。
驚きながらも中に入ると、さらに驚くべき出来事に遭遇します。誰もいないはずの暗い墓の中に、浮かび上がるような白い衣を着た若者が座っていたからです。「婦人たちはひどく驚いた」の「ひどく」という言葉から分かるように、神の御使いとの出会いに女たちの驚きはさらに大きなものとなります。あらゆる可能性が尽きたと思われるその場所に、神の国が、神の御手が差し出されている。そう言うほかない出来事が、今、現実に起こっています。
ひどく驚く女たちに、神の御使いがさらなる衝撃の言葉を告げます。
「驚くことはない。あなたがたは十字架につけられたナザレのイエスを捜しているが、あの方は復活なさってここにはおられない」。
思いがけないこと、まったく予想もしていなかったことに遭遇するとき、人は恐れや不安にとらわれます。えっ、なぜ、と呟かざるを得ないような、不慮の事故や死、不意に襲いくる病に戸惑い、恐れや不安を抱きます。しかし今、それを遥かに超える驚くべき出来事に、わたしたちは向き合っています。わたしたちが普段「いのちの限界」として考える「死」、その「死の向こう側」まで突き抜けてしまうような出来事に遭遇しています。恐ろしいことです。絶対にあり得ないと思える出来事を前にしたときの恐れです。しかも、そこで神のみ声が聞こえてきます。
いのちの限界、死を突き破る神の言葉が、女たちの全存在を揺さぶり、その心に突き刺さるように触れます。興奮して、誰にでもしゃべって聞かせることのできることでありません。ただ沈黙するより他ないことが、今ここに起こっているのです。
■究極の救い
恐れ、慄く他ない「復活」の出来事が指し示していることとは何なのでしょうか。
それは、「人は死なない」ということ、わたしもあなたも決して死ぬことはない、そう言うと驚かれるでしょうか。しかし、それに気づいたとき初めて、人は生きる意味と喜びを知り、本当に生かされ生きる者となります。いつか自分は死ぬ、だれもがそう思っています。あまり考えたくない事実として普段は意識の外に追いやっていますが、「その日」のことは常に意識の片隅に潜んでいます。年とともに残り時間のことが気になり始め、死への恐れは日常のさまざまな場面に暗い影を落とし、ことあるごとにマイナス思考を産み落とします。「いくら楽しいことがあっても、どうせいつかは死ぬんだ」、「どんなに愛し合っていても、いずれはどちらか先に死んでしまう」、「やがてこの世から消えてしまう自分に何の意味があるのか」。しかし、「人は今生きていて、やがて死ぬ」という考えが、実はわたしたち人間の脳が作りだしたフィクションであることに気づくならば、そんな恐れも無意味になるのでしょう。
わたしたちの誰一人自分の意志、自分の力で、この世に生を享けた者はいません。いわば、わたしたちが生きているこのいのちは与えられたものです。聖書は、神がいのちを与えてくださったと教えます。いのちは神のものです。死は、そのいのちが再び神のもとに取り戻されるだけのことです。とすれば、死は終わりではありません。死は誕生です。新しい誕生と言ってもよいでしょう。人は、その生涯を完成させ、まことの自分を生きるために、「永遠のいのち」の世界、神のもとに生まれ出るのです。人は、今、現在を生きているつもりでいますが、実はまだ生まれてもいないのです。人が生から死へ向かっているというのは、「まことのいのち」を知らない傲慢な生物学上の見方に過ぎません。人はむしろ死から生へ向かっているのです。
人が生まれ出ていくその世界が、どれほど広く深く輝きに満ちているか、わたしたちには想像もつきません。胎児を考えてみてください。胎児にとっては母胎の中がすべてであり、外のことをまったく知りません。しかし、ひとたび生まれ出たなら、そこに果てしない青空と星空が広がり、さわやかな風と水があふれ、愛する人との出会いと交わりがあり、生きる喜びに満ちていることが分かります。それらは生まれ出る前からすれば、想像を絶する喜びの世界であるはずです。同じように、わたしたちが見たり聞いたりしているこの世のリアリティは、まことのいのちの世界から見れば、いまだ胎児の世界に過ぎないのです。だからこそ、今日の一日が尊いのです。胎児の間に、十分に母胎から愛と栄養を受け、かけがえのない自分として成長する日々があってこその誕生なのですから。
もし死が誕生でないなら、人にとって、今日の一日に意味はありません。とすれば、わたしたち人間に想像もつかないこの「復活」こそ、イエスがもたらしてくださる、究極の「救いの出来事」「救いの現実」です。
「イエス・キリストの福音」とは、人間としての限界からすれば、恐れを呼び起こさざるを得ないようなものです。振り返ればマルコは、この恐れを予感させるようなことを繰り返し語ってきました。イエス・キリストが神の子としてもたらされた福音の現実は、それを受け入れることのできない者には恐れをもたらします。だからこそマルコは、イエスに恐れを抱いた人々の慄き、悪霊たちの恐れについて書き記してきたのでした。その極まれるところ、そのクライマックスがここにあったのです。
■あのガリラヤで
婦人たちの恐れは、しかし、これで終わりではありません。
天使は、ペトロたちにイエスが復活したと告げなさい、と言われました。しかしペトロたちはもう逃げてしまっています。故郷のガリラヤに向かって帰って行っているのか、それともまだエルサレムに隠れているのか。いずれにせよ、ペトロたちは自分たちも捕らえられ厳しい処罰を受けるかもしれないという不安にかられ、あるいは絶望にとらえられ、あるいはまた深い疲労にも似た徒労感に身を包まれ、俯くようにして逃げてしまったのです。
わたしたちと同じだ、女たちはそう思ったでしょう。復活された主がガリラヤに行って待っておられる、そう告げるようにと言われました。しかし、復活の主がペトロたちにお会いになる時に起こるだろうそのことを思って、女たちは恐ろしくて震え上がり、口を利くこともできなくなったのではないでしょうか。…神に対する取り返しのつかない罪をあの弟子たちは犯した、いえ、このわたしたちだってそう。イエスを愛していた。だからこそひたすら慕い焦がれて、その体にすがりつきたいと墓まで行った。けれども、イエスが「わたしはよみがえる」とはっきり言われたのに、わたしたちもそれを信じてなどいなかった。とんでもない罪を犯してしまったのではないか。不信仰の罪が神の御前にさらされる時、どんな審きが下さるだろうか…そう思い、震え上がりました。我を忘れるような恐れに満ちたのは当然のことでした。
イエスの御言葉を見失う、わたしたちの罪が見えてきます。イースターの喜びの日にまた罪の話かと思われる方もおられるかもしれません。しかし教会で語られる罪とは、何かわけもわからない、因縁、宿業といったようなものではありません。罪と訳されるギリシア語は、的外れを意味する言葉です。聖書が語る罪とは、わたしたちが的外れな生き方をしていることを指しています。では、どんな的をはずしているのか。「神の愛」という的です。聖書の神は、わたしたちにいのちを与え、わたしたちがあるがままの姿で受け入れ、罪赦して、こよなく愛してくださる方です。ですから、わたしたちがその神の愛を見失って、自分たちの考えや思いだけで、自分をそして人を傷つけたり、損なったり、否定することを善しとされません。あるいは神の審きにだけ心奪われて、神の愛を受け入れることができないために、自分を愛することも人を愛することもできず、絶えず恐れ、おびえて、自分も人をも裁いてしまう、それこそが罪です。
そんな弟子たち、女たち、そしてわたしたちに、「あの方は死者の中から復活された。そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれる。そこでお目にかかれる」という言葉が告げられます。
ガリラヤとは、イエスと弟子たちが初めて出会った、思い出深い場所です。イエスは、新しく誕生し、出発し直す場所として、初めて弟子たちと出会った、あのガリラヤを指定されたのでした。関係のこじれた恋人同士が、もう一度やり直すために初デートの場所に二人で戻ってくるように、怪我をして現役をあきらめかけた選手が、もう一度夢を確認しようと初めてサッカーボールをけった小学校のグラウンドを訪れるように、弟子たちもまことの弟子として新しいいのちを生き始めるために、もう一度ガリラヤに帰るようにと心から招いてくださっているのです。
神のみ許へと召された多くの友がいます。ともに主の食卓にあずかり、永遠のいのちをいただきながら、地上のいのちを終えた方々です。その友はもうここにはいません。しかし主はここにいない、そう若者が告げたのと同じ意味で、わたしたちはその人たちのことを確かな望みをもって思い起こすことができます。この世界に生きるわたしたちはみな、今もこれからも、いつも主とともにあり、主によって与えられたいのちをかけがえのないものとして生きることを許されているのです。今日、イースターの幸いを共にすることができることに感謝いたします。
お祈りをいたします。主イエス・キリストの父なる御神、主の甦りのいのちを、今高らかに歌うことができ、感謝いたします。今こそ、心をひとつにして、甦りの主を信じる慰めが深くあるようにと祈ります。わたしたちを御霊と御言葉をもって支えてください。主イエス・キリストのみ名によって祈ります。アーメン