福岡県北九州市にある小倉東篠崎教会

【教会員・一般の方共通】

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4月26日 ≪復活節第三主日礼拝≫ 『よいものをくださる』 マタイによる福音書7章7~12節 沖村 裕史 牧師

4月26日 ≪復活節第三主日礼拝≫ 『よいものをくださる』 マタイによる福音書7章7~12節 沖村 裕史 牧師

黙   祷
讃 美 歌 12
招   詞 エレミヤ書29章12~14節
信仰告白 信徒信条 (93-4B)
交読詩編 107篇1~22節
讃 美 歌 323
祈 祷 ≪各自でお祈りください≫
聖 書 マタイによる福音書7章7~12節
讃 美 歌 478
説 教「よいものをくださる」
祈 祷
献 金 65-2
主の祈り 93-5A
讃 美 歌 490
黙 祷

≪説教≫「よいものをくださる」

■もうすでに

最後の12節はいわゆる「黄金律」と呼ばれるものですが、今日の言葉全体には、言葉にならぬ輝き、黄金のような輝きがあります。神と人との間には何の隔ても、遮るものさえないとの、まことの魂の故郷からの、天からの言葉だと申し上げてもよいかも知れません。

 「求めなさい。そうすれば、与えられる」に続く、7節のそれぞれの文章の時制はすべて未来形です。正確に訳すなら「求めなさい。そうすれば、与えられることでしょう」となります。ところが、それに続く8節ではすべてが現在形に変わります。「求める者は受け、探す者は見つける」をそのままに訳せば、「求める者は今ここで受け取り、探す者は今ここで見出す」です。そう、求めることと受け取ること、探すことと見つけること、扉を叩くことと開かれること、それら二つの行為は密接な関係にある、いわば表裏一体のものです。つまり、求める者は誰であれ、もうすでに受け取っている、探す者は、もうすでに見つけている。叩く者は、もうすでに開かれている、イエスさまはそう言われるのです。

 驚くべき福音の言葉です。

■だれでも

何より驚くべきは、イエスさまが今、「求め、探し、叩く」ようにと勧めるこの祈りに、何の条件も少しの限定も設けておられないことです。

  当時のユダヤ教のラビたちは、このような祈りに具体的な条件を付け加えていました。「正しい者(=義なる人)の祈りだけに、またその願いが適切な祈りだけに、神は応えてくださる」と。わたしたちも祈るときに同じような条件を加えてはいないでしょうか、「篤い信仰をもって祈る者だけに、神は応えてくださる」と。あなたの祈りが叶えられないとすれば、それはあなたの信仰が本物ではない、少なくともあなたの祈りが間違っているからだと言ってみたり、言われたりします。事実、そんなふうに自分のことを責めます。イエスさまの言葉にそうした条件を付けることによって、イエスさまの語られた黄金のような約束、驚くべく福音はしばしば、わたしたち人間の行為と振舞に依存するものへと変えられてしまいます。
 
  しかし、イエスさまはここに、条件も制限もまったく付けておられません。イエスさまはいったい誰に対して、これほどの法外な約束をなさっているでしょうか。8節冒頭で、「だれでも」と言われます。そう言われるからには、この約束から漏れている者などひとりもいない、ということです。口語訳聖書では、「すべて」と訳されていました。すべての人に向けて語られた言葉です。「だれも」自分を括弧に入れることはできません。わたしたちの「すべて」がすでに、この驚くべき約束の内側に招き入れられているのです。洗礼を受けている者もいない者も、今日ここにいる者もいない者も、そのだれもが、すべての人が、この約束のもとに置かれています。

  今、もうすでに、あなたの求めが聞かれ、あなたが探しているものが見つかり、あなたが叩いているその門が開かれています。与えられず、見つからず、開かれないということはない、そうイエスさまは宣言されるのです。

■傍近くに

今わたしたちは、誰にでも通じる、倫理的な処世訓のようなもの、一般的な法則のようなものを教えられているのではありません。ましてや、「強い思いをもって願えば必ず叶う、自分の思いを信じて!」といった、現代人が好むサクセス・ストーリーの秘訣、成功のためのノウハウを教えられているのでもありません。

今朝の言葉は、神の御国(=救い)を心から待ち望んでいた弟子たちに向けて語られた、「山上の説教」の最後の章に置かれています。とすれば、これも神の御国を宣べ伝える言葉です。イエスさまは、自分たちのいのちのことで思い悩んではならない、なぜなら神様は求める前から人が何を必要としているのかをご存じなのだから、と教えておられました(6:8)。言い換えれば、神の国が今ここにもたらされているのだから、神様は「いつも傍近くにいてくださる」のだから、ということです。だからこそ、求めなさい、探しなさい、叩きなさい、と言われるのです。神様が遠く離れておられるからそうしなさいというのではありません。神様が傍近くにいてくださるから、です。アウグスディヌスがこう書いている通りです、「我々が自分自身にいるより、主は我々のもっと近くにいてくださる」。

イエスさまは天の父を指し示されます。あなたたちには天の父がおられる。あなたたちの願いに耳を傾けている方がおられる。その父なる神があなたの求めに応えてくださる。あなたが探しているものを見つけてくださる。あなたが叩く門を開いてくださる、と。

■神への信頼

とすれば、「求めよさらば与えられん」とは、努力すれば必ず実を結ぶ、強く願えば叶えられるということではなく、それは、神様との人格的な出会いの問題となります。生ける神がわたしたち人間をじっと見つめておられる。天の父は、わたしたち人間のどんな小さな願いも、決して見過ごしにされない。今朝の言葉は、生けるお方との出会い、信頼、信仰への招きの言葉なのです。

  だからこそ、イエスさまは弟子たちに思い悩む必要などない、あの空の鳥をごらんなさいと言われました。空の鳥、例えば雀は、種を蒔きませんし、刈り入れもしません、納屋に収めることもしません。しかし、天の父は「彼らを養われる」(6:26)のです。

  最初に遣わされた教会に保育園がありました。その園庭にたくさんの雀たちがやってきていました。パンくずや米を与えていたからです。その中に、まだ幼くて小さな、とてもかわいい一羽の雀がいました。ある日のこと、その子雀が水のいっぱいに入っている甕のふちにとまって、水の中を一生懸命に覗き込んでいます。ほんの数分後、何の気なしにその甕の方を見ると、その子雀がいません。どうしたんだろうと甕に近づいてみると…水の中でおぼれて死んでいました。胸が張り裂けそうでした。小さな雀はとても幼く、名前もまだ付けていませんでした。貧弱なその身体を手のひらに乗せ、園庭の片隅に穴を掘ってそこに葬ったとき、イエスさまの言葉が浮かんできました。

  「五羽の雀が二アサリオンで売られているではないか。だが、その一羽さえ、神がお忘れになるようなことはない」(ルカ12:6)。

  「その一羽さえ」です。神様は、すべての雀をご覧になっておられるのです。神様のまなざしは、ひとつひとつのいのちに固有の意味と価値をお与えになります。その固有の意味と価値は、死によって失われることはありません。たとえ、わたしたちが終わりを迎えても、神が傍近くにいてくださることは終わりにはなりません。 だからこそ、イエスさまは弟子たちに思い煩うなと教えられます。イエスさまご自身、終わりの時まで神の御国を祈り、求められました。

  「アッバ、父よ、あなたは何でもおできになります。この杯をわたしから取りのけてください。しかし、わたしが願うことではなく、御心に適うことが行われますように」(マルコ14:36)。

  イエスさまは、苦しみから救われたい、そう「求められました」。しかし、そう求めたすぐ後で、イエスさまは、心からの信頼をもって、神の御心に我が身を委ねられました。

■父の心

「コーラム・デオ」という言葉があります。「神の御前に」という意味のラテン語です。わたしたち人間の生活は隠れることなく、いつも神の御前にある、ということです。教会にいる時だけ、神の御前にあるのではありません。たとえ教会に集まって礼拝を守ることができなくとも、自宅で礼拝を守る時にも、わたしたちは神の御前にある。24時間、365日、いついかなる時もどこにあっても、神の御前にあり、神との交わりに生かされ生きるわたしたちなのだ、ということです。

  身の引き締まるような言葉ですがしかし、わたしたちがその御前にある神の御顔とは「父」の顔だ、イエスさまは今、そう言われます。だれでも、すべての人が例外なく置かれている神の御前とは、わたしたちの父の前なのだ、と教えるのです。

  「まして、あなたがたの天の父は、求める者に良いものをくださるに違いない。」

  イエスさまが、ここで指し示されるのは、「あなたがたの天の父」、他のだれでもない、このわたしたちの「父でいてくださる神」です。そのお方は、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたに必要なものをご存知なのだ」と言われた父であり、善人にも悪人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる、と教えられた父です。その他のだれでもなく、あなたの天の父が、あなたにまなざしを注ぎ、あなたの願いに耳を傾けてくださっている。だから、求め、探し、門を叩きなさい。そうすることが許されていると、わたしたちの祈りを励ましてくださるのです。

  そんな天の父の姿に、詩人、八木重吉の詠んだ「子どもが病む」という小さな詩が重なります。

  こどもが せきをする
  このせきを癒そうとおもうだけになる
  自分の顔が
  巨きな顔になったような気がして
  こどもの上に掩いかぶさろうとする

  子どもが咳をしています。なかなか止まりません。五回、六回、七回、八回と連続で咳をする。大したことのない風邪だと分かっていても、万一、このまま窒息してしまわないか、と心配になります。どうにか咳を止めてやれないかと、ジーッとこどもを見ます。苦しくないか。ゼーゼー言ってないか。うなされていないか。そうやって、ジーッと布団のこどもを見つめていると、なんだか自分の顔が大きくなって、こどもを包み込むようにして見ているような思いになってくる。それが親心です。神の御心です。

  コーラム・デオとは、神の御前に隠れるところなく在るということをわたしたちが知る前に、神様が先に、わたしたちを見つめていてくださっているのだ、ということです。神様がそっぽを向いておられれば、御顔の前に生きることなど、そもそも成り立ちません。けれども神様は、わたしたちを、今も見つめておられるのです。だからわたしたちの方も、コーラム・デオ、神の御前に在るということが分かるのです。この順序は逆転しません。

■よいものを

じっと見つめてくださっているそんな神様の姿を知るために、イエスさまは、こどもの頃の父親の姿を思い出してごらん、と言われます。

  「あなたがたのだれが、パンを欲しがる自分の子供に、石を与えるだろうか。魚を欲しがるのに、蛇を与えるだろうか。このように、あなたがたは悪い者でありながらも、自分の子供には良いものを与えることを知っている。」

  悪人であっても、自分のこどもにはよいものを与えたいという親心。全身が顔のようになって、咳き込むこどもを見つめる親のまなざし。神様はそのように、わたしたちを覆うようにしてのぞき込んでくださる天の父なのだ、と言われます。

  だから、わたしたちは、この天の父に祈り願う時、間違った祈りをしているのではないかと神経質になる必要などありません。神様とわたしたちとの関係は、父と子の関係だからです。

  ここには「誰が」という条件も「何を」という条件もありません。もちろん父は、こどもの求めを何でも100パーセント正しいとはしないでしょう。こどもの求めが不平不満の類のもので、その求める通りのものを与えてやることが間違っているとき、そのことに父親はきっと気付くでしょう。それでも、こどもが正しいものを求めていないことに気付いたとしても、親がそれをまったく無視するということはないでしょう。むしろその求めが間違っていればいるほど、そのこどもの言葉に注意深く耳を傾けようとするに違いありません。なぜそんなものを求めてしまうのだろうか。この子の心はどこに向かっているのだろうか。父親はいよいよ注意深く、その求めに耳を傾けるに違いありません。

  本当に、本当に求めているものを見極めるためです。求めているわたしたち自身が気付いていない、本当の飢え渇きを満たすためです。
  イエスさまは、天の父に求めたものが必ず与えられる、とは言われません。注意深く、天の父は求める者に「よいもの」をくださる、と言われます。わたしたちよりもわたしたちのことをよくご存知の方が、わたしたちのために「よいもの」を与えてくださるものです。本当によいものをです。

  だからこそ、正しい求め、誤った求めが当然あるにしても、わたしたちからは、この祈り求めは正しいか、正しくないか、あれこれ考えずに、単純に祈り求めてよいのです。天の父はその御手で、わたしたちも、この世界をも統べ治められる方です。どんなにわたしたちが御心から逸れて、ボロボロに傷つくような道を選択し続けても、必ず、よい道に連れ帰ってくださいます。神様は、わたしたちの罪からでさえ、よいものを生み出してくださるのです。

お祈りします。天の父よ、あなたはわたしたちのどんな罪も赦してくださいます。不平不満のつぶやきに過ぎないわたしたちの願いにも真剣に耳を傾けてくださいます。わたしたちは、あなたの御前で泣き叫ぶ赤子のように自由です。だからこそ、あなたにより頼みます。天の父であるあなたが、今もこれからも、わたしたちのために、わたしたちの助け主として、わたしたちを担っていてくださることを、見失うことのないようにしてください。主の御名によって祈り、求めます。アーメン